神聖ローマ帝国の最後 ・ 皇帝自ら帝冠を脱ぐ

みなさんこんにちは。

1789年のフランス革命の勃発と、その後のナポレオンの出現によって、今やヨーロッパは一大転換期を迎えようとしていました。この革命によってフランスが共和制国家となる事は、ハプスブルク家のオーストリアをはじめとする全ヨーロッパの君主国に対する挑戦であり、断じて認める事は出来ないものでした。またこれらの国々の王侯たちが何より恐れたのは革命の波及が自国にも及ぶ事で、フランス王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットの様に、民衆によって処刑されるかも知れないという言い様の無い恐怖感が王侯たちの中に渦巻き、彼らはフランス革命政府を叩き潰すべく、同盟して一斉にフランスに攻撃を仕掛けたのです。

「どうと言う事は無い。 革命政府など潰してしまえば良いのだ。 その後でフランスの領土をみなで山分けにすれば良い。」

という訳です。

これらの国々は一致団結して「対フランス大同盟」を結成します。この同盟に参加した主な国はイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、スウェーデンなどで、1793年の第一次からナポレオンの失脚に終わる1815年の第七次まで7回も結ばれ、ヨーロッパは通算20年以上に及ぶ「ナポレオン戦争」の渦に巻き込まれていきます。


正にフランスにとっては国家存亡の危機です。しかしこの時フランスには若き将軍ナポレオン・ボナパルトが頭角を現し、巧みな戦術でこれらの敵を次々に撃破してフランス民衆から絶大な支持を得るとともに、脆弱な政府を倒して自らの政権を樹立し、フランスの実権を握ります。

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上が有名な「ナポレオンのアルプス越え」を描いた肖像画です。ナポレオンがお気に入りの宮廷画家ダヴィッドに描かせたもので、彼を描いた最も有名な絵ではないでしょうか。白馬にまたがり、颯爽と軍勢を指揮する勇ましい姿ですが、良く見ると人物と馬の大きさがおかしいですね。乗馬の経験があれば分かりますが、どんなに足が長い人でもここまで足を折り曲げた状態にはなりません。それに現実にはアルプス越えの際にナポレオンが乗っていたのは「ロバ」だったそうです。(これは明らかにカッコ良く誇張して描き過ぎですね。 ナポレオンの性格からして無理からぬ事ですが、ダヴィッド画伯の苦労が偲ばれます。 笑)

さて、ナポレオンがフランスの新たな指導者となっていた頃、オーストリア・ハプスブルク家の皇帝はフランツ2世という人物でしたが、彼をはじめとする対フランス同盟軍はナポレオンの活躍によって連戦連敗を重ね、逆にそれがナポレオンに権力の階段を登らせる事になってしまいます。

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上が皇帝フランツ2世です。(1768~1835)彼は神聖ローマ皇帝ではありましたが、すでにその帝位は何の価値も無いものになって久しいものでした。

1804年、ナポレオンはついにそれまで誰も考えも付かなかった計画を実行します。 彼はなんとフランス民衆の絶大な支持を背景に、議会の議決と国民投票を経て、ナポレオンとその子孫に世襲でその位を継がせる「フランス皇帝」の地位についたのです。これによりフランスは帝政となり、ボナパルト朝フランス帝国なるものが成立します。(いわゆる「第一帝政」というものです。といってもナポレオン一代限りでしたが・・・。)

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上が皇帝となったナポレオンと、その戴冠式の様子を描いた絵です。

このナポレオンの皇帝即位に、「本物の皇帝」であるフランツ2世はもちろん、ヨーロッパ中の人々が驚愕しました。なぜなら「フランス皇帝」などというものは、今まで誰も見た事も聞いた事も無いものだったからです。

ヨーロッパの人々にとって、「帝国」とは「ローマ帝国」の事であり、「皇帝」とは「ローマ皇帝」を指すものでした。そのローマ帝国も、その系譜を引き継ぐ直系の東ローマすなわちビザンツ帝国もとうに滅び去り、ヨーロッパにおいて帝国とその皇帝といえば、ローマ教皇庁が自身の権威付けのために、当時興隆していたカロリング朝フランク王国を利用して復活させた西ローマ帝国の後継である東フランク王国から発展した「神聖ローマ帝国」の事でした。(実際には、はるか東の辺境にオスマン帝国とロマノフ朝ロシア帝国がありますが、オスマンは異教徒イスラムであり、またロシアの場合はロマノフ家が先に述べたビザンツ帝国の最後の皇帝家であるギリシャのパレオロガス家の皇女を皇妃に迎え、ゆえにロシアがローマ帝国の継承者であるとかなり「苦しく」自称しているに過ぎないものでした。)

ナポレオンは、自分の帝位はこれらの古い皇帝の概念とは違い、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たないものであるとして、自らの皇帝即位が全く新しいものである事を内外に宣言したのです。

この「新しい皇帝」ナポレオンに対し、「古い皇帝」フランツ2世は初めは怒りを覚えましたが、すぐに別の考えが閃きます。 それは彼もナポレオンのマネをして全く新しい「オーストリア皇帝」となる事です。彼は神聖ローマ皇帝ではありましたが、彼の帝位は神聖ローマ帝国というもはやとうに実体の無い名ばかり国家のものに過ぎず、当然何の実権もありません。「ならばこんな帝位など捨てて、自分もナポレオンの様に自分の国オーストリアの皇帝になって何が悪いというのだ。」というのです。

フランツ2世はこう決心すると、ナポレオンの皇帝即位から3ヶ月もしないうちに、「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位してしまいました。

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上が「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位したフランツ2世です。 ここで彼が「1世」を名乗っているのは、オーストリア皇帝としては彼が初代であるからです。

こうしてヨーロッパに皇帝が3人も並ぶ、世にも奇妙な事態が発生しました。ただしここで間違えてはいけないのは、フランツ帝は神聖ローマ皇帝の位もすぐに捨ててしまったわけでは無いという事です。その間にもナポレオンとの戦争は続いており、帝国内のドイツ諸侯を味方にしておく必要があったからです。 しかしナポレオンとの戦いはオーストリアの敗北に終わり、1806年7月に帝国内のドイツ諸侯16カ国がナポレオンの圧力に屈し、「ライン同盟」を結成して神聖ローマ帝国からの離脱を宣言してしまいます。

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上の図の一枚目がナポレオンの最大勢力範囲で、二枚目がライン同盟を結んで帝国から離脱したドイツ諸侯です。ドイツのほとんどが帝国から離脱した事がお分かりいただけると思います。

もはやドイツ神聖ローマ帝国の維持は完全に不可能となりました。事ここに至り、フランツ帝は神聖ローマ皇帝の退位と、帝国の解散を決意し、次の様な宣言を発しました。

「朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたものと見なし、これにより、朕とドイツ神聖ローマ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そしてその他全ての帝国の構成員に対し、帝国法によって定められた全ての義務を解除する。」


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上がフランツ2世の神聖ローマ皇帝退位と帝国解散の宣言書です。これが、ヨーロッパ中央部に800年以上に亘って君臨した大帝国の最後でした。 そしてさかのぼる事800年以上前の962年、初代皇帝オットー大帝の即位によって成立して以来、4つの王朝と40人の皇帝が君臨した世界史上稀に見るユニークな国家「神聖ローマ帝国」はここに正式に滅亡したのです。

このテーマの第一回冒頭で述べた様に、この神聖ローマ帝国の歴史はそれそのまま古代ローマ帝国滅亡から千年続いたヨーロッパ中世の歴史そのものであり、この帝国の歴史を学ぶ事はヨーロッパ中世の知識を網羅して学ぶ格好の材料と思います。 この神聖ローマ帝国の歴史はここで終わりますが、当ブログの今回のテーマである神聖ローマ帝国の記事は全部で48回もありますので、歴史好きの方などがコーヒーでも飲みながら暇つぶしに読んで頂いたり、大学生などの若い方のレポートなどに活用して頂けたら嬉しい限りです。

次回から、帝国のもう一つの主役であるハプスブルク家のその後を番外編の様な形で始めたいと思いますので、ご興味のある方は立ち寄ってみてください。
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