ナポレオンの失脚 ・ 外相メッテルニッヒとウィーン会議

みなさんこんにちは。

今回から新たなテーマとして、 「ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国」 と題して神聖ローマ帝国滅亡後のハプスブルク家の辿った歴史についてお話したいと思いますので、ご興味のある方は暇つぶしにお立ち寄りください。

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このハプスブルク家とハプスブルク帝国について詳しくお知りになりたい方は上の3冊をお薦めします。ヨーロッパ最大の名門王朝である当家について知るには、とても1冊程度では全貌を把握出来ません。ハプスブルク家研究の権威江村洋先生の文庫を読みつつ図説で照らし合わせると理解が早いでしょう。3冊目は自分が個人的にお薦めするのですが、始祖ルドルフ1世に始まるほぼ全てのハプスブルク家の人々の肖像画や写真がフルカラーで掲載されており、資料としてとても優れた貴重な本です。

時は19世紀初頭の1812年、フランス革命後の大混乱の最中に彗星のごとく現れ、数々の戦いに勝利してフランス皇帝に即位したナポレオンは、その権力の絶頂期を迎えていました。 今や彼のフランス帝国はヨーロッパの西半分をその領土とし、さらにヨーロッパ中央部に800年以上の長きに亘って存在したドイツ神聖ローマ帝国を崩壊せしめ、その皇帝家として君臨していたハプスブルク家のオーストリアを破り、さらに強力な新興軍事国家であったプロイセンをもその支配下に置いて、ナポレオンの勢力範囲ははるか東のロシアと国境を接するまでになっていました。

しかしそのナポレオンにとって今だに大きな脅威が海の向こうにありました。 それは彼の、いやフランスにとって永遠の宿敵イギリスの存在です。 ナポレオンはまだ誰も成功した事の無いこの「イギリスの征服」を自分の手で完成させることを望み、その第一段階として全ヨーロッパに「大陸封鎖令」を出し、イギリスを海上封鎖する作戦に出ました。

しかし、東の大国ロシアがこの命令を拒否してイギリスとの貿易を続行したため、激怒したナポレオンはロシア遠征を決意、1812年6月総勢70万という史上空前の大軍を持ってロシアに侵攻しました。

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上がナポレオンのロシア遠征の様子を描いた図です。 この時の遠征軍の兵力はフランス軍45万、その他ナポレオンが従えた国々の兵25万からなり、迎え撃つロシア軍は総勢90万という歴史上最大のものでしたが、結果はロシア軍の焦土作戦とロシアの猛烈な寒さによってフランス軍は大敗を喫し、参加兵力70万のうち、無事に本国に退却出来たのはわずか2万2千という見るも無残な大失敗に終わりました。

このロシア遠征の失敗はナポレオンの運命を決定付けます。 彼の敗北を知ってそれまで力ずくでナポレオンに従わされていた国々が一斉に反旗を翻し、同盟してフランスに攻撃を仕掛けてきたからです。これら同盟軍の兵力は総勢50万を越え、ロシア遠征によって多くの兵力を失っていたナポレオンの兵力は10万に満たず、1814年3月には首都パリが陥落してナポレオンは退位を余儀なくされます。

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上がこの時のナポレオンの姿を描いた肖像です。 この絵を見てしまうと失礼ながら大きく幻滅せざるを得ないですね。 彼はこの時45歳でしたが、すっかり太って頭も禿げ出し、表情も度重なる敗北と味方の裏切りによって、下に載せた若い頃の肖像の様なスマートで勇ましい精悍さが失われています。

同年4月、ナポレオンは退位してエルバ島に追放され、ついに彼に勝利したヨーロッパ各国はナポレオン失脚後のヨーロッパを巡ってウィーンで国際会議を開きました。 この時のオーストリアの君主はフランツ1世という人物で、ナポレオンのマネをして 「オーストリア皇帝」 に即位し、それまで就いていた神聖ローマ皇帝を自ら退位してさらに帝国を解散させた張本人でしたが、彼はこの時外交の全権を信頼する外相メッテルニッヒに任せていました。

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上が当時のオーストリア帝国皇帝フランツ1世です。(1768~1835)良く見ると、皇帝の被っている帝冠が明らかに大きすぎてアンバランスですね。 画家が構図と縮尺を無視してわざと強調したのでしょうか?(笑)

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そして上が時のオーストリア帝国外相クレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)彼は皇帝時代のナポレオンとフランツ1世の皇女マリー・ルイーズを結婚させ、オーストリアとフランスの共存と均衡を図る事に成功し、ナポレオン失脚後はヨーロッパの国際秩序の構築のため、皇帝フランツ1世の信任を得てウィーン会議を主催しました。

このウィーン会議は1814年9月に開催され、主催国オーストリアをはじめ、イギリス、フランス、ロシア、プロイセン、スウェーデン、スペイン、オランダなど、当時のヨーロッパ主要国のほとんどの全権代表が集まりましたが、各国はてんでにそれぞれの利害を主張するばかりで中々話はまとまらず、半年たっても結論が出ませんでした。 その間各国の代表使節団はウィーンで連日舞踏会やパーティに明け暮れ、主催国であるオーストリア(というより皇帝フランツ1世)がその費用の全てを負担していたそうです。

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上がウィーン会議の様子を描いた絵です。 話し合いが決着しないため、次第に彼らは連日の豪華なパーティや舞踏会にうつつを抜かすようになってしまいます。後にこの会議を表して有名な

「会議は踊る、されど進まず。」


と言われる所以です。そしてそれら各国の代表団の接待費用は全てオーストリア皇帝フランツ1世の言わば 「ツケ」 になっていました。これは主催国であり、帝国皇帝としてのメンツからやむを得ない事だったのでしょうが、ナポレオンとの長い戦争による莫大な戦費にあえいでいたフランツ帝にすればたまらないでしょうね。 各国の代表らはみな高い位の貴族たちがほとんどで、随行の者も含めて数千人からなる彼らのウィーン滞在中の宿泊から飲み食いの費用まで全部なのですから。もちろん皇帝のメンツにかけて粗末な物は出せませんから、全て一流の豪華な物を用意して皇帝とハプスブルク家の権威を各国に見せ付けなければなりません。おかげでこの会議の期間中ウィーンは皇帝からのたくさんの注文で好景気に沸いたそうですが、こんな事にいつまで金を使わせるのかと業を煮やしたフランツ帝がメッテルニッヒに会議の決着を催促し、メッテルニッヒが冷や汗をかきながら皇帝をなだめている姿が目に浮ぶ様です。(笑)

そんな事をして時間とお金を浪費するうちに、ナポレオンが旧家臣の手引きで追放先のエルバ島を脱出し、再び復権したとの報が入り、状況は一変します。すっかりだらけていた各国はこの事態に対応するために急遽妥協を図り、これを好機と見たメッテルニッヒは、ナポレオンによって奪われた北イタリアやヴェネツイアなど、かつてのオーストリアの領土の大部分を取り戻し、さらに新たな領土を獲得する事に成功します。(これでフランツ帝もさぞ上機嫌になった事でしょう。 接待にお金をつぎ込んだ甲斐がありましたね。 笑)さらに彼は、オーストリアやプロイセンをはじめ、旧神聖ローマ帝国を構成していた35のドイツ諸侯国と4つの帝国自由都市をもって、オーストリア皇帝をその盟主とする新たな国家連合として「ドイツ連邦」を成立させました。

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上がこの時発足した「ドイツ連邦」の領域図です。(黄色がオーストリア、 青がプロイセン、灰色がその他の君主国、そして赤線が旧神聖ローマ帝国です。)これは事実上かつての神聖ローマ帝国を名前を変えて復活させた様なものですが、ここで2つの疑問が浮びます。 一つはなぜメッテルニッヒはこんなものを創ったのでしょうか。 その答えは今も歴史家の間で意見が分かれる様ですが、恐らく彼は各国の勢力均衡のため、ヨーロッパ中央部に大きな軍事的緩衝地帯を置いておきたかったのでしょう。

また、もう一つの疑問としてなぜこの時点でドイツに統一国家が成立しなかったのでしょうか? それはやはり800年以上続いた神聖ローマ帝国という極めて特殊な国家の影響が大きいでしょう。 帝国の2大勢力であるオーストリアとプロイセンを除くその他の君主国はそれぞれ自主自存の意志を持った独立国であり、まだこの時点では同じドイツ民族として、互いの境界を無くして一つになるという考えに至っていなかったのがその原因と思われます。

さて、話がずれましたが、その後のヨーロッパの歴史はまたも変転します。1815年6月、復権したナポレオンは彼に不変の忠誠を誓う精鋭7万の軍勢をもって、彼にとって最後の戦いとなる有名な「ワーテルローの戦い」に臨みましたが、イギリス・プロイセン連合軍12万に敗れ、たった3ヶ月で再び退位してイギリス軍に降伏し、大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されてしまいます。 このあたりは、歴史好きの方であれば良く知られた話ですね。そして6年後の1821年5月、一代で皇帝にまで上り詰めた「英雄」ナポレオンは52年の波乱に富んだ生涯を閉じました。

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上がナポレオンの死に顔を描いた肖像です。彼の死因については不審な点が多い事から、長らく何者かによる毒殺説が唱えられていますが、もはや真相など永久に分からないでしょうね。 それにしてもこの地で彼はどんな思いでその晩年を過ごしたのでしょうか。

次回に続きます。
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