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宰相メッテルニッヒの誤算 ・ 三月革命とウィーン体制崩壊

みなさんこんにちは。

1815年、皇帝ナポレオン1世が「ワーテルローの戦い」に敗れて退位すると、イギリス、オーストリアをはじめとするヨーロッパ各国は、そもそもの混乱の元凶であったフランスに再び革命を起こさせない様にするため、フランスを元の王政国家に戻す事を画策し、フランス革命により処刑された旧ブルボン王朝最後の王ルイ16世の弟で、プロヴァンス伯爵であったルイ・スタニスラスをルイ18世として即位させました。 いわゆる「復古ブルボン朝」です。

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上が復古ブルボン朝のフランス王ルイ18世です。(1755~1824)彼はフランス革命勃発時にからくも難を逃れてイギリスで亡命生活を送り、ナポレオン失脚後は処刑された兄ルイ16世の次男で幼い王子17世がわずか10歳で哀れな最後(この少年の亡くなり方はあまりにひどくてかわいそうでとても自分には語れません。涙)を遂げた事から18世として即位しました。

このルイ18世は兄16世の失敗を教訓に、国王の国家予算の浪費を防ぐため、世界初の会計制度を取り入れ、また王権を法の下に制限する立憲君主制を構築するなどの一定の改革に貢献しましたが、1820年に親しかった甥のベリー公シャルルが市民らに暗殺されると人が変わった様にそれまでの方針を転換し、自ら親政を開始します。

「賤民どもが、よくもわが兄や甥たちを無残に殺してくれたな。 どうするか見ておれ!」

彼の中に、それまで抑えに抑えていた感情、市民たちが引き起こした革命によって兄や甥を殺された肉親の情が激しく燃え上がります。 彼は穏健だった政策を絶対王政に戻してしまい、反対者を徹底弾圧して行きます。 それはあたかも彼の個人的な復讐の様でした。


ルイ18世の政策は1824年の彼の死後、王位を継いだ弟のシャルル10世に受け継がれますが、弟シャルル王は兄以上に絶対王政の復活を強化したために市民の反発を買ってしまい、やがて1830年に再び革命(七月革命)を引き起こされ、ブルボン王朝の復活は潰え去ることになります。

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上が復古ブルボン朝2代国王シャルル10世です。(1757~1836)彼の政策は革命で財産を没収されたフランス貴族たちにそれを返し、旧ブルボン王朝の栄光を取り戻そうとするもので、国民の考えと相容れないものでした。(まさに本当の意味で「復古ブルボン朝」ですね。) 結局再び起こった革命によって彼は退位を余儀なくされ、復古ブルボン朝は2代わずか15年で消滅してしまいました。

さて、その頃ハプスブルク家のオーストリア帝国はどうしていたのでしょうか?

この時代、オーストリア帝国の主はフランツ1世という皇帝でしたが、青年期から激動するヨーロッパ情勢の過渡期に翻弄され、必死に帝国とハプスブルク家の栄光を守り抜き、すでに老齢に達していた彼はこの頃国政を信頼する重臣たちに任せていました。 そしてその重臣の中で最もフランツ帝の信任が厚かったのが、外務大臣として帝国の外交を担い、ナポレオンとの戦いを最終的に勝利に導いたクレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。

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上がそのメッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)

メッテルニヒ

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このメッテルニッヒについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 ページ数は400ページ余りの割りに少し値段が高いですが、メッテルニッヒと彼が生きた時代について書かれた日本で最も詳細な本と思われます。

彼は外務大臣としてしたたかに国際情勢を計算し、時には謀略も辞さない冷徹な戦略家でもありました。 彼の活躍によってオーストリアはナポレオンに奪われた領土を取り戻し、傾きかけていた帝国は再び中央ヨーロッパに息を吹き返したのです。 フランツ帝はメッテルニッヒの働きに大いに満足し、1821年に彼を帝国宰相に任命して国政の全権を委ねます。


主君であるフランツ帝から厚い信頼を得たメッテルニッヒは、ハプスブルク家とオーストリア帝国繁栄のためにますます忠勤に励みます。 宰相として国政の実権を握った彼は、ナポレオン失脚後に自らが主催したウィーン会議でヨーロッパ各国と取り決めた、いわゆる「ウィーン体制」の下での国際関係の維持に心血を注ぎます。

このウィーン体制は、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアなどの主要国が国際的に協力し合い、勢力を均衡させる事で無秩序な革命を阻止し、正等君主制をもって平和と安定を維持していこうという建前でしたが、その裏で各国が諜報戦を展開してしのぎを削る「闇の戦い」が繰り広げられており、そしてヨーロッパ大陸にあってその中心にあったのがメッテルニッヒでした。

彼はウィーン体制で自らが創り上げた「ドイツ連邦」内において、学生たちによる自由主義を求める運動が盛んになると、これを「帝国への反逆」として苛烈な弾圧を加えていきます。 まず当時の知識人の養成を担う大学を厳重な監督下に置いて学生たちの行動を監視、また書籍の出版も当局の検閲無くしては一切出来ないよう義務付けます。

メッテルニッヒはこれらの「危険分子」の排除の永続化を目的として、彼の下に直属の「秘密警察」を創設して、彼の政策に反対する者たちを反帝国グループとして次々に逮捕、投獄していきました。 これが後に市民の反感を買い、彼の失敗の元になるのですが、彼のこうしたやり方は、後のナチスのゲシュタポや、旧ソ連のKGB、さらに戦前のわが国の特別高等警察(特高)、そして現代においてもまだいくつか存在する「独裁国家」の支配のあり方の元祖となり、またそうでない普通の民主国家においても、治安の維持と犯罪を取り締まる通常の警察とは別に、大抵の場合多かれ少なかれ体制に反対する団体や組織を監視、摘発する事実上の秘密警察が置かれています。

例えばわが日本においても、犯罪を取り締まる普通の警察(街中で見かける交番やパトカーのお巡りさん)とは別に「公安警察」というものがあります。これは戦前の特高を戦後名を変えて復活させたもので、極左、極右は言うに及ばず、なんとクーデター防止のために自衛隊まで監視しているそうです。 よく右翼団体の街宣車の後ろにぴたりと張り付く、スーツ姿の屈強な男たちが乗り込んだ明らかな公安の専用車を見かけます。またこれから話す事は私たち国民にほとんど知られていない事ですが、彼らは秘密捜査のため、全国の様々な職場などに潜入して諜報活動をしているそうです。(まるでテレビドラマの様な話ですが、「事実」なのです。)もしかしたら今これをご覧になっているみなさんの職場にも、そんな秘密任務の公安警察官が密かに潜入しているかも知れませんよ。それはみなさんの良く知る同僚など、身近の意外な人物かも知れません。(笑)

さて話を戻しますが、メッテルニッヒは周辺国と再び戦火を交える事態に立ち至った際、オーストリア帝国に極力戦禍が及ばないようにするため、その気になればいつでもわけなく併合できる様な小国を国境線上にいくつも置いています。これはその向こう側の敵国との戦闘の際、それらの小国を戦場にする事で帝国に被害が及ばない様にするためで、いわば「犠牲」にするためです。 その彼の方針を如実に表した言葉で、彼自身がこんな事を言っています。

「イタリアは地理的概念に過ぎない。」

つまり、イタリアなどという国は歴史上一度も存在せず、単に地域を表すものだというものです。 イタリアといえば現代の私たちには「長ぐつみたいな形の国」というイメージがありますね。(スパゲティやピザのイメージも強烈ですが。笑) しかし今のイタリアという国が統一国家として成立したのはこの時代より40年も後の1860年代になってからで、この頃までのイタリア半島は古代ローマ帝国滅亡以来、複数の小国に分かれていました。


メッテルニッヒはオーストリアの軍事的防波堤としてイタリア地域を想定し、その向こう側の仮想敵国フランスに備えていたのです。 そのためには断じてイタリア半島に統一国家などを成立させてはならず、いつまでも分裂させておく必要があります。 彼はイタリア半島の人たちにも芽生えつつあった「自分たちの国を造る」という考えの芽を摘み取るため、先の様な事を言ったのです。

しかし、フランス革命がヨーロッパの人々に及ぼした影響は彼の想像をはるかに超えていました。フランス革命の精神、すなわち人は生まれながら誰もが平等であり、その権利は何者も犯す事の出来ない神聖なものであるという考えは、それまで人は生まれながらに身分が決められ、その身分で一生を生きるのが当たり前と思われていた当時の人々に、王侯貴族の支配する古い国のあり方から、名も無い自分たち人民による新しい国のあり方を創り上げていくのだという熱い思いを醸成していったのです。これはメッテルニッヒの大きな誤算でした。

そうした人々の熱い思いは、いくらメッテルニッヒが帝国の内外に目を光らせても一掃する事は出来ませんでした。 そして1848年3月、ついに運命の時を迎える事になります。人々はついに各地で立ち上がり、メッテルニッヒ政権打倒の火の手が上がります。「三月革命」の勃発です。

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上が三月革命の様子です。この革命は上の絵でお分かりの様に最初はフランスで起こり、その後ドイツ、オーストリアなど各地に伝播していきました。この時、メッテルニッヒの後ろ盾であった皇帝フランツ1世はすでにこの世になく、帝位はその長男フェルディナンド1世が継承していました。

皇帝フェルディナンド1世はこの一連の革命騒ぎを抑えるため、メッテルニッヒを帝国宰相から解任します。 こうしてそれまで27年に亘りオーストリア帝国宰相として権力の頂点に君臨していたメッテルニッヒは失脚しますが、メッテルニッヒの恐怖政治に長く虐げられていた市民の怒りは収まらず、皇帝はじめ宮廷と主だった貴族たちはインスブルックの王宮に避難し、居場所を無くしていたメッテルニッヒは同盟国イギリスに亡命。 彼が築いたウィーン体制は完全に崩壊してしまったのです。

しかし、この三月革命ははじめは勢いが強かったのですが、時を経るうちに次第に人々の熱意は下がってしまいます。やがて帝国軍は帝都ウィーンをはじめ各地の反乱を鎮圧。オーストリアの議会では旧体制派が議席を奪回し、皇帝と貴族たちもウィーンに戻り、革命を招いた元凶のメッテルニッヒさえ3年後の1851年に亡命先のイギリスから帰国を許されています。つまり、フランス革命の様なドラマティックなものではなく、中途半端な大騒動で終わってしまったのです。

オーストリア帝国史上初の革命がこの様な結末を迎えた原因はいくつかありますが、最も大きな理由として、革命の求心力となる強力な指導者がいなかった事がその原因ではないかと思われます。 名も無い大勢の市民が集まって力ずくで旧政権を倒した。そこまでは良いとして、彼らをまとめる有力な指導者がいないために、そこから市民たちは何をどうして良いやら分からず、結局は破壊と略奪に終始するのみになってしまったのです。

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上は晩年のメッテルニッヒの肖像です。彼はオーストリアに帰国後一切の公職から身を引き、ウィーンの自宅でひっそりと晩年を過ごし、1859年に86歳の長寿で亡くなりました。かつて有能な青年外交官としてヨーロッパ中を飛び回り、フランス革命という大事件に始まる巨大な歴史のうねりを乗り越え、ナポレオンという稀代の英雄をも向こうに回し、ついには帝国宰相としてオーストリアはおろか全ヨーロッパを動かした最高権力者の彼も、歴史というものに翻弄された脆弱な一人の人間に過ぎませんでした。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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