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イタリア統一と普墺戦争 ・ ビスマルクの罠

みなさんこんにちは。

1848年の3月革命と、それによるウィーン体制の崩壊によって、若干18歳の若さで新たにオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、その最初の大仕事として帝国内外での激しい戦いを一刻も早く鎮圧させる必要に迫られていましたが、残念ながら彼はその86年に及ぶ長い生涯において、およそ戦争をして勝つ事は出来ませんでした。


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上がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)30代の頃のものと思われます。すごいヒゲですね。(笑)

彼はまずハンガリーなど、帝国本土の内乱を終息させる事には成功したものの、その後3月革命が飛び火したイタリア方面における戦争(イタリア統一戦争)に敗れ、北イタリアの帝国領土を失ってしまいます。


584px-Italia_1843-fr.png

上が当時のイタリア方面の地図です。いくつかの小国に分かれていますが、このイタリア統一戦争はこれらを一つにまとめ、この地域に「イタリア」という新国家を建設しようと試みたもので、最終的にフランスの支援を受けたヴィットリオ・エマヌエレ2世率いるサヴォイア王家のサルデーニャ王国がイタリア全土を統一し、1861年に「イタリア王国」が成立します。(上の図の年号はサルデーニャ王国が征服、併合した年です。)

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上がイタリアを統一し、初代イタリア国王となったヴィットリオ・エマヌエレ2世です。(1820~1878)彼はフランスとオーストリアという大国に挟まれた北イタリアの小国サルデーニャの国王に過ぎませんでしたが、両国の不仲と混乱を巧みに利用し、ついに念願のイタリア統一を成し遂げました。(まさに「世渡り上手」ですね。)

当時この北イタリアにはオーストリアの領土であるロンバルディア・ヴェネトがありましたが、イタリア統一を狙うエマヌエレ2世と、それを裏で支援し、オーストリアをイタリアから追い出したいフランスのナポレオン3世の利害が一致し、彼らは協力してこの地に軍を進めてきたのです。

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上がそのナポレオン3世です。(1808~1873)彼はみなさんもご存知の英雄ナポレオン1世の甥に当たる人物で、最初は共和制における一政治家に過ぎませんでしたが、やがてフランス議会で台頭し、ついに偉大な伯父1世を受け継いで「フランス皇帝ナポレオン3世」として即位しました。(いわゆる「第二帝政」というものです。ちなみに彼が「3世」を名乗っているのは、その前に伯父ナポレオン1世と当時のオーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた実の子で、彼にとっては従兄弟である「ナポレオン2世」がいたからですが、その彼は父ナポレオン1世退位の後、「ライヒシュタット公」としてオーストリア・ハプスブルク家に預けられ、1832年に21歳の若さで亡くなっています。)

これに対し、フランツ・ヨーゼフはこれを阻止せんと自らオーストリア軍を率いて北イタリアに出陣し、フランス・サルデーニャ連合軍を迎え撃ちます。「ソルフェリーノの戦い」の始まりです。


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上が1859年6月に、フランス・サルデーニャとオーストリアが北イタリアの支配権を巡って激突した「ソルフェリーノの戦い」の様子です。両軍の兵力は皇帝フランツ・ヨーゼフ自ら率いるオーストリア軍10万に対し、これもフランス皇帝ナポレオン3世と、サルデーニャ王エマヌエレ2世が直接陣頭指揮に当たる連合軍12万で、ほぼその戦力は互角でしたが、戦闘の結果はオーストリア軍の敗北に終わりました。これによりフランツ・ヨーゼフはナポレオン3世との講和条約で、ヴェネツイア以外の北イタリア地域のフランスへの割譲を余儀なくされます。

一方北ドイツでは新たな脅威がオーストリアに迫りつつありました。1862年にプロイセン王国首相に就任したビスマルクが大胆な軍制改革を行い、ドイツ統一のための対外政策を開始したからです。


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上が当時のプロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼については「鉄血宰相」として有名ですね。後に成立するドイツ帝国宰相となり、伊藤博文をはじめとするわが明治政府に多大な影響を与えた人物である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。

ビスマルクにとって、プロイセンを盟主とするドイツ帝国を成立させるにはオーストリアとフランスの存在が邪魔でした。そこでまず彼は手始めにオーストリアから片付ける事にします。それはオーストリアがメッテルニッヒの時代に成立させたドイツ連邦からのプロイセンの脱退を通告する事でした。

ドイツ連邦はオーストリア帝国をその盟主とする国家連合でした。つまりオーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフがプロイセンを含む全ドイツの主であるのです。しかし連邦で最大の王国プロイセンが脱退すれば連邦は崩壊してしまい、フランツ・ヨーゼフの面目は丸つぶれです。彼はビスマルクの通告に怒り、プロイセンを懲らしめるために連邦内の他の同盟国に呼びかけてプロイセンへ宣戦を布告してしまいます。これが「普墺戦争」の始まりです。

しかし、これこそビスマルクの罠でした。彼はオーストリアと戦争をする大義名分が欲しかったのです。当時先に統一されたイタリアに触発され、ドイツ人たちの間でも統一国家の成立が強く望まれていたのですが、その範囲をどの程度にするか大きく2つの考えに分かれていました。一つは純粋なドイツ民族だけで構成する「小ドイツ主義」、そしてもう一つは他の民族を支配するオーストリアも含めた「大ドイツ主義」です。そしてビスマルクが考えていたのは前者の純粋なドイツ民族によるドイツ帝国の成立であり、そのためには多民族国家オーストリアをドイツから排除する必要がありました。

皇帝フランツ・ヨーゼフはプロイセン討伐のため、同盟国も含めてなんと60万もの兵力を集めました。これに対し、プロイセンもビスマルクの策略によって連邦内の構成国を味方に付け、50万の兵力でこれに対抗します。さらにビスマルクは統一の先輩イタリアも味方に引き入れる事に成功し、イタリア軍30万がこれに加わりました。

フランツ・ヨーゼフにとってこれは予想外の展開でした。大軍で圧倒してプロイセンの抗戦意志を削ぐのが目的だったのに、連邦内の同盟国はプロイセンへの寝返りが相次ぎ、さらに南のイタリアに備えて兵力を南北に分けなくてはならなくなったからです。1866年6月、両国はついに開戦し、各地で両陣営の戦闘が始まりましたが、最終的な決着はオーストリア軍とプロイセン軍との直接対決が鍵を握っていました。そしてそれは思いのほか早く到来します。同年7月3日、両軍はボヘミア北部ケーニッヒグレーツで対陣し、戦闘が開始されました。これが「ケーニッヒグレーツの戦い」です。


この戦いの両軍戦力はオーストリア軍20万に対し、プロイセン軍22万とほぼ互角でしたが、両軍の間には決定的な違いがありました。それは両軍兵士たちの持つ小銃です。実はこの時期、銃の歴史において画期的な新型銃が出現し、それがこの戦いの、いやこの戦争の決着を短期間で決めてしまったからです。

プロイセン軍は、優れた銃器設計者ドライゼが開発した世界初の「後込め式小銃」を全将兵に持たせていました。この銃は読んで字の如く、弾薬を銃口から入れるのではなく手元のボルトを操作して後ろから入れるもので、この銃の出現により射撃と弾薬の装填が飛躍的に早くなりました。


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上がプロイセン軍の新型小銃「ドライゼ」です。(この種類の銃を「ボルトアクション式小銃」と言います)それまでの小銃と言うのは先に述べた様に弾薬を銃口から入れる「先込め式」で、銃口の下に見える長い棒で弾薬を奥まで押し込まなければならず、射撃から装填まで1分ほどもかかるものでした。このドライゼ銃は、上の写真のボルトを後ろへ動かしてそこに弾薬を装填するタイプで、射撃と装填は5倍の速さで出来る様になりました。またこの銃はいわゆる現代の銃の原型であると同時に世界初のボルトアクション式小銃でもあります。

それに対し、オーストリア軍将兵は従来型の先込め式小銃であり、まさに兵器の質の点ですでに勝敗が決していたと言っても良いでしょう。プロイセン軍はオーストリア軍に比較にならない速さで集中射撃を浴びせ、大勝利を得ました。(この戦いで両軍の死傷者はプロイセン軍約9千に対し、オーストリア軍はその5倍に登る4万4千というものでした。)

この戦いの敗北で皇帝フランツ・ヨーゼフは帝都ウィーンを守るため、急遽プロイセンとの講和に臨まざるを得なくなってしまいました。普墺戦争はこうしてたった7週間で終わってしまったのです。結果はオーストリアの大敗に終わり、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は崩壊、事はビスマルクの思惑通り進み、翌1867年彼はプロイセンを盟主とし、その他の同盟国22カ国をもって「北ドイツ連邦」を成立させる事に成功しました。


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上が北ドイツ連邦の地図です。ザクセン、バイエルンなどを除くドイツ中部から北部のほとんどが参加しています。この戦争の敗北により、オーストリア帝国はドイツから完全に閉め出される事になってしまいました。

イタリア統一戦争と普墺戦争の相次ぐ敗北によって、フランツ・ヨーゼフのオーストリア帝国は大きくその力を削がれてしまいました。そして彼らはその存立のため、新たなアイデンティティを求めて行く様になります。

次回に続きます。
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