オーストリア・ハンガリー帝国成立 ・ 皇帝の帝都大改造計画

みなさんこんにちは。

1859年のイタリア統一戦争で北イタリアを失い、さらに1866年のプロイセンとの戦争(普墺戦争)で、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの巧みな戦略によりわずか7週間で敗れた事は、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国に深刻なダメージを与えていました。なぜならそれによりこの帝国の最大の特徴であり、また弱点でもある民族問題が再び表面化してしまったからです。


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上が30代半ばのオーストリア帝国3代皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)

当時のオーストリア帝国は主な民族だけで10を数える多民族国家でした。その中で最大の民族は皇帝家ハプスブルク家を頂点とするドイツ人で、帝国の支配階級の筆頭を成していましたが、その数は帝国全人口約5千万の4分の1に満たないものでした。(下に当時のオーストリア帝国の人口構成を載せますので参考にして下さい。但し、1910年の数字なので、少し時代が後になってしまいますが・・・汗)

ドイツ人・・・・・・・・・・・・・1200万人 (23.9%)
ハンガリー人・・・・・・・・・・・1010万人 (20.2%)
チェコ人・スロバキア人・・・・・・ 850万人 (16.4%)  
クロアチア人・セルビア人・・・・・ 520万人 (10.3%)
ポーランド人・・・・・・・・・・・ 500万人 (10.0%)
ウクライナ人・・・・・・・・・・・ 400万人 ( 7.9%)
ルーマニア人・・・・・・・・・・・ 320万人 ( 6.4%)
スロベニア人・・・・・・・・・・・ 130万人 ( 2.6%)
イタリア人・・・・・・・・・・・・ 100万人 ( 2.0%)
合計・・・・・・・・・・・・・・・5030万人 (99.7%)


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上の地図は帝国内の各民族の居住地域を表したものです。赤がドイツ人、緑がハンガリー人、青がチェコ人などとなっています。

このオーストリア帝国は上に載せた多くの民族と、様々な種類の領土で形成された複雑な集合国家でした。まず、ハプスブルク家の「世襲領」であるオーストリアとその周辺、さらにボヘミア、ハンガリー、ダルマチアなどの「王国」、さらに旧神聖ローマ帝国時代から続く「大公国」「公国」「辺境伯領」などがあり、皇帝フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇帝の他に、これらの王、大公、公、辺境伯などの称号も兼ねていたのです。

そして多民族国家オーストリア帝国を構成する各民族のうち、とりわけ民族独立運動が活発で、ドイツ人の次に多い民族が、上の数字をご覧いただければお分かりの様に1千万の人口を擁するハンガリー人でした。

ハンガリーといえば、かつてフランツ・ヨーゼフが皇帝に即位して早々に激しい独立運動を起こし、彼が行った徹底的な武力弾圧により一度は鎮圧されたものの、ハンガリー人たちの心に深く根付いた独立への思いは消えるどころかさらに強くなり、ついに1853年には、そうした一ハンガリー人の暴漢によって皇帝暗殺未遂事件が起こるほどになっていました。

皇帝フランツ・ヨーゼフは、そうした帝国の抱える情勢に鑑みて、1867年ついに一大決定をします。それはハンガリーに完全な内政自治権を与え、オーストリアと同権の君主国とするというものです。ハンガリー国王は皇帝フランツ・ヨーゼフが兼ねますが、両国は皇帝の下にそれぞれ独自の内閣と議会を持ち、外交、軍事、財政の三分野においてのみ両国の同数の議員で構成される代表によって協議し、それらを除く他の全てにおいては、ハンガリー人たちの自由意志で決める事を許すものでした。

こうして1867年、「オーストリア・ハンガリー帝国」が成立しました。いわゆる二重帝国です。


しかし、皇帝はなぜハンガリーに対してだけこの様な優遇した特権を与えたのでしょうか?それは下の地図をご覧になれば多少理解していただけると思われます。

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上の図の緑の部分が帝国領土におけるハンガリーの占める割合です。いかにハンガリーの存在が大きいかお分かりいただけると思います。北イタリアを失い、プロイセンに敗れてかつてハプスブルク家の「庭」であったドイツからも締め出され、かろうじて「主屋」のオーストリアだけになってしまった(といっても今だ広大な領土を持っていますが。)帝国の維持のためには、ドイツ人に次ぐ勢力のハンガリー人の協力無しでは立ち行かなくなっていたのです。

そこで皇帝はハンガリーとの「アウスグライヒ」(ドイツ語で「和解」とか「均衡」という意味だそうです。)を成立させる必要に迫られたのでした。

しかし、長年の悲願であった独立がほぼ達成され、大いにハンガリー人が喜んだその裏で、帝国内の他の民族は大きな不満を抱く様になってしまいます。中でも帝国内で第3位の勢力を擁するボヘミア人(チェコ・スロバキア人)は自分たちにもハンガリーと同等の権利を与えて欲しいと、「三重帝国」を皇帝に要求しました。(この要求は、さすがに「切りが無い。」事から皇帝が拒否した事に加え、帝国の支配階級に君臨するドイツ・ハンガリー人たちの妨害で実現しませんでした。)

ともあれ帝国の安定のため、最大の障害であったハンガリー問題を一応解決させたフランツ・ヨーゼフは、次の言葉を掲げて各民族の結束を促します。

「ウィリヴス・ウニティス」(一致団結して。)

それまでハプスブルク家の皇帝たちは、全ての民族の上に「支配者」として君臨するという考えに固執していました。つまり「神に選ばれた一族」であるハプスブルク家の下に、みんな「従え」というものでした。しかしフランツ・ヨーゼフはこうした古い独りよがりな思考を捨て、歴代皇帝として初めて、各民族同士で力を合わせ、帝国を運営して行こうと呼びかけたのです。

そして彼は、自らが創り出した新国家であるオーストリア・ハンガリー帝国の輝かしい未来のため、更なる大事業を計画し、実行に移します。それは帝国の都ウィーンの大改造です。


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上の画像は1枚目がまだ城壁に囲まれていた頃のウィーン中心部を上から見た図で、2枚目はその模型です。当時帝都ウィーンは、上の様に中世以来、オスマン・トルコをはじめとする異教徒からの防波堤として築かれた堅牢な城壁で囲まれた城塞都市でした。しかし大砲の出現によって城壁というものの存在価値がほぼ無くなり、(大砲の進歩により射程距離が伸びたため、砲弾が城壁を飛び越えて市内に着弾してしまいますからね。)また人口の増加によってウィーンはひどい住宅難と交通渋滞に見舞われ、これらが経済の活性化を大きく阻害していました。(市内の中心部に入るには限られた数の狭い城門をくぐらなくてはならず、城門の出入り口でたくさんの馬車が大渋滞になっている所を想像してください。)

そこでフランツ・ヨーゼフは、もはや無用の長物であるこれらの城壁を全て撤去し、その跡地に渋滞にならない大きくて広い環状道路と様々な建物を建設し、ウィーンを新たな帝国にふさわしい帝都に造り変える事を決意したのです。工事はまずウィーン市内を取り囲む城壁の撤去と周囲の堀の埋め立てから開始され、すでにイタリア統一戦争の前年の1857年から始められていましたが、城壁が非常に堅牢だったので、これの撤去にはかなりの時間がかかってしまった様です。


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上の画像の1枚目が城壁の撤去の様子です。そして苦労して撤去された跡地には、2枚目と3枚目の画像の様に市内をぐるりと一周する広くて大きな環状道路(リングシュトラーゼ)が造られ、そのリング通りに面して、巨大な建築物が次々と建設されていきました。(ちなみに2枚目の建物は1869年完成のウィーン国立歌劇場で、音楽の都ウィーンに無くてはならないものですね。3枚目は1883年完成の帝国議会議事堂で、現在も国会議事堂として使われています。)

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上の3枚も同様にリング通りに面して建設された建物です。1枚目が高名な自然科学マニアであったフランツ・ヨーゼフの曾祖母マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの収集した膨大なコレクションを収蔵した自然史博物館で、1889年に完成しました。また2枚目は1891年に、同じ敷地に相対して建設された美術史美術館で、これもハプスブルク家が数百年に亘って収集した膨大な絵画、彫刻などの芸術作品が収蔵されています。(この2つの建物はなぜかほとんど同じデザインで建てられています。設計者が同じ人だったんでしょうか?それとも費用の節約のためでしょうか?)
3枚目は1883年完成のウィーン市役所です。これ以外にも数多くの公共建築物や貴族、富裕層などの邸宅が建てられ、ウィーンはこれらの公共事業のために全般的に好景気だったそうです。

皇帝フランツ・ヨーゼフのこうした一連の大事業により、それまで中世さながらのいかめしい城塞都市だったウイーンは、全く新しい近代的で開放感のある都に変貌しました。そしてウィーンには数多くの文化人、知識人たちが集まり、彼らによって文化の薫り高いウィーンの世紀末が形成されていく事になります。そしてそのための大きな「器」というか、方向性の道筋を造ったのは、なんといっても皇帝フランツ・ヨーゼフ1世その人であったのです。

次回に続きます。
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