ハプスブルク家の黄昏 ・ 次々に逝く皇帝家の人々

みなさんこんにちは。

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、帝国に再び栄光と繁栄をもたらすために帝都ウィーンの城壁を取り払い、「新しい夢の都」の建設に情熱を注いでいた19世紀後半は、同時にハプスブルク家にとって度重なる不幸が相次ぐ暗い時代でもありました。

なぜならこの時代、皇帝家の重要人物が暗殺、自殺、銃殺など、およそこの世で最も高貴な家柄の人々にあるまじき形で次々と不慮の死を遂げ、かつて多産で代々親子兄弟みな仲の良いにぎやかな一族であった当家に、あり余る富と権威を背景とした見かけの豪華絢爛さの裏で、不和と寂しさ、そして帝国の将来への大きな不安という得体の知れない不気味なものが、重くのしかかっていく様になっていったからです。

今回はその辺りのお話です。

帝国皇帝フランツ・ヨーゼフは、多くの民族を束ねる帝国を運営する自らを支えてくれる皇妃を求めていました。そんな彼が23歳の時に出合ったのが7歳年下のバイエルン王女、エリザベートでした。


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上が若き日の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)と、皇妃エリザベートです。(1837~1898)もともと彼は、母ゾフィー大公妃の強い薦めでオーストリアの隣国バイエルン王国の王家ヴィッテルスバッハ家との政略結婚のため、エリザベートの姉ヘレーネと「お見合い」をする予定だったのですが、彼はその妹であるエリザベートに一目惚れし、彼女に求婚したのです。

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皇妃エリザベートについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。現在国内で知られているエリザベート個人に限定して紹介した本ではこの3冊が最も良いでしょう。3冊ともカラー写真とイラストが豊富に掲載されており、どれを買われても失敗は無いと思いますが(笑)個人的には最も上の本が価格と情報量(ページ数190ページ、下の2冊は140ページ余り)の面では良いかもしれません。表紙のデザインは最も下の3冊目の本も捨てがたいですね。

さて、この時皇帝の母ゾフィーがバイエルンのヴィッテルスバッハ家との縁組を息子に薦めたのは、当家が自分の実家であった事と、またかつてハプスブルク家と神聖ローマ皇帝位を激しく争い、時には戦い、時には親しく交わってきた名門中の名門王家で家柄として申し分の無い、ハプスブルク家にとっては付き合いの長い「お隣さん」であった事などがその理由でした。

しかし息子フランツ・ヨーゼフは母の薦めた相手の妹を好きになってしまったのです。彼は母の猛反対を押し切り、エリザベートと結婚してしまいます。

そしてこのエリザベートという女性ですが、彼女は上で述べた様に皇帝と結婚した時はまだ16歳の何も知らない少女でした。(皇帝は彼女を熱愛していましたが、当時の彼女はどちらかといえば、周囲の流れによって「結婚させられた。」という方が正しかった様です。つまり彼女の実家であるヴィッテルスバッハ家からすれば、ハプスブルク家と縁組出来れば誰でも良かったのでしょう。)

バイエルンの田舎で自由奔放に育ち、もともと勉強嫌いだった彼女はお妃教育と、全てを伯母であり姑のゾフィー大公妃が取り仕切るウィーンの宮廷での厳格な生活に耐えられず、皇后としての職務や義務も嫌い、(というよりろくに行わず。)「病気の療養」と称してウィーンを飛び出し、各地を転々と長期間旅行して周る様になります。


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上が当時のハプスブルク皇帝家の人々です。中央に座る年配の女性がゾフィー大公妃(1805~1872)で、その左に座って皇帝との間に生まれた2人の子供たちを抱きながら顔を横に向けているのが皇后エリザベート。そして後列で立っている人々のうち、最も左にいる黒い軍服姿の男性が皇帝フランツ・ヨーゼフです。

実はこのエリザベートという女性ですが、良くある話では美貌の皇妃とか、悲劇のヒロインという形で語られる事が多いのですが、実際はかなりナルシスティックで情緒不安定、尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった様です。

彼女の贅沢と浪費家ぶりは、かつてのマリー・アントワネットを思い起こさせるほどのものであり、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていました。それでいて気まぐれでそれらにもすぐに飽きてしまい、つまり成熟した大人の女性とは程遠い人でした。

そんな不真面目な彼女でしたが、そんな彼女にも局所的ですが夫フランツ・ヨーゼフ帝の帝国運営に貢献した部分があります。それはハンガリー問題の解決です。エリザベートは旅先で出向いたハンガリーにおいて、この国の全てを大変気に入り、独学でハンガリー語を習得してこの国の統治にだけは非常な関心と情熱を傾け、またハンガリーの人々にも、かつてハンガリーの独立運動を弾圧し、彼らにとって憎悪の対象である皇帝フランツ・ヨーゼフやゾフィー大公妃をそっちのけで自由気ままに振舞うエリザベートの姿に、新鮮さと

「この人ならハンガリーの王妃になって欲しい。」

とまでいわれるほどの大きな人気を博す様になります。夫フランツ・ヨーゼフがハンガリーの独立問題で頭を悩ませていた頃、そのハンガリーの人々の心を掴み、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に大きく貢献したのは他ならぬエリザベートでした。

しかし、こんな身勝手気ままな妻を、皇帝フランツ・ヨーゼフは終生変わる事無く深く愛し続け、常に落ち着きが無く、気まぐれにどこかに旅行に行って数ヶ月も戻らない彼女に対し、本当は自分のそばにいて自分を支えて欲しい心情を押し隠し、

「好きなだけ楽しんでおいで。いつも貴女を想う夫より。」

と手紙を毎日書き送っていたそうです。(エリザベートとは正反対に几帳面なフランツ・ヨーゼフは、皇帝としての政務をこなしながら、王宮の執務室に彼女の等身大の肖像画を机のすぐ脇に置いて、執務に疲れた時にそれを眺めていました。それが彼にとって、たった一つの心の慰めだったのでしょうね。)

しかし惨劇は突然やって来ます。1898年9月、エリザベートは旅行先のスイス、ジュネーブのレマン湖畔のほとりで、イタリア人の無政府主義者にナイフで暗殺されてしまいます。享年60歳でした。

次に不幸に見舞われたのがそのエリザベートの愛息である皇太子ルドルフです。


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上がルドルフ皇太子です。(1858~1889)彼は皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリザベートの間に長男として生まれ、将来の皇帝となるべき帝位継承者でした。

彼はウィーンのカフェで多くの進歩的な文化人たちと交流して行くうちに自由主義に傾倒するリベラリストになり、父帝の時代遅れで保守的なやり方に強く反発していく様になります。(彼はなんと帝位継承者でありながら「君主制などやめてしまえば良い。」と言い放つなど、王家の問題児になってしまいます。当然父とは上手くいくはずがありませんね。)

ルドルフはペンネームで新聞に投書し、(ペンネームなど簡単にばれていた様ですが。)父帝のやり方を激しく非難し、自由主義を唱えていきます。父帝はそんな皇太子に激怒し、以後秘密警察を動員して息子の行動を24時間監視するまでに親子の対立はエスカレートしてしまいました。

皇太子とはいえ絶対権力を持っているのは父帝です。これには敵いません。次第にルドルフは自暴自棄になり、皇太子でありながら身分の卑しい売春婦と夜を共にするようになります。それはあたかも権威の権化である父帝に対する彼の個人的な抗議の様でした。

やがて彼に最後の日が訪れます。1889年1月、ルドルフは愛人マリー・ヴェッツラと別荘で拳銃自殺を遂げてしまいます。(享年30歳)息子の死は、とりわけ母エリザベートを悲しませ、彼女はルドルフの死後、かつての女帝マリア・テレジアの例に倣って自らが暗殺されるまで喪服を身にまとう様になったそうです。(ルドルフの死については、この様な人物を帝位継承者にしては置けないというハプスブルク家臣の貴族たちによる暗殺も疑われていますが、真相は定かではありません。)

そしてもう一人の重要な人物の死が皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアン大公です。


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上がマクシミリアン大公です。(1832~1867)写真で見ると大きなヒゲのせいかだいぶ老けて見えますが、彼の生涯は34年という短いものでした。

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このマクシミリアン大公については上に載せた本が良書です。神聖ローマ帝国史とオーストリア・ハプスブルク家についてがご専門の菊池良生教授の執筆された今年出版されたばかりの最新作で、メキシコ皇帝マクシミリアンの数奇な生涯が、兄フランツ・ヨーゼフ帝とからめて語られていきます。ページ数は370ページ余りで、日本では余り馴染みの無いメキシコの歴史についても知る事が出来る良作です。

彼は先に述べた様に皇帝フランツ・ヨーゼフの弟で、兄とは子供時代から大変仲が良く、兄が皇帝に即位してからはその右腕として良く兄帝を支えた人でした。しかし、この兄弟の関係が微妙になっていくのは1859年のイタリア統一戦争の頃からでした。

当時フランツ・ヨーゼフは弟マクシミリアンを北イタリア総督として派遣していましたが、その地で弟が現地の住民に自治を認めるなど、あまりに自由主義的な統治を行った事に怒り、マクシミリアンを解任してしまいます。(これはマクシミリアンが、現地イタリアの自由と独立を求める人々の思いの強さから、ある程度はやむを得ないという考えに至ったからですが、兄帝は一つでもそれを認めれば、他の民族も次々にそれを求める様になり、帝国の維持が出来なくなるといって、断固それを認めませんでした。)

この件をきっかけに兄弟の間には亀裂が生じ、マクシミリアンは謹慎してアドリア海のほとり、トリエステの自らの居城ミラマーレ城に引きこもってしまいます。しかし、兄の怒りに触れ、全ての公職を解かれて悶々と日々を過ごす彼に、再び権力への道が開かれます。1864年ヨーロッパからはるか離れた全く縁もゆかりも無いメキシコから、皇帝として即位して欲しいとの打診があったのです。


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上がその時の様子です。メキシコ政府の代表たちがミラマーレ城を訪ね、マクシミリアンに皇帝即位を招請しています。彼は新天地で自らの理想とする新たな帝国建設を夢見、これを受諾してメキシコに渡る決意をします。しかし、ここで大きな疑問を抱く方が多いと想われます。そもそもなぜハプスブルク家とは何のつながりも無いメキシコからこんな打診があったのかという事です。

実はこれはフランスが陰で糸を引いていました。当時フランスはナポレオン3世の下で第二帝政下にあり、ナポレオン3世は新たな植民地獲得に大きな野心を抱いていました。折りしもフランスが多額の債権をもっていたメキシコが、財政難から一方的にその負債を棚上げしようとしたため、怒ったナポレオン3世はフランス軍を差し向けてメキシコを占領し、その傀儡政権のシンボルに格好の存在としてマクシミリアンが選ばれたのでした。

しかし、メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世として即位した彼でしたが、最初から無理な冒険でした。現地のメキシコ人たちはフランス軍の支配に激しく抵抗し、元よりその傀儡に過ぎない外国人のマクシミリアンを自分たちの君主にするつもりなど毛頭無かったのです。(当然ですよね。)

即位から3年後の1867年に入ると、戦局はマクシミリアンの皇帝政府に著しく不利になり、損害の多さからメキシコ支配を諦めたそもそもの発端の張本人であるナポレオン3世は、フランス軍を撤退させてしまいます。残されたマクシミリアンは残った残存兵力8千の兵で革命軍に立ち向かいますが、(メキシコ人にも帝政に賛同する者も少なくなく、マクシミリアンの率いる兵力はそんな人々でした。)結局敗れ、マクシミリアンは帝位を剥奪されて銃殺刑になってしまいました。(享年34歳)


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上がマクシミリアンと、最後まで彼に従ったその側近の将軍たちの銃殺の場面の写真です。(写真最も右側のタキシード姿の人物がマクシミリアン皇帝です。不鮮明ではありますが、それにしてもこの写真良く残っていましたね。)

処刑の前、彼は兄フランツ・ヨーゼフに手紙を書いています。

「愛する兄上様、思いもかけない事態に立ち至り、不本意な死を迎える事になってしまいました。この愚かな弟をお許しください。私は兄上が私に示してくださった愛情に深く感謝し、兄上とハプスブルク家の繁栄を祈りつつ、旅立つつもりです。どうかいつまでも健やかに、さようなら。」

この手紙を、一体兄はどんな気持ちで読んだ事でしょうか。仲の良かった兄弟の悲しい別れですね。(涙)

相次ぐこれらハプスブルク家の人々の死は、当主である皇帝フランツ・ヨーゼフの心に深く大きな衝撃を与えました。そしてそれは、彼を孤独で厳格な保守主義者へと変えていってしまいます。そして時代はそんな皇帝の心情と、ハプスブルク家の裏側を尻目に世紀末と新しい世紀へと動いていくのです。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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