三国同盟対三国協商 ・ ヨーロッパ列強諸国の思惑

みなさんこんにちは。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国が、多民族国家ゆえの寛容さで音楽、芸術、科学、文学など、様々な分野のスペシャリストたちを国内外から分け隔てなく受け入れ、夢の様な輝ける文化と知恵の華を咲かせて繁栄を謳歌していた19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパは、列強諸国が二つの巨大陣営に分かれて激しく対立する危険なパワーバランスの均衡によって、かろうじてその平和が維持されている時代でもありました。

その二つの巨大陣営とは、一つはドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアを軸として一足早く1882年に成立した「三国同盟」陣営と、それに対抗する形で20世紀に入ってから1907年にイギリス、フランス、ロシアとの間で締結された「三国協商」陣営です。


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上が当時のヨーロッパ主要各国の国際関係を表した図です。

このうち前者の「三国同盟」は、ドイツ帝国成立の立役者であり、その初代宰相でもあった大政治家オットー・フォン・ビスマルクによってつくられた純粋な軍事同盟でした。


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上が独墺伊三国同盟をつくったドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼がこの三国同盟を成立させた本来の目的は、フランスを軍事的に孤立化させて封じ込める事でした。

ビスマルクは1871年に、当時ナポレオン3世の下で第二帝政下であったフランスを普仏戦争で破り、その講和条件でかつて200年以上前の旧神聖ローマ帝国の三十年戦争時代において、フランスに奪われたアルザス、ロレーヌ地方を奪い返す事に成功したのですが、これに対するフランス人のドイツへの復讐心が大変激しい事を知っていました。彼はいずれフランスが態勢を立て直し、ドイツに対して必ず反撃してくるだろう事を予測していたのです。

彼は巧妙な戦略でフランスを破りましたが、かといってその勝利に驕り高ぶる事はなく、決してフランスを侮ってはいませんでした。そこで彼はフランスの国力回復は目をつぶるとしても、彼らが自分が創り上げた「生涯の作品」であるドイツ帝国に対して容易に復讐戦を挑む事が出来ない様にする仕組みを創り上げたのです。(オーストリアはともかくとして、南のイタリアを仲間に入れておけば、フランスは兵力をドイツとイタリアの二方面に分散せざるを得ず、また海上でも、フランス艦隊は地中海の制海権をめぐってイタリア艦隊に備えなければなりませんからね。)

これに対しフランスはビスマルクの予想通り、ドイツに対する対抗作戦を展開していきます。しかもそれはビスマルクの予想をはるかに超える驚異的なものでした。彼らは数百年来の宿敵であったイギリスと、貿易や漁業権、両国が世界中に持つ広大な植民地の利権の調整を名目に、はるか東のロシアも入れて同盟を結んだのです。これは表向きは経済、商業関係の盟約であったために「三国協商」と呼ばれていますが、実際はそれらの保護のために相互に軍事協力し、ドイツに対抗する軍事同盟でした。

それにしても古くは英仏百年戦争の時代から、近くはナポレオン戦争に至るまで、常に相争ってきた「永遠のライバル」ともいうべきイギリスとフランスが、よくも積もり積もった積年の恩讐を乗り越えて同盟する事が出来たものだと不思議に思われるでしょうが、これには新興帝国主義国家として驚異的な進歩を遂げ、凄まじい速さで軍備増強を続けるドイツに対する英仏両国の共通の危機感が大きく影響していました。また、当時イギリスにおいては、その在位中イギリスを七つの海を支配する「大英帝国」に押し上げ、63年に亘って君臨したビクトリア女王が1901年に亡くなり、新たにイギリス国王に即位したその長男エドワード7世が、なかば神格化された母の時代とは違う対外政策を求めた事も無視出来ないでしょう。


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上がイギリスのヴィクトリア女王です。(1819~1901)彼女は先に述べた様に、イギリス歴代国王で最長の63年間もの在位を誇り、彼女が君臨していた19世紀は、「イギリスの世紀」と呼ばれるほど同国が最も繁栄した時代でもあります。彼女の出身王家はハノーヴァー家と言い、元はドイツのハノーヴァー公国の君主でしたが、1714年にそれまでイギリス王家であったスチュワート王朝が断絶した事により、遠い親戚筋であった同家がイギリス王として招かれたのです。そのため彼女は生涯を通して大変な「親ドイツ派」であり、自分の子孫たちの多くをこれらの名門王家と結婚させました。ちなみに後の第一次世界大戦でイギリスと戦う事になるドイツ皇帝ウィルヘルム2世は彼女の孫に当たります。

(彼女が名前だけで呼ばれるのは、同名のヴィクトリアという女王が後にも先にも存在していないからです。それから余談ですが、このヴィクトリア女王は大変小柄な女性で、身長はなんと145センチしかなかったそうです。それでありながら太りやすい体質で、晩年には体重が70キロを越え、そのため上の写真を見てもお分かりの様に、少し体重が増えてもすぐに目立ってしまい、彼女は終生それを気にしていたそうです。また性格は意外に短気で我がままで、夫のアルバート公を深く愛してはいたものの、夫婦喧嘩の時は常に夫のアルバート公の方が折れていたそうです。やはり女性らしいですね。笑)


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そして上がヴィクトリア女王の後を継いで即位したエドワード7世です。(1841~1910)良く見ると母親似ですね。そして彼も母の血を引いてかなりの肥満体質でした。ただし母と違う所は父母が相思相愛だったのにもかかわらず、彼自身はデンマーク王家から嫁いできた王妃との仲は終生悪く、女好きで愛人が何人もいたそうです。しかし性格は派手好きな豪快奔放な人で、母のドイツ好きに対比して彼はフランスをこよなく愛し、それが英仏協商締結に一役買っていたのも事実です。

またはるか東の大国ロシアは、時の皇帝ニコライ2世がシベリアから清朝末期の中国東北部(満州)に20万の大軍を南下させてこれを事実上占領し、その先の朝鮮半島をも窺う勢いを見せて、同じく朝鮮半島支配を目論む新興国日本との間で激しく対立していました。


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上がロシア皇帝ニコライ2世です。(1868~1918)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝14代皇帝で、同時に最後の皇帝でもあります。彼とその一家の哀れな最後については、近年その詳細がNHKなどのドキュメンタリーで放映されたりしているので、歴史好きの方ならば知識としてご存知の事と思います。

実はこのロシアの極東進出は、ある一人の人物によって盛んにけしかけられたものでした。その人物とは時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。


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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。(1859~1941)彼はドイツ帝国ホーエンツォレルン朝3代皇帝で、なんといってもぴんと跳ね上がったその特徴的な口ひげで有名ですね。(このひげは彼にちなんで「カイゼルひげ」と呼ばれています。)

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上は並んで記念撮影する2人の皇帝の姿です。左がドイツ皇帝ウィルヘルム2世で右がロシア皇帝ニコライ2世。外交儀礼として両国の君主が互いの国の軍服を着用しています。(これはわが国でも、天皇陛下が国賓として来日した外国の君主をおもてなしされる宮中晩餐会などで、陛下が国賓の相手国の君主の勲章や頸飾などをお付けになったりしていますね。)

ウィルヘルム2世はニコライ2世とは従兄弟に当たり、ニコライを「ニッキー」と親しく呼んで盛んに手紙をやり取りしています。しかし、彼がニコライに対してその様に親しく振舞うのは、何も単純に親戚同士であったからというわけではありません。そんなレベルをはるかに超える巨大な思惑があったからに他なりませんでした。

ウィルヘルム2世率いるドイツ帝国にとって、ヨーロッパにおける最大の宿敵はビスマルクの所で述べた様にフランスでした。彼はいざフランスと戦争になった際、背後のロシアから攻撃されて挟み撃ちに合うのを避けるためにロシアの目を極東に追いやって置きたかったのです。そこで彼が利用したのが、日本人をはじめとする「黄色い肌」の東洋人が、いずれヨーロッパ人に対して戦いを挑んでくるという思想、いわゆる「黄禍論」です。


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上が黄禍論を描いた当時のイラストです。はるか彼方で黒雲と共に不気味な光を放つ大仏を指し、キリスト教の大天使ミカエルが古代ギリシャやローマの神々に扮したヨーロッパの人々に対して団結して戦おうと呼びかけているという、なんともメチャクチャなものです。(笑)

ウィルヘルムは、当時日本との関係が悪化していたニコライに宛ててこのイラストを送り、次の様な手紙を書いています。

「親愛なるニッキーへ、我々は今重大な危機に直面している。それははるか東洋の蛮族に、我々キリストの子供たちが狙われているという危機だ。このまま彼らを放置すれば、いずれ東洋人たちはヨーロッパに攻め寄せてくるだろう。今君が日本との間で抱えている問題はまさしくそれだ。これを解決する方法は一つしかない。戦う事だ。そして日本の野望を打ち砕き、ヨーロッパを救うのだ。これが出来るのは世界でただ一人、君しかいない。君がそれを達成するまでヨーロッパはわがドイツがしっかり見張っているから安心したまえ。」

この手紙を読んだニコライ2世がどんな感想を述べたか定かではありませんが、(まさか本気で信じ込んだ事は無いと思いますが。笑)当時のロシア蔵相で、後に日露戦争後のポーツマス講和条約でロシア全権代表となるニコライの忠実な大臣であったウィッテはこう述べています。

「こうして彼はわが皇帝を言葉巧みにたぶらかし、そしてわがロシアは極東へ極東へとおいやられてしまったのである。」

しかしこの三国協商の成立により、ビスマルクが企図したフランス封じ込め作戦は崩壊し、逆にドイツが東西から挟み撃ちされる状態に陥ってしまいました。(三国協商が成立した頃、すでにビスマルクは亡くなっていたのですが、彼はイギリスとフランスが、海外植民地政策で対立し、いつまでも争わせておく事が最良の策と考えていました。しかし、事は彼の計算とは逆の方向に動いてしまったのです。もし彼が存命であれば、この不利な状況を一体どの様に打開したでしょうか?)

次回に続きます。
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