オーストリア大公暗殺事件 ・ 運命の世界大戦へ

みなさんこんにちは。

ヨーロッパ列強諸国が、それぞれの海外植民地やその勢力圏を守るため、利害の一致した国同士で同盟を結び、せっせと軍備を増強して激しく対立していた1910年代前半、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国も、否応なくその大きな枠組みの中に組み込まれていきました。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)彼はこの時すでに80歳の高齢でしたが、その在位期間は歴代皇帝で最長の60年を越え、国民からは「国父」と呼ばれるほど敬愛され、その絶大な人気と、立派な白いひげを生やした圧倒的な存在感はまさに帝国の「象徴」でした。

しかし、皇帝の晩年はその絶大な権威と帝都ウィーンの華やかさとは裏腹に、大変孤独で寂しいものでした。ハプスブルク家一族内では次々に身内の不幸が相次ぎ、帝国内では独立を求める少数民族をなんとか帝国内につなぎとめる事に苦心し、さらに帝国の外では先に述べた列強諸国による権謀術数渦巻く対立に翻弄され、それらとの長い闘いが、この老いた皇帝を地上で最も保守的で孤独な老人に変えてしまったのです。

もちろん彼も最初からそうだったのではありません。彼は18歳で即位してから、その若さで新しい国づくりを周囲に期待され、歴代皇帝たちが成しえなかった様々な改革を行って帝国を運営していきました。ハンガリーとの二重帝国の完成、立憲君主制の導入、労働者保護の立法、普通選挙法の成立など、彼の下で着々とリベラルな体制づくりが進められていったのですが、その半面で彼の統治は貴族たちと軍部に支えられる旧態依然としたものでもありました。

時はすでに20世紀、街には汽車、自動車、電話、電灯、映画などが出回り、これらの文明の利器が人々の興味を大きくそそっていましたが、皇帝はそれらに一切関心を示さず、ひたすらかたくなに王家の格式としきたりに固執しました。

こんな話があります。フランツ・ヨーゼフが帝都ウィーンの近代化のために、ウィーンを取り囲む城壁を撤去させたのはすでにお話しましたが、そのためにウィーンは一大建築ブームで好景気となります。しかしこれは典型的な「建築バブル」でした。折りしもウィーン証券取引所で株価の大暴落が起こり、一転大不況が帝国を覆います。建築中の建物も資金が無くなり、人々は造りかけの建物の建設を中止するか、外装の装飾を出来るだけ簡素にして建築費用を安く抑える様になりました。(仕方がありません。お金が無いのですから。)帝都のあちこちでそれらが急増し、やがて皇帝のいるホーフブルク王宮の目の前で建設中だったカフェまで、建物の外装の装飾の無いものが建てられました。


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上がそのカフェ「ロースハウス」です。(1910年完成)現在は銀行として使われている様です。これは当時出現した斬新な建築スタイルで、出来るだけ装飾を省き、「線」と「面」だけを強調する事で新時代を表現しようというものです。同時に費用も浮かせるので依頼する側には喜ばれました。

しかし、王宮の執務室からこれを見たフランツ・ヨーゼフはこれを大変嫌い、このカフェが見えない様にカーテンをおろして過ごしていたそうです。やがて彼はどうしても行かなければならない場合を除いて王宮には立ち寄らなくなり、晩年の大半を彼の偉大な高祖母である女帝マリア・テレジアが建てたハプスブルク家の本宮殿ともいうべき壮麗なシェーンブルン宮殿に引きこもってしまいます。

なぜ彼はこんな何の変哲も無い建物をそこまで嫌ったのでしょうか? 実はその理由はまさにこの「何の変哲も無い」という点にありました。つまり皇帝の頭では、美しい建物というものは柱の一本に至るまで彫刻をほどこし、豪華絢爛な外装で飾り立てるべきであり、ただ窓が並ぶだけのロースハウスは、彼にとってつまらない四角四面の「のっぺらぼう」にしか見えなかったのです。

そして彼の保守性は身内に対しても表れます。フランツ・ヨーゼフは皇后エリザベートとの間に4人の子がいましたが、そのうち3人はいずれも女子であり、唯一の男子であり、後継者(のはずであった)皇太子ルドルフは父帝と意見が合わず、やがて30歳の若さで愛人と拳銃自殺を遂げてしまいました。

そのため皇帝はやむなく後継者を彼の3番目の弟であるカール・ルートヴィッヒ大公の長男で、最も血縁が近い甥に当たるフランツ・フェルディナントに指名します。しかしこの帝位継承にはある「条件」がありました。それはこの帝位継承はフランツ・フェルディナント一代限りのもので、彼の子孫には帝位継承権を与えないというものです。


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上が皇帝の甥に当たるフランツ・フェルディナント大公(1863~1914)とその妻ゾフィー(1868~1914)です。

なぜ皇帝はこの様な一方的な条件を甥夫婦に突きつけたのでしょうか? それはフェルディナントの妻ゾフィーの身分に関係がありました。彼の妻ゾフィーはボヘミアの伯爵家出身ではありましたが、成長すると皇帝の従兄弟に当たるテシェン公フリードリッヒの妻イザベラの女官として仕えていました。フェルディナントは公の館に滞在している時に彼女に一目惚れして結婚するのですが、皇帝フランツ・ヨーゼフはそれが気に入らなかったのです。

「ハプスブルク皇帝家の一族がボヘミアの女官を妃にするとは何事か。」

つまり皇帝の頭では、皇帝家ハプスブルク家の者は同格の王族と結婚するのが当然であり、ゾフィーはその身分が低すぎるからその子孫を世継ぎにするのは許さんというのです。こうした皇帝の時代錯誤で保守的な価値観は、当然夫の帝位継承者フェルディナント大公も面白いはずがありません。彼は妻ゾフィーとのつながりから大の親スラヴ主義になり、半面でハンガリー人を大変嫌っていました。それはハンガリーとの二重帝国を創った伯父帝の考えに反するもので、次第に彼らは意見が衝突していく様になります。その姿は、さながらかつての皇太子ルドルフのそれと同じ状況の繰り返しでした。

「伯父上ももうお年だ。いずれ私が皇帝になれば、私のやり方で帝国を導いていくつもりだ。そのときは見ているがいい。」

大公はこう述べると、自らの考えによって行動する事が多くなっていきます。大公は帝国南部のクロアチア、スロベニアのスラヴ人に自治権を与え、ゆくゆくは同君連合の三重帝国にする事を構想していたそうです。これはバルカン半島において、オスマン・トルコの衰退により独立し、急速に勢力を拡大しつつあった南の小国セルビアに対する「盾」とするつもりであったと思われますが、しかしこの彼の構想は当然その先の標的であるセルビアにとって悪夢意外の何ものでもありませんでした。


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上は当時のヨーロッパの地図です。オーストリアとセルビアの位置がお分かりいただけると思います。

セルビアは、500年の長きに亘って続いたオスマン・トルコ帝国の支配から解放され、民族の悲願であった独立を達成してからまだ年数が浅い小国でした。セルビアはその苦い経験を踏まえ、自存自衛のために強い国づくりを目指します。その方針は、バルカン半島にセルビアを盟主とするスラヴ連合国家を建設するというものでした。その帰結として、周辺国にも勢力拡大を図ろうとしていくのですが、そんなセルビアにとって大きな脅威が国境を接する北のオーストリアでした。

セルビアにとってはハプスブルク家とオーストリア帝国も、オスマン帝国と同様に数百年続く不倶戴天の大敵だったのです。やっと独立を勝ち取ったのに、今度はオーストリアが南下して自分たちを支配しようとしている。セルビアは危機感を募らせ、そしてセルビア人の急進派によって「黒い手」なる民族主義の過激な秘密組織が結成され、オーストリアに対してテロ攻撃を画策していく様になります。

フェルディナント大公は、そんなバルカン半島の危険な情勢をどうも少し軽く見過ぎていた様です。彼はセルビアの危険な動きをもちろん知ってはいましたが、何も出来ないだろうとタカをくくっていました。そしてまさか自分自身がその標的になるだろうとは・・・。

そして運命の日は訪れます。1914年6月28日、フェルディナント大公夫妻は伯父フランツ・ヨーゼフ帝が1908年に帝国に併合したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに軍事演習の視察に訪れました。


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上がその時の様子と事件現場の現在の写真です。当地ではもちろん厳重な警戒態勢が敷かれていましたが、所詮限界がありました。そして一行がサラエボ市内の橋を通過中に、先に述べたセルビア人過激派組織「黒い手」に所属する若者の拳銃によって大公夫妻は暗殺されてしまいます。

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そして上が犯人逮捕の瞬間を捉えた有名な写真と実際に犯行に使われた拳銃です。(赤錆びた姿に注目)

このオーストリア大公暗殺事件は今からちょうど100年前の1914年に起こりました。そしてこの事件を契機にヨーロッパはドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランスなどの連合国との間で人類史上初めての「世界大戦」が勃発する事になります。そしてそれは、それまでの戦争とは比較にならない破壊と大量殺戮による「生き地獄」となって人々の上に降りかかってくるのです。

次回に続きます。
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