世界大戦勃発 ・ 皇帝の死そして帝国の死

みなさんこんにちは。

1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナの都市サラエヴォで起きた、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の暗殺事件は、全ヨーロッパを震撼させる大事件となりました。この報を受けた大公の伯父である皇帝フランツ・ヨーゼフは当然の事ながらショックを受けましたが、それ以上に彼を悩ませたのが、国民の全ての階級で「セルビアを討て!」という声が激しく上がり、手が付けられなくなってしまった事です。

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この時皇帝は84歳。その長い在位中に数々の試練に直面し、もはや人生の酸いも甘いも知り尽くしていた彼は、この状況が自分の帝国にどのような影響をもたらすかを予見していました。

「このままでは戦争になる。それだけは避けなければならぬ。」

皇帝は過去に自分が経験してきた苦い戦争の経験から開戦には消極的でしたが、対セルビア強硬派である時の外相レオポルト・ベルヒトルトはそんな皇帝の思いとは逆に、7月23日にセルビアに対して10か条からなる「最後通牒」を突きつけ、48時間以内の無条件受け入れを要求します。(これに対し、セルビアは意外にも一部を除く要求の受け入れを受諾します。なぜならこの事件はセルビアが「国家の意志」として行ったものではなく、過激な民族主義グループによるテロ行為だったからです。しかし、ベルヒトルトは頑として譲りませんでした。)


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上がオーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵です。(1863~1942)彼は開戦に慎重だった皇帝を説き伏せ、強引にセルビアへの宣戦布告を主導します。(皇帝が開戦に消極的だったのは、セルビアの背後にはロシアがいたためで、セルビアに宣戦を布告すれば当然ロシアとも戦わざるを得なくなるからです。そこで外相ベルヒトルトはかねてからの密約通りドイツに助けを求め、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はオーストリアがセルビアに宣戦布告すれば、ドイツはオーストリアに味方して共に戦う事を約束します。)

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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世と当時のドイツ軍首脳部の将軍たちです。中央で足を組んで座っているのがウィルヘルム2世。その後ろには、後にドイツ敗戦後に指導者となるヒンデンブルグとルーデンドルフの姿もあります。(写真下の人物名を参照)彼の率いるドイツ帝国はすでに開戦準備は整っており、手ぐすねを引いてこれを待ち構えていました。

7月28日、オーストリアはセルビアに対して宣戦を布告し、事ここに至ってセルビアも戦う意志を決め、ロシアに対して援助を求めました。一方セルビアからの要請に基づき、ロシアは直ちに全軍に動員令を発し、これに対抗する形でドイツも大軍をロシアとの国境に集結させます。ここに4年に亘る第一次世界大戦の幕が切って落とされたのです。


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この時皇帝フランツ・ヨーゼフは一人、王宮の礼拝堂で戦争を回避出来なかった事による国民の犠牲への懺悔と帝国の勝利を神に祈りました。そう、老いた彼に出来る事はもうそれぐらいしかなかったのです。

さて、この第一次大戦の勃発はさらにイギリスとフランスも巻き込み、瞬く間に全ヨーロッパ、いや世界中に波及していきましたが、とはいえ関係各国も当初は「すぐに終わるだろう。」とかなり楽観的でした。というのは、セルビアの様な小国などたやすくオーストリアに占領されてしまうであろうし、これまでの戦争の経験から、大抵の場合は数回の大会戦の後、形成不利になった方が講和を持ち出し、その後は外交的努力で解決して速やかに兵を引き上げるのが常道だったからです。ヨーロッパにおける戦争は1871年の普仏戦争以来43年ぶりであり、戦争を知らない若い世代が若さゆえのロマンチックと騎士道精神に憧れて大勢志願し、各国の末端の若い兵士たちの間には異様な高揚気分がみなぎっていました。

「クリスマスには帰れるさ。」

若者たちは軽い気持ちで志願し、まるで冒険に出る少年の様に戦場へと出征していきました。しかし、すぐに彼らはそこで恐ろしいこの世の地獄を目の当たりにして死んでいくのです。


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上は各国の兵士たちです。1枚目は進撃するドイツ軍歩兵部隊。2枚目は同じくイギリス軍。3枚目はフランス軍です。(開戦当初のドイツ軍将兵のヘルメットは、写真を見てもお分かりの様に中世の騎士の兜の様な突起が付いています。後にこれは戦場で兵士たちには邪魔な飾りで実益が無い事と、生産の簡素化のために無くなりますが、まだこの時代のドイツの人々にはこうした中世の記憶が色濃く残っていたのでしょうね。)

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戦争は主に、フランス東部のドイツとの国境線付近で激しい戦いが繰り広げられていましたが、本テーマの主役であるオーストリア・ハンガリー帝国もドイツとの同盟に基づき、東部戦線でロシアとの激戦を繰り広げていました。(もちろん当初の目的であるセルビア攻撃も行っていますが、こちらはセルビア軍の頑強な抵抗にあって苦戦してしまいます。)

しかし開戦から1年が経とうとする1915年5月、思いもかけない事態がドイツ・オーストリア両国にふりかかります。それまで中立を表明して参戦せず、戦争の成り行きを見ていた南のイタリアが同盟を離脱、逆に連合国側に加担してオーストリアに宣戦を布告してきたのです。

しかしイタリアはかつてドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたはずです。それなのになぜ彼らはドイツ・オーストリアを裏切って連合国に寝返ったのでしょうか?その理由は2つ考えられます。1つはこのままドイツ側に味方していてもイタリアはドイツに利用されるだけで、仮にドイツが勝利してもイタリアが得るもの(領土など)は大して期待出来ない事。2つ目はかつてイタリアがドイツ・オーストリアから数え切れない侵略を受け続けてきた長い歴史から、両国を信用出来ないという情緒的なものです。

イタリアは参戦の見返りに、連合国勝利のあかつきには現時点でオーストリア領である南チロル、トリエステなどをイタリア領とする事を要求し、イギリス・フランスの了承を得るとオーストリアに宣戦、これによりオーストリアはロシア、セルビア、イタリアに兵力を分散せざるを得ない苦しい三正面作戦を余儀なくされてしまいました。

これに対し、ドイツ・オーストリア側も反撃に転じます。まずは仲間を増やさなくてはなりません。そこで両国は1915年9月に、セルビアと仲の悪いブルガリアを新たに同盟国に引き入れる事に成功し、すでに開戦前からドイツ・オーストリア側であったさらに南のオスマン帝国も合わせてこの四カ国による「中央同盟国」が成立します。(オスマン帝国は黒海沿岸でロシア軍と戦いますが、南の中東地域ではエジプト駐留のイギリス軍の支援を受けたアラブ反乱軍との戦いに苦戦します。)


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上の1枚目が第一次大戦時の各国の勢力図で、赤色が中央同盟国。2枚目がその君主たちです。(左からドイツ皇帝ウィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン皇帝メフメト5世、ブルガリア王フェルディナンド1世です。)

こうして文字通りの「世界大戦」がその後も繰り広げられていくのですが、この大戦はそれまでの戦争とは比較にならない大量殺戮兵器が使用され、それによって桁外れの死者が出た事は、歴史好きの方ならばご存知の事と思います。戦車、飛行機、毒ガス、中でも最も戦場で威力を発揮したのが機関銃です。すでにこの機関銃は、1904年の日露戦争における旅順要塞攻略戦で、わが日本軍が多大の犠牲を出していましたが、それから10年後の今次大戦においても、同様の戦闘が展開され、攻撃する側はずらりと待ち構える機関銃の前に白兵突撃を繰り返し、十字砲火の餌食となっていたずらに犠牲を増やすばかりとなっていました。


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ドイツ・フランス国境沿いの西部戦線と、ドイツ・ロシア国境沿いの東部戦線では、両軍は上の画像の様な何重にも張り巡らせた長い塹壕を掘りぬき、これが「すぐに終わる。」はずの戦争を長期化させることになります。同盟軍、連合軍双方とも攻撃前進して敵陣地を突破したくても、網の目の様に張り巡らされた塹壕で待ち構える数え切れない機関銃によって動くに動けず、東西両戦線で数百万の両軍がいつ果てるとも知れない不毛な局地戦とにらみ合いで完全な膠着状態に陥ってしまっていました。(上のドイツ兵は毒ガスに備えてガスマスクを着けていますね。今にも手投げ弾を投げようとしているという事は、敵兵がそんな近くの距離にいるのでしょう。)

そんな最中の1916年11月、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が戦争と帝国の行く末を深く憂慮しながらついに崩御します。(享年86歳)18歳の若さで即位して以来、神聖ローマ帝国時代から続く歴代皇帝で最長の68年もの在位を誇る、波乱に満ちた生涯でした。その生涯を通して常に勤勉であった彼は、風邪気味にもかかわらず死の前日まで執務をこなし、最後の言葉は側近の侍従に対してのこんな一言でした。

「明日は3時に起こしてくれ。まだ仕事が残っているんだ。」


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上が亡くなったフランツ・ヨーゼフ帝です。皇帝は王宮の執務室の横に、彼が深夜まで仕事をするために作らせた仮眠用のベッドに入るとそのまま息を引き取ったそうです。その死はそれを看取る妻も子も誰もいない、あまりにも寂しいものでした。

皇帝の死は、一向に進展の兆しが見えない戦局と戦時下の統制生活に飽いていたオーストリア国民に計り知れないショックを与えました。そして同時に彼の死によって、彼が創り出し、命懸けで守ろうとしたオーストリア・ハンガリー二重帝国も、いやハプスブルク帝国そのものが、皇帝の後を追う様にその死に向かって歩みだす事になるのです。

次回に続きます。
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