世界大戦の終結 ・ 勝利をつかみ損ねたドイツ帝国

みなさんこんにちは。

オーストリア・ハンガリー二重帝国の「現人神」として68年もの長きに亘って君臨した皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の崩御は、帝国の運命を決定付けました。なぜなら彼の死によって、オーストリア・ハンガリー帝国はさながら枯れかけた大樹が音を立てて倒れる様に、崩壊と滅亡へ一気に突き進んで行ったからです。

先帝フランツ・ヨーゼフの後を継いで皇帝となったのは、先帝の三番目の弟であるカール・ルートヴィッヒ大公の孫にあたるカール1世が即位しましたが、帝国の内外では何といっても先帝のイメージが強烈で、新帝カール1世の存在は当初から影が薄く、頼りないものでした。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国4代皇帝にして最後の皇帝となるカール1世です。(1887~1922)彼は早くから軍人の道を進み、陸軍少将にまで昇進しますが、大伯父である先帝の長男ルドルフ皇太子の自殺と、それを受けて次の帝位継承者となった伯父に当たるフェルディナント大公の暗殺によって29歳で皇帝となりました。しかし運命のいたずらは、ハプスブルク皇帝家の一族とはいえ本来なら一皇族として平穏な人生を終えるはずだったこの若者に、あまりにも重いものを背負わせる事になり、それが彼の人生を大きく狂わせてしまう事になります。

カール1世が即位した当時、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ最中でした。しかし、戦局はドイツ・オーストリアをはじめとする同盟軍と、イギリス・フランスなどの連合軍が、塹壕と鉄条網を張り巡らせた数百キロにも及ぶ戦線を築き、双方ともこれを突破しようにも待ち構える無数の機関銃によって身動きがとれず、全くの膠着状態に陥っていつ果てるとも知れない長期戦が延々と続いていました。


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上の1枚目は塹壕で戦闘を行うドイツ軍で、2枚目が迎え撃つイギリス軍です。やがてこの状況を打開すべく両陣営で次々と新兵器が投入されていきます。その代表が戦車と毒ガスです。

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上がイギリス軍が開発した世界初の戦車「マーク1型」です。(戦車といっても、ずいぶん不恰好ですね。今日の戦車の様な大きな砲塔が無く、側面に申し訳程度にそれらしき物があるのみです。しかしこの戦車が作られた目的は、何重にも張り巡らされた塹壕による敵の防衛線を突破し、その開いた穴から大軍をなだれ込ませて一気に敵陣を総崩れにさせる事だったので、これで充分だったのです。そして英語で戦車を「タンク」と呼ぶのは、ドイツのスパイを欺くために、「これは水を入れたタンクだ」と言ってごまかした逸話は有名ですね。)

また、ドイツ軍は敵に多大な人的損害を与えるために、これも世界初の毒ガスを使用しました。


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上がドイツ軍による毒ガス攻撃の様子です。下の写真は軍用犬もガスマスクをつけていますね。

これらはすぐに両軍によってマネされ、応酬の連鎖が繰り返されるのですが、結局それでも戦局を変える事は出来ませんでした。(その理由は戦車作戦も、毒ガス作戦もその効果は一時的で、仮に戦線を突破出来ても後方にひかえる敵の大軍によって撃破され、すぐに退却する羽目になってしまうからでした。)

そんな折、ようやく大戦の流れを変える大きな事件がはるか東で発生します。1917年2月、連合国の一員であったロシア帝国内で革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位して300年続いたロマノフ王朝が倒れたのです。そして新たに成立したソヴィエトの指導者レーニンは、革命による国内の混乱の収拾のために交戦中のドイツと講和条約を結ぼうと画策。結局ドイツ側にフィンランド、バルト3国、ウクライナなどの広大な領土割譲と、多額の賠償金の要求を受け入れて両国の間で講和が成立し、ロシアは戦争から手を引いてしまいました。(この条約は後のドイツ敗戦によって破棄されたので、ソヴィエトはこれらの領土を取り返します。)


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上がロシア革命で人々の前で演説するウラジーミル・レーニンです。(1870~1924)個人的な感想ですが、今日のロシアという国の悲劇はこの人から始まったといえるのではないでしょうか?

さて、これに勢いづいたのはドイツです。なぜならこれまでロシア国境の東部戦線に割いていた兵力を、イギリス・フランスとの西部戦線に投入出来るからです。ドイツ軍は一気に戦争の決着をつけるべく、西部戦線に大軍を集結させ始めます。そして同時にこれは、強力なドイツ軍との戦いに疲れ果てていたイギリス・フランス連合軍にとって、大きな危機でもありました。しかしここでまたも状況が変わります。1917年4月、それまでヨーロッパの戦争には中立の姿勢を通していたアメリカが政策を大転換し、連合国側に加わって参戦してきたのです。

学生時代に世界史で教わった話では、大戦中にドイツの潜水艦Uボートによって、イギリスの豪華客船「ルシタニア号」が撃沈され、多くのアメリカ人が犠牲になった事が参戦の原因と言われましたが、それは参戦のほんの一因に過ぎず、史実はドイツがアメリカの南のメキシコに、ドイツに味方してアメリカに攻め込めば、アメリカ西部をくれてやるとメキシコ政府に謀略の手を回した事が、大きな原因であった様です。(もちろんドイツによる、無制限潜水艦作戦も参戦の理由ですが。)

焦ったのはドイツです。アメリカが出てくれば、ドイツはじめ中央同盟国の敗北は時間の問題です。一刻も早く決着をつけなければなりません。しかし当時のドイツ軍司令部は状況を軽く見すぎていました。

「アメリカが参戦してくるといっても、戦争準備には時間がかかる。イギリスとフランスはわが軍との戦いに釘付けで余裕は無い。それまでに充分に戦力を蓄え、決着を着ければ良いのだ。」


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上の1枚目は当時のドイツ軍の最高首脳である参謀総長ヒンデンブルク元帥(左)と参謀次長ルーデンドルフ将軍(右)で、2枚目は彼らから戦局の報告を受けるドイツ皇帝ウィルヘルム2世(中央)です。第一次大戦のドイツ軍の戦争指導はほとんどこの2人のコンビによって行われたものといえるでしょう。そして開戦の張本人であるドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ベルリンの宮殿でただ彼らから戦況の報告を受けるだけのお飾りの存在になっていました。(その理由は、彼は皇帝として軍の統帥権は持っていたものの、実際の軍事作戦については何も分からない全くの素人であったからです。彼に出来た事は、稀に前線の兵士たちや負傷兵にねぎらいの言葉をかけるか、戦功のあった将軍に勲章を授ける程度の事でした。)

実はドイツ軍も勝利のためには時間稼ぎが必要でした。ロシアとの東部戦線に割いていた兵力を西部戦線に回せる様になったといっても、兵力を移動させるだけでは戦争にはなりません。充分な武器、弾薬の蓄積が必要です。ドイツ軍司令部は、アメリカ国内に忍び込ませていたスパイたちからの報告により、アメリカが戦争準備を整えてヨーロッパに軍を送り込める態勢が整うのは1918年夏以降であると分析していました。つまりまだ1年以上あるわけです。

それまでは西部戦線で現態勢を維持し、イギリスとフランスを油断させ、その間にドイツ国内の軍需工場をフル稼働させて出来るだけ武器、弾薬を蓄積し、時が来たら突如大奇襲攻撃をかけて一気に戦争を終わらせる計画でした。

そして1918年3月、その時が訪れます。ドイツ軍はルーデンドルフ将軍指揮の下、なんと動員兵力192個師団(約250万)の大軍をもって大攻勢に出ました。「カイザーシュラハト」(皇帝の戦い)と呼ばれる大作戦です。

これに対し、連合軍も173個師団(およそ220万)の兵力をもって迎え撃ちますが、それまで塹壕の中で息を潜めていたイギリス・フランス連合軍はこのドイツの大攻勢に耐え切れず次々に戦線を後退させ、ドイツ軍はパリまで120キロの地点まで進撃します。連合軍は防戦一方で、もはやパリの陥落も時間の問題でした。

「パリを落とせばフランスは降伏する。そしてイギリス軍もドーバー海峡に追い詰める。孤立したイギリスは講和を求めて来るだろう。そうすればアメリカはヨーロッパに兵を送る理由が無くなる。好き好んで多くの兵の犠牲と莫大な戦費がかかる戦争をしようとは思わないからな。」

ルーデンドルフはそう考えていました。そしてこの段階では、情勢はドイツ軍の圧倒的優勢で進んでいました。ドイツ本国では、皇帝ウィルヘルム2世はじめ、多くの国民がドイツ勝利を確信していたのです。しかしまたしても思わぬ事態が発生しました。それまで快進撃を続けていたドイツ軍の進撃が全ての戦線で止まってしまったのです。

なぜドイツ軍の進撃が止まってしまったのでしょうか? その理由は実はとても単純なものでした。簡単に言えば、弾が無くなってしまったからです。


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上の画像はこの作戦でドイツ軍が撃ちまくった砲弾の空薬莢の山です。ドイツ軍戦闘部隊は砲兵隊の充分な援護射撃によって連合軍を撃破していったのですが、ここに来てそれを支える砲兵部隊の多くで弾薬切れが続出し、またドイツ軍の進撃があまりに早すぎたために全ての戦線に弾薬の補給が追いつかず、ドイツ軍は進撃を停止せざるを得なくなってしまいました。

そしてそうこうしている内に、ついにドイツの最も恐れていた事態が起こります。作戦開始から2ヵ月後の1918年5月、ようやく戦争準備を整えたアメリカがヨーロッパに大軍を送り込んで来たのです。それはドイツの予想よりはるかに早いものでした。

戦局は同盟軍優勢から一気に連合軍優勢に大転換します。同年8月、アメリカという強力な味方を得たイギリス・フランス連合軍はドイツ軍に対して大反攻作戦を開始。アメリカは毎月30万以上の兵力をヨーロッパに派遣し、最終的にドイツ降伏まで200万以上の大軍で攻め立て、さらに圧倒的な物量でドイツを追い立てます。これに対し、すでに人的、物的に国力を使い果たしていたドイツは後退を始め、以後防戦一方になります。

そして1918年11月3日、ドイツ北部キール軍港で、もはや敗戦は必至とみたドイツ海軍の水兵たち約1千名が反乱を起こします。やがて彼らの勢力は、長い戦争に疲れ果てていた大勢の市民も参加してたちまち4万に膨れ上がり、このニュースがドイツ中に流れると全国で帝政打倒の革命が勃発。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位してホーエンツォレルン王朝は倒れ、彼は持てるだけの財宝と共にオランダに亡命してしまいました。

事ここに至って1918年11月11日、ドイツは連合国との間で休戦協定に調印。一切の戦闘行為は停止され、ここに4年3ヶ月続いた悪夢の第一次世界大戦は幕を閉じるのです。

次回に続きます。
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