翼の折れた双頭の鷲 ・ その後のハプスブルク家

みなさんこんにちは。

1918年秋、人類が引き起こした最初の地球規模の大戦争である第一次世界大戦は、ドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランスをはじめとする連合国の4年に亘る熾烈な戦いの末、ようやく終盤を迎えようとしていました。

戦局は、当初同盟国側であったイタリアの連合国への寝返りや、またこれも最初は連合国側であったロシアの革命勃発による一方的な戦争離脱によって二転三転、そして最終的に中立を守っていたアメリカの連合国への参戦という大番狂わせによって、ドイツをはじめとする同盟国側の敗北という形で大勢が決していました。

この同盟国側とは、ドイツをその筆頭として、オーストリア・ハンガリー、オスマン・トルコ、ブルガリアの4カ国からなるもので、「中央同盟国」とよばれていたものですが、この時期この4カ国はそれぞれの抱える事情から、もはや不可能となった「勝利」よりも、「敗北」を甘受してでも国家を生き残らせるため、戦争終結へと大きくその方針を転換させていました。

すでに1918年9月末、中央同盟国の中で最も小国であったブルガリアが、連合国との間でテッサロニキ休戦協定を結んで同盟から離脱、さらに1ヵ月後の10月末には、南のオスマン帝国がイギリスなどの連合国との間でムドロス休戦協定に調印して戦闘を停止、中東・アラブ戦線も終結します。こうして中央同盟国は完全に崩壊し、残るはドイツとオーストリアだけになってしまいます。

そして同年11月初め、同盟の首魁であるドイツで帝政打倒の革命が発生、皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命してしまい、もはや全ての戦線で総崩れとなっていたドイツ帝国軍司令部は11月11日、ついに連合国との間に休戦協定を結び、戦死者1千万、民間人の死者1千万、負傷者2200万という膨大な犠牲者を生み出した第一次世界大戦はここに幕を閉じる事になりました。


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上がフランス、コンピエーニュの森で行われたドイツと連合国間の休戦協定調印式の様子です。ちなみにここで使われている「休戦協定」というのは、戦勝国が敗戦国に対し、国際条約で認められた一部を除いて完全な服従を要求する「無条件降伏」ではなく、交渉の進展次第ではいつでも戦闘を再開し、戦争を続行する文字通りの「休戦」という建前でしたが、現実にはもはやドイツにその余力は無く、事実上の「降伏」に近いものでした。

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上は休戦協定調印によって停戦し、タバコに火を付け合うドイツ兵とイギリス兵です。(泥と埃にまみれ、擦り切れて薄汚れたボロボロの軍服姿のかつての敵同士は、一服しながら何を語りあったのでしょうね。)

そして同じ頃、このテーマの主役であるハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国はどうなっていたのでしょうか?

1918年のこの時期、ドイツとともに、中央同盟国の中核を担っていたオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝は即位から2年足らずのカール1世という人物でした。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国4代皇帝カール1世です。(1887~1922)

しかし、彼が皇帝となったのは大戦が始まって膠着状態になっていた1916年の終わりであり、そもそもこの戦争自体は彼が始めたものではなく、彼の大伯父である先帝フランツ・ヨーゼフ1世から引き継いだものでした。

もともと軍人出身であった彼は、皇帝となった時点で早々に同盟国側の敗北を悟り、密かに妻である皇妃ツィタの兄弟のコネクションを通じてフランスとの単独講和に動き出します。(残念ながらこの作戦は、ドイツ・オーストリア間の離反を狙った方が得策と判断したフランス側の裏切りによって暴露されてしまい、これを知ったドイツの信用を失ってしまいました。)

そして迎えた1918年、同盟国ドイツの乾坤一擲の大反攻作戦は失敗し、上で述べた様にブルガリア、トルコなどの同盟離反によって各戦線は崩壊していきます。そしてこれまで鳴りを潜めていた帝国内の他の民族(チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドなど)が一斉に独立を宣言、帝国自体も崩壊していきました。

もうカール帝にこの激流の様な状況の変化を止める事は出来ませんでした。11月3日、彼は交戦していたイタリアとの間でヴィラ・ジュスティ休戦協定を結んで戦争から手を引き、シェーンブルン宮殿において自らの「退位」とハプスブルク家による国事不関与を宣言すると、皇帝一家をはじめ主だったハプスブルク家の一族は宮殿を去りました。こうして初代ルドルフ1世以来600年余り続いたハプスブルク家によるオーストリア支配は終焉を迎え、オーストリア・ハンガリー帝国は滅亡しました。そして後には共和制の臨時政府が樹立され、新生オーストリア共和国が誕生したのです。

さて、情勢の激変によって退位したカール1世はじめ、ハプスブルク家の人々はその後どうなったのでしょうか?

皇帝、いや「元皇帝」のカール1世とその一家は、大戦後スイスに亡命しますが、カールは「復権」を諦めてはいませんでした。彼はかつて自分が「ハンガリー王」も兼ねていた事からハンガリー国王に復帰し、そこからオーストリア・ハンガリー帝国を復活させようと目論んでいたのです。彼はその実現のため1921年にハンガリーに現れます。

しかし、当時のハンガリーの指導者ホルティ・ミクローシュをはじめ多くのハンガリー人たちは、この彼の動きを認めず、また帝国崩壊後に生まれたチェコ、ユーゴスラビアなどの周辺国も反対し、それどころかこれらの国々は、

「カールをハンガリー王にすればハンガリーに攻め込む。」

とまで言い放って強く牽制します。理由は簡単です。これを認めればハプスブルク家が復活し、つまり彼らにとって忌まわしい旧勢力によってせっかく手にした自由と独立が、再び奪われてしまう事になりかねなかったからです。


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上が当時のハンガリー王国執政であったホルティ・ミクローシュです。(1868~1957)彼は元はオーストリア・ハンガリー帝国海軍中将で、大戦中はアドリア海と地中海において、イギリス、フランス、イタリア艦隊を相手にはるかに少ない艦艇で互角の戦いを展開した名提督でした。その名声と人気から、戦後は母国ハンガリーで執政(首相に相当)に推挙されて国政を担います。彼自身はハプスブルク家に忠義を感じていましたが、それは個人的な問題であり、ハンガリー国家としては、長いハプスブルク家の支配に耐え忍んできた国民感情から、カールを国王にする事そのものが不可能でした。(そのためハンガリーは国王不在のまま「王国」として独立します。理由は東のソヴィエトの共産主義が国内にはびこるのを防ぐため、共産主義と最も対極的である君主国にして置く必要があったからでした。)

こうしてカール1世のハプスブルク家復権の夢は潰え去り、彼は空しくスイスに戻ります。そしてこのハプスブルクという名の翼の折れた双頭の鷲は、それから二度と再び栄光に輝く大空へ飛び立つ事は出来ませんでした。

困難と不幸は重なるもの、それが世の中というものです。さらなる苦難がカールに降りかかります。なぜならこの彼のハンガリーでの動きが、中立国スイスをも怒らせる事になってしまい、カール一家は国境で足止めされてしまったからです。(もともとスイスもハプスブルク家と戦い続けてきた長い歴史がありますからね。)スイス政府はカール一家のスイス入国を許さず、やむなく一家は自分たちを受け入れてくれる他の中立国を探し、やっとポルトガル政府に入国を許され、同国に亡命しました。(彼らがポルトガルに亡命したのは、皇妃ツィタの母が旧ポルトガル王家ブラガンサ家の出身であったからです。)


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上が亡命したカール1世一家です。写真には2人の子しか写っていませんが、彼は皇妃ツィタとの間に5男3女8人の子に恵まれました。

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上が皇帝一家が亡命したポルトガル領マデイラ諸島とその位置です。(人口約25万)写真で見ると、温暖で風光明媚な美しい島ですが、その位置は地図をご覧になればお分かりの様に、彼らの故国オーストリアからはるか離れた大西洋の沖に浮ぶ絶海の孤島でした。(それにしても、かつて「神に選ばれた一族」としてヨーロッパはおろか世界に君臨した名門王家がこんな地の果てにまで追いやられてしまうとは、歴史とはつくづく恐ろしいものです。)

そしてこの地が、オーストリア・ハンガリー帝国の「ラストエンペラー」であるカール1世最期の地となります。彼は皇帝となってからの数々の苦労によってその寿命を縮めてしまったのか、ポルトガルへの亡命から1年後の1922年4月に肺炎によって亡くなりました。(享年34歳)

カール帝の死後、残された皇妃ツィタはしばらくはマデイラに滞在していましたが、夫の葬儀や雑事が一段落すると、やがて幼い子供たちを連れてヨーロッパ各国を転々とする様になります。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇妃ツィタ・ブルボン・パルマです。(1892~1989)彼女はその名の通りフランス革命で滅んだブルボン王朝の流れを組むパルマ公家からハプスブルク家に嫁ぎ、王侯貴族特有の選民意識を持っていました。それゆえ亡き夫カール1世よりはるかにプライドが高く、ハプスブルク王朝の存続を当然の事と思っており、いつの日かハプスブルク家に再び君主の座が戻ってくると亡くなるまで信じて疑いませんでした。(先に述べたカール1世のハンガリー王への復帰計画も、皇妃ツィタの強い後押しで進められたものです。)

彼女は、かつて大帝国の皇后として何不自由の無かった豪華絢爛な生活から一転、8人もの子供たちを抱えてその生活は大変苦しかった様です。しかし意志の強い彼女は、「栄光あるハプスブルク家最後の皇后」という間違う事なき自分の身分を武器としてしたたかにヨーロッパ社交界を渡り歩いていきます。その彼女を影に日向に援助したのは、かつて全ヨーロッパに散らばっていたハプスブルク家の血を引く一族でした。そうした助力の支えもあり、8人の子供たちを立派に育て上げた彼女は、東西冷戦終結の年である1989年、92歳の長寿を全うして亡くなります。

それから・・・時は移ろい、月日は流れ、ヨーロッパの歴史はさらに激しく変化していきます。ヒトラーの出現、ナチス・ドイツのオーストリア併合、そして第二次世界大戦、再び繰り返されたさらにひどい悪夢の大戦、その後の40年以上続く東西冷戦。激動する時代のうねりの中で、それにつれて人々の間でも、いつしかハプスブルク家とその長い歴史については記憶の片隅に深く沈みこんでいきました。

しかし、このハプスブルクという名の双頭の鷲は、帝国滅亡によって人々の記憶にわずかに残るだけの存在になっても、強くたくましく生き続けていました。

最後の皇妃ツィタが育て上げた8人の子供たちのうち5人の息子たちは、成長してからもハプスブルク家の正等な末裔としてそれぞれの立場で活動し、また多くの子孫を残してその誇りと伝統を未来へとつないでいたのです。

その筆頭が最後の皇帝カール1世の長男であり、同時に最後の皇太子でもあったオットー・フォン・ハプスブルク氏です。


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上が近年までハプスブルク家の当主であったオットー・フォン・ハプスブルク氏です。(1912~2011)彼は東西冷戦後に出来たヨーロッパ連合(欧州連合)の議員を長年務め、彼が唱えた先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢が、中世的な帝国的思想であると非難される事もありましたが、欧州連合による欧州統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目されています。

残念ながら彼は2011年に98歳の高齢で亡くなりましたが、彼も、他の4人の弟たちもオーストリア皇帝としての帝位請求権は頑として捨てる事はありませんでした。(それゆえ現在でも彼らハプスブルク一族はオーストリアへの入国が禁止されています。)

現在このハプスブルク家の当主は、オットー氏の長男カール氏が引き継ぎ、父がその成立に大きく貢献してきた欧州連合議会の議員を兼ね、また名目上ですが「オーストリア皇帝家並びにハンガリー王」の正当な権利者となっています。


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上が現ハプスブルク家当主であるカール・フォン・ハプスブルク氏です。(1961~)その隣の少年が彼の長男フェルディナント(1997~)で、ハプスブルク家の伝統はやがて彼に受け継がれていくでしょう。彼ら親子は他にも、その姻戚関係から順位は遠いものの、スペイン、ベルギー、ルクセンブルクなどの各国王家の王位継承権を持っており、これらの王家で後継者が絶える事になれば、再び君主として復権する可能性を秘めているのです。

彼らハプスブルク家が君臨した帝国はとうに滅び去り、今日のヨーロッパにおいて、かつての様な絢爛豪華な王朝が再興される事はありえないでしょう。しかしハプスブルク家がヨーロッパ中に広めた「一致団結」の思想は、長く分裂して互いに争ってきたヨーロッパ諸国の歴史に初めて民族、宗教、国境の垣根を取り払い、全ヨーロッパを一つの国家として統一するという途方もない夢を実現させ、今まさにそれが着実に進行しています。これはヨーロッパの人々が自分たちに課した壮大な実験でもあり、その動静を今だに分裂と争いが続く全世界が注目しています。しかし、彼らはこの実験を見事に成功させ、繰り返されてきた戦争によるものではない統一されたヨーロッパという理想の新国家が誕生する日も、そう遠い事ではないものと思います。

駆け足ではありましたが、ヨーロッパに640年に亘って君臨した名門王朝ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国についてのお話はここで筆を置きたいと思いますが、いかがだったでしょうか?(毎度の事ながら自分の起承転結まとまりの無いヘタクソな駄文で、こんなブログを読んで頂いた方には申し訳ありません。汗)

続きものの長編が続いたので、次回から少し趣きを変えて一話完結の短編ものでも書こうかと思っているので、(テーマは知られざる「世界のびっくり兵器」についてで、ただいまネタ探し中です。)こんなブログでも目に留めて頂いたら、飲み物でも飲みながら暇つぶしにお立ち寄りください。(笑)

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