ツァーリ・ボンバ ・ 世界を滅ぼす魔の「皇帝」

みなさんこんにちは。

今回から新しいテーマとして、これまでの歴史で人類が作り出した数々の知られざる「びっくり兵器」についてお話していきたいと思いますので、ご興味をお持ちの方は暇つぶしにお立ち寄りください。

第1回は今だ記憶に新しい東西冷戦下の時代、旧ソ連において造られた史上最大の核兵器、「ツァーリ・ボンバ」についてです。

このツァーリ・ボンバは1961年(昭和36年)7月、当時のソ連首相ニキータ・フルシチョフの命令によって造られ、3ヵ月後の同年10月末にソ連北方の北極に近い大きな島、ノヴァヤゼムリャで爆発実験が行われました。


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上が当時のソ連首相セルゲイ・ニキータ・フルシチョフです。(1894~1971)彼はレーニンに始まる旧ソ連3代目の最高指導者であり、先代の独裁者スターリンによる数々の圧政と個人崇拝を批判したのは良く知られていますね。彼がソ連の指導者として君臨していた時期は、アメリカとの激しい核兵器開発競争の真っ只中にありました。

フルシチョフは、アメリカを始めとする西側諸国との「共存」をその基本政策にしていましたが、同時にソ連の軍事的強大さをアメリカに見せつけるために、これまで米ソ両国で行われたどの核実験をも凌ぐ、最大最高の威力を持つ「水爆」による核実験を実行させたのです。


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上が水爆ツァーリ・ボンバの実物大の模型です。横に写っている人たちと比較すると、いかに巨大な物かお分かりいただけると思います。この水爆はソ連における「水爆の父」と呼ばれた(あまりうれしくないというか、自慢にならない呼び名ですね。苦笑)アンドレイ・サハロフ博士らのグループによって開発されました。

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上がツァーリ・ボンバの生みの親であるアンドレイ・サハロフ博士です。(1921~1989)彼はこの時40歳で、他にも多くの核兵器を開発した当時のソ連最高の物理学者であり、1948年のソ連最初の原子爆弾も、若干27歳の彼の手により造られた物でした。しかし、彼はこのツァーリ・ボンバを始め、自らが造り出してしまった多くの核兵器の実験による放射能汚染のひどさを目の当たりにし、それまでの自分のキャリアを捨てて核兵器反対を訴えていく様になります。

さて、前置きが長くなりましたがこの史上最大の水爆「ツァーリ・ボンバ」についてのお話を続けます。

そもそもこの怪物爆弾の名前「ツァーリ・ボンバ」の由来はロシア語で「爆弾の皇帝」を意味し、単純にその巨大さと、他に並ぶものの無い破壊力の凄まじさから、あらゆる全ての核爆弾の王の中の王すなわち「皇帝」として、西側諸国によって名づけられました。

その大きさはなんと重量27トン、全長8メートル、直径2メートルという巨大なものです。ここでこの「水素爆弾」というものの原理についてごく簡単にご説明すると、その名の通り水素をそのエネルギー源に、この核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用して核融合反応を誘発し、莫大なエネルギーを放出させるものです。大変な高温による核融合反応(熱核反応)を起こす事から「熱核爆弾」や「熱核兵器」とも呼ばれ、その破壊力は原爆をはるかに上回ります。(この水素に核融合反応を起こさせるには膨大なエネルギーが必要であり、そのため水爆の起爆装置には「原爆」が使われているそうです。)

1961年10月30日、この水爆実験のために特別に改造されたソ連最大の戦略爆撃機TU-95によって、先に述べたノヴァヤゼムリャ上空に運ばれ、北緯73度付近の高度1万500メートル付近で投下されました。


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上がそのノヴァヤゼムリャの位置と、ツァーリ・ボンバを運んだソ連最大の長距離戦略爆撃機TU-95です。(全長約50メートル、四発の大型プロペラ機ですが、驚くべき事にこの爆撃機、現在でもロシア空軍で現役で使用されているそうです。その理由はプロペラ機でありながら最大時速900キロ以上を誇る高速性で、ターボジェットエンジンであるアメリカ軍の長距離戦略爆撃機B-52の最大時速860キロを凌ぎ、また今日においてもこのTU-95を越える速度のプロペラ機はなく、世界最速のプロペラ機として有名だそうです。)

このツァーリ・ボンバはその巨大さから、そのままではTU-95に搭載できなかったため、爆弾倉の扉と翼燃料タンクは実験に際して取り外され、それでも全容を納める事は出来ず、やむなく半埋め込み式に搭載されました。


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上がその様子と爆弾投下の瞬間です。(不鮮明ですいません。汗)爆弾の後ろにたなびいているのは爆弾の投下速度を遅らせるための減速用パラシュートで、これだけでも重さは800キロにもなったそうです。これを取り付ける理由は投下機が爆心地から45キロメートル程にある安全圏へ退避する時間を与えるためで、もしこれが無ければ猛烈な熱線と衝撃波が搭乗員もろとも投下機を一瞬にして消し去ってしまい、また弾頭が高速で地面に激突して一面に想像もつかない結果を引き起こしてしまうからでした。

ツァーリ・ボンバは高度4千メートルに達したところで空中爆発、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は実に58キロメートルにも及んだと見られています。


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上の3枚の写真がツァーリ・ボンバ爆発の瞬間を捉えたもので、4枚目と5枚目が他の核実験で使われたものとの火球とキノコ雲の比較です。(数字は中心からの距離で、つまりツァーリ・ボンバの火球の直径は4.6キロ)爆発による火球は地表まで届き、上部は投下高度と同程度の高度1万メートルまで到達し、その様子は千キロメートル離れた地点からも見えたそうです。これにより生じたキノコ雲は高さ60キロメートル、幅30~40キロメートルにまで達しました。(ちなみに核爆発で生じる「キノコ雲」というのは、爆発による熱線によってその周辺の空気中の水分が一瞬にして気化蒸発し、水蒸気となって上に上がっていく現象です。)

水素爆弾の性質上、核分裂による放射性汚染はわずかでしたが、この爆発による衝撃波は地球を3周してもなお空振計に記録され、日本の測候所でも衝撃波到達が観測されたそうです。その威力は50メガトン(1メガトンは千キロトン、つまり百万トン分のTNT爆薬が爆発したときに発するエネルギーに相当する核出力を意味します。TNT爆薬とは、核兵器以外で最も破壊力の強い高性能爆薬の事です。)人類がこれまでに造り出した最大最強の兵器であり、同時に世界を滅ぼす威力を持ったまさしく「魔の皇帝」でした。

最後に、この怪物爆弾を出現させた2人の人物、フルシチョフとサハロフ博士についてお話して置きましょう。実験を命じたフルシチョフはその後、1962年に米ソ核戦争の瀬戸際までに至った有名な「キューバ危機」を、当時のアメリカ大統領ケネディとの間で上手く収め、またサハロフ博士の進言を聞き入れて、アメリカやイギリスと「部分的核実験禁止条約」を結び、核軍縮を進めるなどの功績を残したものの、その短気で激情的な性格から暴言や粗野な振る舞いが嫌われ、さらに権力を自分に集中させようとした事から、1964年10月(昭和39年、わが国では東京オリンピックの年ですね。)政敵であるレオニード・ブレジネフらの反フルシチョフグループによって強制的に更迭され、失脚してしまいました。


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上が会談するケネディとフルシチョフです。みなさんもご存知の様にケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚し、1971年(昭和46年)に77歳で亡くなるまで、モスクワ郊外の別荘で当局の監視下に置かれてしまいます。(部屋中に盗聴器が仕掛けられていたそうです。)ちなみにこのフルシチョフは、意外にもわが日本に対しては親日的で、特に戦後の焼け跡から復興し、驚異的な経済発展を遂げていた当時の日本の姿を大変羨み、

「わがソ連がサンフランシスコ平和条約に調印しなかったのは誤りだった。たとえ北方領土問題で譲歩してでも、日本と友好関係を持つべきだった。」

と述べています。彼があのままソ連の指導者であったなら、今日も続く北方領土問題は違った展開を見せていたかもしれませんね。(個人的な考えで恐縮ですが、この件さえ片付けば、わが国はロシアといくらでも友好関係を持てると思います。個々のロシアの人々はとてもいい人たちなのですから。)

そしてツァーリ・ボンバの生みの親であるサハロフ博士は、先に述べた様にこの実験の後で核兵器反対を唱え、さらにそれはソ連共産党指導部への自由と民主化を求める反体制的運動へとエスカレートしていきました。やがて彼はその活動が国際的に評価され、1975年(昭和50年)にノーベル平和賞を受ける事になりますが、次第にブレジネフらのソ連政府にとって邪魔な存在となっていきます。そして1980年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻に際しても公然と抗議したため、業を煮やしたブレジネフ書記長によって一切の栄誉を剥奪され、流刑にされてしまいました。

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上がサハロフ博士を流刑にした当時のソ連最高指導者レオニード・ブレジネフ書記長です。(1907~1982)彼はフルシチョフを失脚させた後、亡くなるまで18年間もソ連の最高権力者として君臨し続けました。しかし、その間に彼がした事といえば、国内での激しい権力闘争とアフガニスタンへの侵攻、モスクワオリンピックでアフガニスタン侵攻に抗議する米国以下西側諸国のボイコット、さらに米国との止め処の無い軍拡競争とその挙句の財政破綻が、9年後の1991年にソ連崩壊を招いた事は記憶に新しいですね。(多分多くの人が、彼のその太い眉毛に注目してしまうかもしれませんが。笑)

しかしその後、1986年(昭和61年)に改革派のゴルバチョフが書記長となって流刑を解かれ、彼の進める「ペレストロイカ」を支持してその改革に大きく寄与し、さらにその良心と勇気に基づく発言が西側の人々の尊敬も集めました。そして1989年(平成元年)2月に日本にも来日して即位されたばかりの今上天皇陛下にも謁見を賜わり、同年12月に68歳で亡くなりました。

このツァーリ・ボンバは単一の兵器としては人類史上最大最強でしたが、その巨大さゆえに実戦には不向きとされ(この地球上で核兵器そのものが不向きだと思いますがね。)量産される事はありませんでした。この様な恐ろしい「皇帝」が二度とこの世界に出現する事の無い様祈るのみですね。(「皇帝」は世界でただ一人、東京の皇居におられるわが天皇陛下お一人で十分です。笑)


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