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80センチ列車砲 ・ 史上最大の大砲

みなさんこんにちは。

今回のびっくり兵器は、これまで人類が造りだした大砲の中で最大の大きさを誇る、ドイツの「80センチ列車砲」についてご紹介します。

兵器についてお詳しい方ならばよくご存知と思いますが、初めて知る方のために改めて説明させていただくと、この80センチ列車砲というのは、第二次大戦中に当時のナチス・ドイツがその威信をかけて開発した超大型砲の事です。下に写真をいくつか載せますので、まずはその巨大さをご覧ください。


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上が今回のテーマの主役「80センチ列車砲」です。この巨大な大砲はドイツ最大の重鉄鋼企業クルップ社によって造られました。

総重量およそ1350トン、砲身も含めた全長は47.3メートルに達し、その重量を支える台車のために、線路はなんと複々線(つまり線路が4つ)も必要だったそうです。そしてその名の由来である口径(大砲の穴の大きさ)は80センチ、その巨大な砲門から発射される砲弾の重さは最大7トン、最大射程距離は48キロメートルという、まさに何もかも全てが最大の「怪物」でした。

もともとこの砲は、第一次大戦後にフランスがドイツとの国境線上に築いた長さ数百キロに及ぶマジノ要塞の攻略用に1934年から開発が始まり、当初は3両造られる予定でしたが、そのあまりの巨大さゆえに第二次大戦勃発に間に合わず、1940年にようやく2両が完成しました。(3両目は開戦当初の戦局がドイツ軍の圧倒的優勢に進んだために必要ないと判断され、中止となった様です。)

完成したこの2両の「怪物」は、当時のクルップ社の会長であったグスタフ・クルップと、設計者エーリッヒ・ミュラーの妻の名を取って(こんな怪物みたいな大砲に自分の名を付けられて、この奥さんはなんて思ったでしょうね。笑)「グスタフ」「ドーラ」と名づけられました。しかし、完成時すでに第二次大戦は始まっており、ドイツ軍機甲部隊はマジノ要塞を迂回してフランス領内になだれ込み、要塞の後方からフランス軍に襲い掛かってあっけなくフランスを降伏させてしまったので、当初の目的であったマジノ要塞攻略で使われる事はありませんでした。

それにしても、よくもこんな化け物みたいな大砲を造り出したものですが、一体誰がそれを命じたのでしょうか? もちろんそれは言わずと知れた事ですね。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーです。


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上の一枚目がこの巨砲を視察に訪れたヒトラー。そして彼の隣にいるナチスの紋章ハーケンクロイツの腕章をした人物が、軍需大臣アルベルト・シュペーア(1905~1981)です。2枚目は後姿ですが、右からシュペーアとヒトラーです。

ヒトラーがこのお化け大砲開発の許可をした真意は不明ですが、あの人物の事です。実戦兵器としての価値よりも、自らの名を歴史に刻む巨大な鋼鉄のモニュメントの一つとして、それまで前例の無い巨大な大砲を造らせ、自分とドイツ第三帝国の強大さを全ヨーロッパの人々に見せ付けるつもりだったのでしょう。(ヒトラーはこの砲以外にもいくつかの巨大な兵器を造らせていますが、それは全て大砲や戦車といった「陸上兵器」でした。どうもこれは、彼が第一次大戦中はドイツ陸軍の一兵士として戦い、つまり陸軍出身であった事が大きく影響している様です。)

ここでこの「列車砲」について簡単にご説明して置きましょう。この列車砲というものが歴史に登場したのは意外にもヨーロッパではなく、1860年代のアメリカ南北戦争で、当時の北軍が鉄道に臼砲(「きゅうほう」臼の様な形をした砲身の短い大砲)を載せて使用したものが最初といわれています。その後鉄道の発達とともに改良され、次第に射程距離の長い強力なものが求められる様になり、長砲身・長射程・大重量・強力な破壊力を持つ最大の陸上兵器として、主にヨーロッパ諸国で盛んに造られ、第二次大戦前まで地上におけるあらゆる兵器の王者でした。

一般に「大砲」というと、側面に車輪が付いて自由に移動させる事が出来るものを思い浮かべる方が多いと思いますが、先に述べた様に射程距離の長い強力なものが求められる様になると、大砲自体も砲身が長くなり、その長い砲身を支えるために砲の本体部を巨大化せざるを得ず、(そうして本体を重くしないと長い砲身を支えきれず、また砲撃の際に砲身の重さと発射の反動でひっくり返ってしまいますからね。)その巨大な本体の移動のために鉄道を利用した列車砲が発達したのです。

さて、第二次大戦初期におけるドイツ軍の圧倒的な快進撃によって活躍する機会の無かったグスタフとドーラでしたが、その後独ソ戦の開始とともに東部戦線に送られ、1942年7月、クリミア半島南部に位置するセヴァストポリ要塞攻略のためにクリミアにその巨大な姿を現します。そしてこの地で初めて実戦に参加し、その威力を発揮しました。


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上が砲撃の瞬間と砲弾の実物大のレプリカです。記録によれば、2つの砲のうちグスタフが当地に運ばれ、合計48発の巨弾を撃ち込んでいます。さらにドーラの方も、同時期に行われていたスターリングラード攻防戦で使用されました。

しかしこのグスタフとドーラ、残念ながら逆にドイツ軍にとって大きな負担になってしまいます。なぜならこの砲一門を使うには、砲自体の操作に約1400人、防衛・整備等の支援に4千人以上の兵員と技術者が必要で、(合計すると最大6千近くになり、一個旅団規模ですね。そして指揮官は少将クラスだったそうです。)しかも砲弾が5トンから7トンほどもある巨大なものであるために砲撃は一日に14発が限度で、さらに砲身の寿命が100発程度と短く、重さ400トンもある砲身の交換だけでも大変な時間がかかってしまうからでした。


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上が砲身の交換場面です。(砲身の大きさと分厚さに注目。)

このグスタフとドーラは2門合わせて合計1万を越える人員を必要とするため、ソ連軍との戦いで多くの兵力を失っていたドイツ軍にとって、一個師団規模に当たる貴重な兵力をたった2門の大砲に削がれてしまい、それだけの労力を割いても2門合わせて一日に最大28発しか発射出来ないなど、図体の大きさの割には見返りの少ない、つまり今風に言えば「極めてコストパフォーマンスの悪い」兵器でした。また大戦後半には連合軍の反撃によりドイツ軍がヨーロッパの制空権を失ったため、その後使用される事はほとんどなくなってしまいます。(移動するにもその巨大さから航空攻撃の格好の的になってしまいますからね。)

すでに戦場では多くの戦闘機や爆撃機の空爆によって制空権を握り、地上を戦車をはじめとする機械化された地上部隊によって迅速に攻撃制圧するスタイルが主流になっていました。それは大戦初期にドイツ軍自身が大いにそれを実証して見せたものです。そんな中にあってこの様な巨大な大砲や要塞などというものは、もはや時代遅れの無用の長物になっていました。にもかかわらずドイツ軍は、動かすだけで大量の兵力を削がれ、極めて局所的にしか効果の無いこの砲を使い続け、結果として貴重な兵力を遊兵にしてしまう事になってしまったのです。

結局このグスタフとドーラはその巨大さが仇となり、その後敗退続きのドイツ軍にとって大きな「お荷物」に成り下がってしまいます。やがて終戦直前、もはや巨大な鉄くず同然で手に余ったドイツ軍は、「このまま放棄して連合軍の手に落ちるよりは。」と2門とも自ら破壊してしまいました。(そのため詳細な記録すら残っていません。)

それが史上最大の大砲の最後でした。そしてそれは同時に列車砲の歴史の終わりでもあり、その後この様な巨大な大砲が造られる事はありませんでした。残念ながら今日の私たちはその巨大な姿を見る事は出来ませんが、しかしその名はかつて人類がその歴史の中で造り出した造形物の、ある最大にして最高到達点の一つ(あくまでも一つですが。笑)として記憶に留めて置くべきものではないでしょうか。
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テーマ : 歴史
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