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トルコ民族の出現 ・ セルジューク・トルコのアナトリア征服

みなさんこんにちは。

今回から新しいテーマとして、現在のトルコを中心にアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大国家を築いたイスラム世界の覇者、オスマン帝国についてお話したいと思います。

今自分は上で「オスマン帝国」と言いましたが、自分が学生時代の世界史の授業では、「オスマン・トルコ」と教わりました。おそらく昭和世代の方なら同様の人も多いのではないでしょうか? しかし、この帝国が最盛期に支配した地域は、上で述べた様にトルコ本国はおろか、現在の国にしておよそ30カ国以上にもなる広大なものであり、当然支配した民族も数十に及ぶため、単純に「トルコ人の国」とは言い難い事から、現在ではこの帝国を築き、600年以上に亘って世襲の君主として君臨したオスマン家の名だけを取ってこう呼ばれています。

オスマン帝国といえば、歴史好きの方ならば当然その名はご存知でしょう。あの有名な軍楽隊のメロディーに乗って、強大な軍事力で周辺の国々をことごとく討ち従え、全ヨーロッパを震え上がらせたイスラム最大最強の帝国。しかし、世界史などではもっぱらヨーロッパをその中心として語られる事が多く、とりわけ帝政ローマ時代から第二次大戦終結までのおよそ2千年は、世界史というより「ヨーロッパ史」と云った方が良いのではないかと思うほど情報が偏っています。

そのためこのオスマン帝国については、古代ローマ帝国に始まる世界史上比類ない大帝国のうちの一つであるのに、その実像や歴史についてはあまり知られていません。かつて彼らと数百年間も死闘を繰り広げたヨーロッパ人の、異教徒イスラムへの恐怖と憎しみという主観によって創り上げられたイメージが定着してしまっている様に感じられます。

そのイメージとは、「侵略者」「略奪者」「殺戮者」そしてそれゆえに戦いだけを好み、支配した民族に圧政を敷き、文化や芸術の素養のカケラも無い野蛮で凶暴な「悪の帝国」なのだというものです。しかしこれは事実なのでしょうか? 侵略と破壊と殺戮を繰り返し、人々を恐怖で支配するというやり方だけで、果たして600年以上もの間、繁栄する事が出来るのでしょうか? 当ブログではその様な疑問点も含め、オスマン帝国の誕生と栄枯盛衰を、帝国の支配者であるオスマン家の人々のエピソードも交えてお話したいと思います。

そもそもこのオスマン帝国はいかにして誕生したのでしょうか? それをお話しする前に、まずは帝国を築いた民族であるトルコ人がいつ頃どこから現れたのか、オスマン帝国建国以前にトルコ民族が最初に築いた知られざる帝国であるセルジューク・トルコから話を始めたいと思います。


turkey1.gif

現在の私たちの地理的常識では、トルコという国は上の地図の位置、すなわちアナトリア半島(小アジアとも呼ばれます。)を思い浮かべますが、もともと彼らトルコ民族の発祥の地は、現在よりはるか東方の中央アジア一帯でした。

2013100316243565e.jpg

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上がその位置と中央アジアの風景です。私たち日本人の感覚では、この地域というと荒涼として荒れ果てたイメージがありますが、(自分だけでしょうか? 子供時代にNHK特集で放映されていた「シルクロード」を見て以来、自分の頭ではそんな感じなので・・・笑)意外に緑豊かなんですね。見渡す限りの大草原です。そしてかつてトルコ民族がこの地域一帯にいた事の証拠に、「トルクメニスタン」「トルキスタン」などがこの地域の国名に残っていますね。

ではもともとこの地域にいたトルコ人たちが、なぜ現在のトルコのあるアナトリアに移動したのでしょうか? 話は10世紀にまでさかのぼります。当時この地域で遊牧生活を営んでいたトルコ人たちは当然の事ながらいくつかの部族に分かれ、それぞれの族長をリーダーとしていました。そしてその中の一部族の族長であったセルジューク(生没年不詳)によって最初の国家が建国されました。それが「セルジューク・トルコ」です。

ただし、このセルジュークなる人物が一代で帝国を築いたわけではありません。彼はそれまで宗教などバラバラであったトルコ人たちの中でいち早くイスラム教に改宗し、王朝の基礎を築いたのですが、何しろ千年以上も前の人物であり、肖像画はもちろん詳細な記録も残っていないためにそれ以上の事は分かっていません。その後数代を経て正式に「帝国」として成立させたのは、セルジュークの孫かひ孫であるトゥグリル・ベグ(993~1063)という人物でした。

この人物も肖像画は残っていないのですが、記録によればトゥグリル・ベグは1038年、イスラム教の創始者であるムハンマド(570?~632)の死後、ムハンマドの代理としてイスラム世界をまとめる最高権威者であるカリフから初めて「君主」を意味する「スルタン」の称号を授かり、自らのスルタン即位をもって、祖先のセルジュークの血を引くセルジューク家世襲の帝国を開いたのです。

このあたりは、ヨーロッパの歴史におけるローマ教皇と皇帝や国王たちとの関係を思い浮べれば理解しやすいでしょう。つまりキリストすなわち「神」の代理人であるローマ教皇に皇帝や王として認められる事によって、その地位と権力が神に与えられた神聖不可侵なものとあまねく人民に知らしめた様に、イスラム世界においてもアッラーの神の言葉を伝えるムハンマドの「代理人」であるカリフからスルタンとして認められる事によって同じ効果を得ようとしたのです。(それにしても人間なんて考える事はみんな同じなんですね。笑)

そして彼の死後も帝国はセルジューク王家によって拡大し続け、最終的にはイラン、イラクを本拠地とする大帝国へと成長しました。


12.jpg

上がセルジューク・トルコ最盛期の12世紀(1100年頃)の領土です。そしてトゥグリル・ベグの甥で、2代スルタンであるアルブ・アルスラーン(1029~1072)の代に、現在のトルコであるアナトリア方面に3万の軍勢で侵攻、当時この地域を支配していたビザンツ帝国と開戦します。そして迎え撃つビザンツ皇帝ロマノス4世(?~1071)率いる7万のビザンツ軍を破り、なんと皇帝ロマノス4世を捕虜にするという大勝利を挙げました。(1071年、マラズギルトの戦い)

BnF_Fr232_fol323_Alp_Arslan_Romanus.jpg

上がセルジューク軍に敗れて捕虜になり、アルブ・アルスラーンの前に引き立てられたビザンツ皇帝ロマヌス4世を描いた中世の絵です。この時彼はロマノスの首をかかとで踏みつけ、地面に口づけしろと迫ります。そして2人の間で次の様な会話が交わされたと伝えられています。

アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」

ロマノス「たぶん、貴殿を殺すか、首都コンスタンティノポリスの街頭でさらし者にするだろう。」

アルプ・アルスラーン「私の罰はそれよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にするのだから。」

そして彼は捕虜にしたロマノスを本当に釈放してしまうのです。(もちろんタダではありません。多額の身代金に引き換え、彼の息子である王子とロマノスの娘である皇女を政略結婚させ、事実上人質に取ったのです。)

なんだかとてもアルブ・アルスラーンがロマノス4世にひどい仕打ちをしている様ですが、実はこの2人、アナトリアの支配をめぐって合計4回も戦っているのです。そして1度はアルブ・アルスラーンが敗退した事もあります。そこで彼は当初ロマノスに和議を申し入れたのですが、ロマノス4世がそれを拒否して自ら戦端を開いてしまったのです。上の2人のやり取りはそんな事情も隠れていました。

彼はロマノスの運命を見通していたのでしょう。なぜなら皇帝自らが敗れて捕虜になるなど、3世紀にペルシアと戦って捕虜になったローマ皇帝ウァレリヌス以来800年ぶりの恥辱であり、そのうえ多額の身代金を先払いで払わされ、おめおめと生きて帰ってきたロマノスがただで済むはずは無いと計算していたからです。(彼の予想は的中し、その後コンスタンティノポリスに戻ったロマノス4世は政敵によって捕えられ、両目をつぶされた挙句追放されてしまったそうです。)

こうしてセルジューク・トルコはビザンツ帝国からアナトリアを奪い取り、この時に初めてトルコ人がこの地に入植していく事になりました。しかし、強大さを誇ったセルジューク・トルコもその後代を重ねるうちにセルジューク王家の一族で内紛が相次ぎ、それぞれに勝手に「スルタン」を名乗って帝国は複数に分裂してしまいます。

そして最終的にアナトリア地方に王朝を打ち建てたセルジューク家の分家の一族を除き、その他のセルジューク王朝はみな滅びてしまいました。そしてその長い期間にそれまでビザンツとイスラムの攻防の最前線であったアナトリアが徐々にトルコ人によってイスラム化していく事になるのです。

次回に続きます。
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