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帝祖オスマン1世 ・ 信義に厚い騎馬戦士

みなさんこんにちは。

11世紀初頭に中央アジアから南下し、破竹の勢いで周辺諸国を平定して、1038年に現在のイラン・イラクを中心にトルコ民族最初の帝国を建国したセルジューク・トルコは、1071年のマラズギルトの戦いで西のキリスト教国家ビザンツ帝国を破り、ビザンツ帝国のアジア側の領土であったアナトリア地方を手に入れました。

そしてこのアナトリア地方こそ、後に成立するオスマン帝国本国そして現在のトルコ共和国となるのですが、新天地を求めて絶えず征服戦争を続けてきたセルジューク・トルコも、この頃をピークに早くもセルジューク家一族内部で主導権争いが起こり、帝国は細かく分裂してしまいます。そして1077年にそれらの中で最も西の果てにある、前回述べたアナトリア方面に地方王朝を建てた一族を除き、その後それ以外のセルジューク一族は共倒れや内紛により次々に自滅していきました。

このアナトリアの地に王朝を建てたセルジューク家の分家一族はセルジューク本家と区別するため、前者を「ルーム・セルジューク朝」後者の本家セルジュークの方は「大セルジューク朝」と呼ばれているのですが、規模が小さくなったに過ぎない事から歴史上では区別する事無く一つの「セルジューク・トルコ」として紹介している場合が多いです。


800px-Anatolian_Seljuk_Sultanate.jpg

上がルーム・セルジューク朝の勢力範囲とその拡大の様子を年代で表したものです。この「ルーム」というのは「ローマの」という意味で、古来からイスラム圏から見てローマ(つまり東ローマすなわちビザンツ)の勢力圏であるアナトリアの地に初めてイスラム国家が建国された事からそう呼ばれています。

しかしこのルーム・セルジュークも、君主であるスルタンがめまぐるしく入れ替わり、政権は不安定で1250年代をピークに次第に弱体化していきます。そこへはるか東から、疾風怒濤のごとく強大な軍団が侵攻してきます。モンゴル帝国の襲来です。彼らモンゴル軍は、北はロシアから南はイスラム世界までを呑み込み、衰退していたルーム・セルジューク朝もその支配下に置かれてしまいます。


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上がモンゴル帝国最盛期の領土です。ルーム・セルジュークも完全に併呑されていますね。

この様にセルジューク朝が衰えていったこの時代、それまでセルジューク家に仕えて来た部族の族長たちが、次第に自立の道を進み出します。彼らはセルジューク家から与えられた所領を根城に小領主として土着化し、やがて互いの領地をめぐって私戦を繰り返す様になりました。

その多くの小領主の中の一人にエルトゥールル(1198~1281)という人物がいました。彼はルーム・セルジューク家からアナトリア北西部のソユトと呼ばれる小都市とその周辺を所領として与えられた小さな部族長に過ぎませんでしたが、この時代には珍しく83歳まで生きた大変な長命で、それまで領地など持たない浮き草の様な集団だった自分の一族と、彼に従う戦士たちやその家族のために、所領の維持拡大に奔走します。(この「エルトゥールル」という名は、後にわが日本とトルコが深いつながりを持つ事になるある出来事で再び登場しますので、記憶に留めておいてください。)

そのエルトゥールルの晩年の息子であり、父が築いたわずかな所領とささやかな地盤を元手に本格的に勢力拡大に乗り出すのがオスマンです。この人物こそ読んで字のごとく、後のオスマン帝国の創始者であり、オスマン帝国初代スルタンとなるオスマン1世です。


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上がオスマン帝国初代スルタン(皇帝)にして、オスマン家の帝祖オスマン1世です。(1258~1326)

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(彼に始まるオスマン帝国について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は250ページ余りで、書店で「オスマン帝国」といえば必ずこれが置かれていて価格も安いので、多くの方がまずこの本を購入されています。内容はどちらかと言えば歴史的な記述よりも、著者の執筆の目的からオスマン帝国とイスラムの制度や文化についての記述が多いです。)

ただし、ここで間違えてはならないのは、彼は父の死後すぐに族長になれたわけではないという事です。なぜなら当時の多くのトルコ民族の部族集団の間では、リーダーになるには先代が率いる戦士たちの同意と推戴がなければならなかったからです。先に述べた様にオスマンは、父エルトゥールルが晩年の60歳になってから生まれた息子であり、(息子というより「孫」の年齢ですね。笑)父が死んだ時彼はまだ23歳の若者でした。当然ながらリーダーとするには経験不足で若すぎます。父の代から従ってきた戦士たちの同意と推戴を得るには容易では無かった様です。

この頃のオスマン家とその配下の戦士たちは、まだ君主国としての体を成していませんでした。指導者がオスマン家から選ばれるのは良いとしても、その指導者が無能であれば別の者が選ばれ、他家に乗っ取られてしまう可能性がありました。つまり彼は戦士たちから「試されて」いたのです。そこで何とか族長に選ばれたオスマンは、そんな戦士たちの信頼を得るために実績づくりに取り掛かります。その実績づくりとは「戦って領地を広げる」事です。戦い続け、常に勝利し、戦利品を戦士たちに惜しげなく分け与える事で彼らの心を掴もうとしたのです。

オスマンは、彼のささやかな領地のすぐ近くの強敵ビザンツ帝国を刺激しない様に、まずはビザンツから遠く離れた東の辺境地域を支配下に収め、8つの城を手に入れます。さらにモンゴルの攻撃で土地を追われた戦士や領民を率先して迎え入れ、自らの軍勢に加えていきました。

こうした努力が実り、率いる戦士たちの信頼を勝ち得たオスマンは1299年、もはや滅亡寸前のルーム・セルジューク朝に見切りを付け、ついに独立して自らの王朝国家を建国します。後の「オスマン帝国」の誕生です。

さて、上で述べた様に歴史上オスマン帝国は、オスマンがルーム・セルジューク朝から自立した1300年初頭をもって成立したとされている事が多いのですが、事実はそうではありません。確かにオスマンは父エルトゥールルの死後、その地盤を引き継いでさらに勢力を拡大し、亡くなるまでに父の時代のおよそ10倍ほどの支配地を獲得して自分の国家を建国するのですが、当時アナトリアには彼と同じ様に独立した者たちがたくさんいました。彼らは「君候」(ベイリク)と呼ばれ、やがてそれぞれの勢力拡大のために私戦を繰り返していきます。オスマンもそうした「君候」のうちの一人に過ぎず、この時点における彼の国も「オスマン君候国」と呼ばれる小国でしかありませんでした。


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上がオスマンが生きた1300年代初めのアナトリア地方の地図です。多くの君候国が乱立しているのがお分かりいただけるでしょう。オスマンの国は、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルの対岸、ボスポラス海峡を隔てたアジア側に広がっていますが、周辺はオスマンと同規模の君候国がひしめき合う「群雄割拠」の状態でした。こうした状況下に対し、もはやルーム・セルジューク朝に彼らの勝手な乱立を抑える力はなく、1038年に成立したトルコ民族最初の大帝国セルジューク・トルコは1306年ついに滅亡します。

正式にオスマンの国が「帝国」として扱われるのは、オスマンが自立してから100年ほど経った14世紀末、彼のひ孫に当たる4代バヤジットの時代であり、最初から「帝国」と称していたわけではないのです。

ともあれアナトリアの一角に小さいながらも誕生したオスマン国家は、その後も創始者オスマンの元で拡大を続けていきます。オスマンは先に述べた様に、海を隔てた対岸のビザンツ帝国を刺激しない様に、まずは支配地を反対側の東部に広げ、この地域の8つの城を手に入れ、これを当面の東部防衛ラインとします。さらに今度は南部諸国とも激しい戦いを展開していきました。とりわけ南の強国カラマン君候国はオスマン国家のライバルともいうべき強敵で、その後も両国は激しく争います。

そうした戦いの最中で、着実に支配地を広げていったオスマンが次に手に入れたかったのは、自らの国にふさわしい「首都」となるべき街でした。もともと彼らトルコ民族は一ヶ所に定住する事無く絶えず移動する遊牧騎馬民族であり、それまで都市に住むとか、増して自分たちで都市を築くというキャリアはとても持ち合わせていませんでした。しかし小さいながらも国家として独立した以上自分たちの「都」が必要です。

そこでオスマンが目を付けたのが、かつてアナトリア全域がビザンツ帝国の領土であった時代に彼らが築いた地方都市の一つ「ブルサ」でした。ここはオスマンの支配地には無かった本当の「街らしい街」であり、アナトリア全域制覇とビザンツ帝国との戦いのに備えるためにも十分な立地と規模を備えていました。


bursa_merkez.jpg

上がそのブルサの現在の様子です。(人口およそ62万ほどのかなり大きな街です。)
オスマンはこのブルサを手に入れるため晩年の戦いに臨みます。しかし残念ながら彼はついに自らの都を手にする事は出来ませんでした。1326年オスマン帝国の創始者オスマン1世は、このブルサ包囲戦の陣中で68歳で亡くなります。

このオスマン1世については非常に古い人物であり、彼の生涯や人物について記した詳細な記録も残っておらず、言い伝えと伝説によるものを繋ぎ合わせた形で想像するしかないのですが、そうしたものを総合すると、とても信義に厚い人間味ある「戦士の中の戦士」であった様です。残忍なエピソードはなく、欲も無く、戦利品も配下の戦士たちに気前良く与え、また自分に味方したり協力してくれた者に対してもその恩を決して忘れず、必ず物質的な形で恩返しをする人でした。

こんな話が伝わっています。まだオスマンが君候になる以前の初期の戦いで、配下の軍勢の荷物が多すぎて戦いの邪魔になる事から彼は困ってしまいます。それらは全て戦士たちの私物であり、「捨てていけ。」と命じるわけには行きません。そこへその地域の小さな領主がそれらを預かってくれるというので、オスマンは彼を信じて荷を預け、戦いに出発します。そして戦いに勝利し、その領主の元に戻ると、預けた荷物はきちんと保管されてあったので、オスマンはその領主に大変感謝し、たくさんの皮袋に入れた大量のチーズとバターをお礼に贈ったそうです。

この話のどこが良いのかと思われるかもしれませんが、実はこの時オスマンが荷を預けたその領主はビザンツのキリスト教徒でした。イスラムのオスマンたちからすれば敵である異教徒です。つまりこの時代の常識から言えば、盗まれてもなんら不思議ではないのに、相手はきちんと約束を守って保管してくれていたのです。これは喰うか喰われるかの戦いに明け暮れていたオスマンにとって涙の出る思いだったのでしょう。彼はそうした人間らしい温情ある人物だったのです。

この様にオスマンが器の大きな人物であったのは間違いありませんが、そのために一方で彼自身はほとんど資産を持たない結果を招いてしまいます。実際彼が亡くなった時、息子オルハンが父から相続したのは、支配した領地以外ではわずかな身の回りの品々と何頭かのお気に入りの良馬、それに100頭に満たない羊の群れだけで、金銀の類いは全く無かったそうです。(理由は簡単です。敵の財を得ても、配下の戦士たちにみんな与えてしまうからです。)

しかし財貨などに代えられないあふれる温情ある指導者であったオスマンは多くの人々に愛され、彼の人柄に惹かれた多くの屈強な戦士たちが次々に従い、オスマン君候国は彼の死後も拡大発展を続けていきます。そうして彼の温情に直接触れた人々の支えもあって、オスマンの子孫たちは国を拡大させていく事が出来、やがてオスマン1世はそれら全ての人々によって、後のオスマン帝国の基礎を築いた偉大な帝祖として崇められる様になるのです。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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