スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

オスマン君候国の拡大 ・ バルカン半島への進出

みなさんこんにちは。

アナトリア西北部に独立国として自立した小国家を打ち建て、後のオスマン帝国の基礎を築いた創始者オスマン1世が1326年に亡くなると、その後を継いだのは彼の息子オルハンでした。


suzu03-05.jpg

上がオスマン帝国2代目のオルハン・ベイです。(1281?~1362?)彼は父オスマン・ベイの死後、小国とはいえ父が建国した国家を受け継ぎ、父の念願だったブルサの街の攻略を成功させるとそこに都を置き、その地に立派な霊廟を建てて父を埋葬しました。(上の彼の肖像は、彼が生きた時代より300年以上経た帝国全盛期に、歴代スルタンを称えるために想像で描かれたものです。また彼ら親子の名の下に付く「ベイ」というのは、イスラム世界におけるいわゆる「候」という称号です。まだ彼らの国は規模が小さく、それに周辺にも同規模の君候たちがしのぎを削っており、イスラム世界における「君主」すなわち「皇帝」を表す「スルタン」の称号を得るほどの力を持つ存在ではなかったため、彼らも「ベイ」を名乗っていました。)

新たにオスマン君候国の指導者となったオルハン・ベイでしたが、彼は前回もお話した様に父から自立した国家と軍団を相続したものの、金銭的にはそれほど裕福だったわけではありませんでした。なぜなら父オスマンは息子に軍資金となるほどの金銭的な資産をほとんど残さなかったからです。

しかしオルハンは落胆していたわけではありませんでした。なぜなら「金」などは自らの率いるオスマン軍団を持ってすれば今後いくらでも手に入れる機会はあったからです。といっても、そのオスマン軍団の勢力も決して大軍だったわけではありません。この時点におけるオスマン軍団は父オスマンの代から従う戦士たちからなるもので、せいぜい500騎程度のものであった様です。

それにしてもこのオルハン・ベイですが、父オスマンとは全く違ったタイプの強烈な個性の人物であった様です。これといった財も無く、率いる兵力もこの程度でしたが、彼は巧みな作戦で北のビザンツ帝国や周辺諸国との戦いに連戦連勝を重ねて領土を拡大していきます。


Orhan_I_area_map.png

上がオルハン・ベイが在位中に獲得した領土です。父オスマンから受け継いだ最初の領土からおよそ5倍程度にまで拡大させていますね。しかしこのオルハン・ベイ率いるオスマン君候国の拡大に大きな危機感を抱いていた国があります。それは海を隔てたすぐ間近のビザンツ帝国です。

もともとアナトリアを含む東地中海全域はビザンツ帝国の領土でした。それがイスラム勢力の出現によりじわじわとそれらを奪われ、アナトリア西北部にわずかに残っていたビザンツ領も、オスマン国家の興隆によって失っていました。もちろんビザンツ帝国もそれまで何もせず手をこまねいていたのではありません。そのイスラム勢力の出現以来その都度討伐軍を差し向け、イスラム軍を完膚なきまでに撃退した事も何度もあったのです。

しかしこのビザンツ帝国の抱える大きな問題はイスラム勢力などの対外的なものだけではありませんでした。一言で言ってしまえば、とにかくこの帝国は国内の政情が「不安定」なのです。常に帝位をめぐる争いと内紛が相次ぎ、混乱にさいなまれ、そうした混乱の隙を突いて新興周辺諸国に領土を掠め取られる衰亡の歴史を歩んできたのでした。

そして今やアナトリア全域は完全にオスマンらイスラム勢力に奪われ、ビザンツ帝国は「海」という天然の防衛線を盾にかろうじてイスラム教徒の侵入を防いでいる状態でした。時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世は、オスマン君候国がまだ小国のうちに叩いてしまうべく、オルハンが即位して3年後の1329年に自ら2千の兵を率いてアナトリアに出陣しますが、逆にオルハン・ベイ率いるオスマン軍に撃破されて敗退してしまいます。


320px-Андроник_III_Палеолог

上が当時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世です。(1297~1341)彼はこの戦いで負傷し、帝都コンスタンティノープルに逃げ戻ると方針を転換し、オルハン・ベイに和睦と同盟を申し入れます。なぜならこの時彼には南のオスマンに加え、北にも強力な敵が迫っていたからです。

neckar07b.jpg

上がこの頃の東地中海世界の地図です。ビザンツ帝国の北方に興隆したブルガリア王国とセルビア王国がビザンツ帝国を脅かしていました。それにしてもなぜアンドロニコス3世は同じキリスト教国である北の2カ国ではなく、異教徒のイスラムであるオスマン君候国と同盟したのでしょうか? その理由としては2つ考えられます。1つは単純にこれら南北の敵との2正面作戦すなわち「挟み撃ち」に合うのを避けるため、2つ目はオスマン他、南のイスラム勢力はみな遊牧騎馬民族であり、地上戦では圧倒的でしたが海上戦は苦手だったからです。

それにイスラム勢力とビザンツ帝国との間には、ギリシャのエーゲ海やマルモラ海という天然の防壁があり、これを越えて軍勢と軍馬を運ぶには大量の船舶が必要です。金も時間もかかるため一朝一夕でそろえられるものではありません。そこでアンドロニコス3世は、これを防衛線とすればなんとかイスラム勢力の侵入を食い止められ、北のブルガリアやセルビアとの戦いに兵力を集中出来ると判断し、事実上アナトリア奪還を断念(というより切り捨て)したのです。

このビザンツ側からの申し出はオスマン側にも有利でした。当時オルハン・ベイ率いるオスマン君候国は、すでに西北アナトリアに残っていたわずかなビザンツ領も全て手に入れており、その先は海であったため、この時点ではもはやこの方面に取るべき領土はありませんでした。そこで彼は軍勢を南へと転進させます。アナトリア南部にはオスマンと同規模の君候国がひしめいていました。しかしこれらを征服するためには北のビザンツ帝国との衝突は避けなければなりません。

こうした両者の思惑と利害の一致により1333年、ビザンツ帝国とオスマン君候国は同盟を締結します。その後8年ほど、両国はそれぞれの敵との戦いに傾注していたので、両国間においてほとんど戦闘はありませんでした(というよりその余裕が無かった)が、1341年のビザンツ皇帝アンドロニコス3世の急死により情勢はにわかに緊張します。

皇帝の急死は再びビザンツ帝国を恒例の帝位争いの混乱に陥れる事になりました。次の帝位をめぐって先帝の皇太子ヨハネス5世と先帝の重臣であった同名のヨハネス6世が争います。この時オルハン・ベイは南の諸君候国と争っていましたが、この方面の敵は意外に強敵で征服は困難を極めていました。そこで彼は再び侵攻先を北方に向けます。

彼は先に述べたビザンツ帝国の帝位争いの内紛に介入し、ヨハネス6世に味方して彼をビザンツ皇帝に即位させます。一方敗れた先帝の子ヨハネス5世は隣国セルビアに亡命して再起を図ろうとします。しかしこれはオルハン・ベイにとってバルカン進出の絶好の機会でした。


John_VI_Kantakouzenos.jpg

上がオルハン・ベイのおかげでビザンツ皇帝となったヨハネス6世です。(1295~1383)彼は名門の学者出身で先帝の重臣でもあり、帝位継承権を持つ皇帝家の人間ではありませんでしたが、先帝の急死後まだ10歳の幼帝ヨハネス5世の母アンナ皇太后は、息子を脅かす存在の彼を排除しようと画策します。彼が生き残るには自らが皇帝となって帝国の実権を握るしか道はありませんでした。

オルハン・ベイはセルビアにかくまわれているヨハネス5世を捕えるため、セルビアへの侵攻をヨハネス6世に認めさせ、1346年に長男スレイマンを指揮官とする6千の軍勢をセルビアに差し向けます。もちろん勝敗の如何に関わらず、そうした軍事的支援の見返りに、海峡の反対側のビザンツ領の一部を得るという条件付きです。固有の軍事力の無いヨハネス6世はこれを認めざるを得ませんでした。(オルハン・ベイが即位して20年、この時点で彼の率いる兵力は12倍以上にも膨れ上がっていました。)

結局この戦いは戦上手のセルビア王ウロシュ4世の活躍により決着が付かず、オルハンは一旦オスマン軍をセルビアから退却させます。そうしているうちに成長したヨハネス5世が今度はオスマン側との同盟を申し入れてきます。


Car_Dušan,_Manastir_Lesnovo,_XIV_vek

上がヨハネス5世を支援したセルビア王ウロシュ4世です。(1305~1355)彼大変有能な国王で、彼の時代、セルビア王国は宿敵ブルガリアを破り、ギリシャの半分も手に入れ、同国の最盛期を迎えます。しかしそれは彼の個人的な有能さから実現できた事であり、彼の死後、セルビア王国もオスマン帝国の躍進によって急速に衰退してしまいます。

ヨハネス5世はオルハン・ベイに対し、自分をビザンツ皇帝に復位させてくれれば、セルビアに奪われた領土の一部を与えても良いと餌をちらつかせます。(彼にとってはセルビアも、オスマン同様ビザンツを蚕食する厄介な敵でした。そこでヨハネス5世はセルビアとオスマンを戦わせる事で両者を疲弊させる作戦に出たのです。つまり「毒をもって毒を制す。」ですね。)

そうした若い皇帝の策略を、はるかに老練なオルハン・ベイが見抜けないはずはありませんでしたが、オルハンはそれをおくびにも出さず、喜んでヨハネス5世の申し出を受け入れます。(オルハン・ベイの方も、もはや老齢のヨハネス6世より若い5世に挿げ替えた方が今後有利と判断したのでしょう。)

こうして1354年、両者の密約によってヨハネス6世は廃位され、本来の正当な後継者ヨハネス5世が正式にビザンツ皇帝に復位しました。(実に13年に亘る長い帝位争いでした。一方廃位されたヨハネス6世でしたが、オスマンをはじめ周囲の敵とのやり取りに疲れ果て、もはや帝位にも権力にも何の未練も持っていませんでした。もともと学者であった彼はその心情をヨハネス5世に伝えると、立場は違えど同じ辛酸を舐めてきた皇帝はその心情を良く理解し、二度と反逆しない事を条件に意外にも彼を処刑せず、帝都コンスタンティノープル退去を命じます。そして老いた元皇帝は残る人生を山奥の修道院で隠遁生活を送り、88歳の長寿で波乱の生涯を閉じます。)

しかし、やっとの思いで念願の皇帝に返り咲いたヨハネス5世も、その後オスマン・トルコにいい様に領内を蹂躙され、さらに今度は後継者である息子が父である自分に反旗を翻すなどの苦労にさいなまれていく事になります。

これら一連のビザンツ帝国の内紛はオスマン・トルコのバルカン進出と、ビザンツ領へのさらなる侵食を許す事になり、ビザンツ帝国は長い衰亡の坂道を転げ落ちていく事になりました。一方興隆著しいオスマン・トルコの方は、2代オルハン・ベイが亡くなる直前の1360年頃には、彼らにとって夢のまた夢であった海を越え、ヨーロッパ側にまで進出するほどの勢力にまで成長していたのです。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。