コソボの戦い ・ 対オスマン連合軍の敗北

みなさんこんにちは。

ビザンツ帝国の帝位争いの内紛に上手く介入し、更なる領土拡大とバルカン半島への進出に成功したオスマン君候国のオルハン・ベイ(候)は、こうした戦いだけではなく後のオスマン帝国の基礎となるべき組織づくりに着手した人物でもありました。

そもそもオスマン帝国(前回もお話しましたが、この頃はまだ「帝国」と呼ぶほどの規模ではなく、イスラム独特の呼び名である「君候国」と読んでいました。)は、彼の父オスマンを建国の祖とする国家でしたが、元は一千騎に満たない兵力の戦士集団に過ぎませんでした。しかし彼ら親子の2代に亘る征服事業の結果、領土と支配地が広がり、支配する人民も大きく増加しました。

そのため、これら支配地の人民を円滑に統治する組織とシステムがどうしても必要になってきたのです。まずオルハン・ベイが手を付けたのは民生と裁判を担当する組織です。といっても、先に述べた通り創成期のオスマン帝国は戦士たちの軍事集団であったため、その方面の知識を持つ人材などいませんでした。

そこでこれらの専門知識を兼ね備えたイスラム法学者たちを各地から招き、彼らにそれを任せる事になりました。ここで登場するイスラム法学者というのは、いわばイスラム教の専門家なのですが、本来なら政治や裁判と宗教は別個に切り離して考えるべきもののはずです。しかしイスラム圏ではイスラム教の神アッラーの教えこそが絶対正義であり、そのアッラーの神の教えには、商売、結婚、相続などの人間世界のあらゆる活動の規範が示されているという考えから、イスラム法に精通した彼らにこれを担わせたのです。

彼ら法学者たちはいわば「官僚」(テクノクラート)であり、またイスラム法にのっとって裁判を行う「裁判官」でもありました。こうしてオルハン・ベイは、行政と司法の仕組みを整えたのです。

次に彼が着手したのは宰相制度と貨幣の鋳造、常備軍の創設でした。宰相制度は広がった領土全般を統括する国政の担当者として、また常備軍はそれまで独立心が強く、常に統制の取れた集団とはいえなかった初期のオスマン軍を、君主の命令一下、統制の取れた軍団として動員しやすくするために、一般の民衆から徴兵するというもの(もちろん給料も支給されます。)でしたが、どうも最後の常備軍構想は、既存の有力戦士たちの抵抗にあってうまくいかなかった様です。(笑)

A15C.jpg

上がオルハン・ベイが造らせたアクチェ銀貨です。彼が造ったこの銀貨は17世紀まで300年近くオスマン帝国で使われました。

ともあれオルハン・ベイは極めて初歩的ではありましたが、こうした政治、経済、行政、司法、軍事などの国家の基本システムを創り上げ、地味ですがオスマン帝国2代目の役割を見事に果たした有能な人物という点で評価出来るでしょう。また、現在のトルコ共和国の国定教科書では、彼の父オスマンゆずりの誠実な人格が称賛されています。彼の人間的な側面をうかがい知るエピソードとして、攻略した都市に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いて貧民を暖かく迎え入れたという話が伝わっています。(世界中に王侯はたくさんいますが、家臣や下の者ではなく自らの手で貧民に食事を配るなど、ほとんど聞いた事がありませんね。人柄が偲ばれます。)


Türbe_of_Orhan_Gazi,_Bursa

上が彼が最初に都を置いたブルサの街にあるオルハン・ベイの墓です。

オルハン・ベイは1360年前後に亡くなりますが、(この頃の記録が曖昧で、亡くなった年が諸説あります。)その後継者をめぐって彼の息子たちが争います。そして最終的に後継者となったのが次男ムラト1世でした。


Murat_Hüdavendigar

上が後の時代に描かれたムラト1世の肖像です。(1319?~1389)彼には後継者として、父オルハン・ベイにも周囲からもとても期待されていた有能な兄である長男スレイマンという人物がいましたが、狩猟の途中落馬して急死していたため、次男である彼と弟たちの間で相続争いになってしまった様です。

このムラト1世は、父オルハンがその足がかりを作ったバルカン半島の領土をさらに拡大させた人物でしたが、即位して最初の2年ほどは、アナトリア本土の反乱鎮圧に奔走する事になってしまいます。それというのも当時アナトリア南部には、拡大成長を続けるオスマン君候国にとって最大のライバルであった「カラマン君候国」があり、このカラマンの謀略によって各地で反乱の火の手が上がっていたからです。

ムラト1世は、即位の混乱に乗じてオスマン家の弱い所を突いて来たカラマンのやり方に怒りを覚えましたが、まずは国内を平定しなければなりません。彼はバルカン半島方面を信頼する将軍に任せると、自ら軍勢を率いてアナトリア方面の反乱を鎮圧し、背後のカラマン君候国を封じ込める事に成功します。

アナトリア方面を完全に手中に収めると、彼はいよいよ狙いのバルカン半島侵攻作戦を開始します。当時バルカン地域はビザンツ帝国が衰え、そこに興ったブルガリアとセルビアなどが覇を競っていました。この2国はライバル国であり、最初はブルガリアが優勢で10世紀から14世紀前半までブルガリア帝国として繁栄した時期がありましたが次第に衰え、1330年に隣国セルビアがブルガリアを破って勢力を拡大し、代わって「帝国」を称する様になります。

しかしそのセルビアの隆盛も束の間、1355年に名君ウロシュ4世が亡くなると急速に没落してしまいます。つまり、この頃のバルカン地域はオスマンにとって、侵攻するのに最適な権力の空白地帯だったのです。

バルカン半島に侵攻したムラト1世は1363年、ビザンツ帝国からアドリアーノプルの街を奪い取ると「エディルネ」と改称し、ここをバルカン半島におけるオスマン軍の拠点に定めます。そして以後、1453年のコンスタンティノープル遷都までここが、アナトリアのブルサと並ぶオスマン帝国第二の都となります。


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上がエディルネの位置と、後の時代に建てられたセリミエ・モスクです。(人口はそれほど多くなく、およそ12万ほどです。)

エディルネを手に入れたムラト1世率いるオスマン軍は瞬くうちに周辺地域を制圧し、1364年にはトラキア地方一帯がオスマンの支配下となります。このオスマン軍の躍進は広くヨーロッパ各地に知れ渡り、遠く離れた時のローマ教皇ウルバヌス5世は全キリスト教徒に対オスマン連合軍の結成を呼びかけます。


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上がそのトラキア地域の位置と、ヨーロッパ各国に対オスマン連合軍の結成を呼びかけた教皇ウルバヌス5世です。(1310~1370)この頃すでに異教徒オスマンの名は、ローマ教皇を動かすほどの勢力にまで拡大していました。

この教皇の呼びかけに、それまで対立と反目を繰り返していたハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアなどのバルカン諸国は歴史上初めて一致団結してオスマン軍に対抗します。彼らは1371年、セルビア軍をその主力として2万を超える連合軍を編成すると、ムラト1世の留守の隙を突いてオスマン軍の拠点エディルネを奪還すべく進軍を開始します。対するオスマン軍は、ムラト1世が他の地域の制圧に向かって主力部隊を率いていったため、防衛軍は一千にも満たないものでした。

エディルネは完全な城塞都市ではなかったため、少ない兵力で籠城するのは困難でした。そこでムラト1世から留守を任されていた防衛司令官のハジ・イル・ベイは、敵が大軍である事で油断しているのを逆手にとって、夜襲による奇襲攻撃を決行します。これが「マリツァ川の戦い」です。

夜襲は見事に成功し、オスマン軍はわずか一千で2万を越えるバルカン連合軍を撃破、大混乱に陥った連合軍は総崩れとなり、多くがマリツァ川で溺死するという大敗を喫してしまいます。

配下の将軍の活躍でうまく危機を乗り越えたムラト1世は返す刀でただちに反撃を開始します。彼はブルガリアとセルビアを次々に攻めると1380年までにこの2国を属国とする事に成功します。さらにアナトリア本土で再び敵対してきたライバルのカラマン君候国を攻撃し、1387年には首都コンヤを占領してカラマン君候国を滅亡させます。

カラマン君候国を破った事で、オスマンによるアナトリア本土の全域制覇は時間の問題となり、バルカン半島の攻略も順調に進んでいたちょうどその頃、従えたはずのセルビアとブルガリアがオスマンの支配打破のために密かに動き出します。彼らはワラキア、アルバニア、ボスニア、ハンガリーなどのバルカン諸国と再び対オスマン連合軍を結成し、国の存亡とバルカンの支配権をかけてオスマン軍に対し、乾坤一擲の大反攻作戦を挑んできたのです。

1389年6月、両軍はセルビアのコソボで激突します。「コソボの戦い」の始まりです。両軍の兵力はオスマン軍4万に対し、バルカン連合軍もほぼ同数であった様です。


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上がコソボの戦いを描いた絵です。

この戦いは初戦から思いもかけない事態が発生します。オスマン帝国の君主ムラト1世が、セルビアの放った刺客によって暗殺されてしまったのです。これはバルカン連合軍にとっては勝利のための一大チャンスとなるはずでした。しかしオスマン側はすぐに29歳の彼の息子バヤジットを即位させるとただちに反撃に転じ、バヤジットの指揮の下、オスマン軍はバルカン連合軍を破って大勝利を収めました。


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上がコソボの古戦場に残るムラト1世の墓所と、ムラト1世が在位中に広げたオスマン君候国の領土です。(あずき色が即位当時、赤が在位中に広げた領土、それ以外は支配下に置いた属国です。3~4倍に拡大していますね。)

このムラト1世は生涯陣頭で指揮を執る人物でした。それが最後の戦いの彼の暗殺を招いてしまったのですが、それ以外では法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられています。そして彼が父オルハンから受け継ぎ、拡大させたオスマン君候国は、彼の息子バヤジットの時代には内外から「帝国」と称される国家へと発展していくのです。

次回に続きます。

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