サマルカンドの帝王 ・ ティムールの侵略

みなさんこんにちは。

1389年6月、東ヨーロッパのキリスト教諸国は、破竹の勢いで拡大を続けるオスマン君候国のこれ以上のヨーロッパ侵攻を阻止するため連合軍を編成し、セルビアのコソボでオスマン軍と激突しました。しかしこの戦いの最中、セルビアの放った刺客によってオスマンの君主ムラト1世の暗殺に成功したものの、直ちに即位したムラトの息子バヤジット1世の采配によって、戦い自体はヨーロッパ連合軍の大敗に終わります。

大勝利を収めたオスマン軍はこの戦いの結果、ドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア、マケドニア、ブルガリアなどのバルカン諸国はその後、オスマン君候国への服従を強いられる事になります。オスマン君候国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得したのです。

この戦いで父ムラト1世を失いながらも速やかに即位し、オスマン全軍の指揮を執って戦いを勝利に導いたのは、先に述べた様に息子バヤジット1世という人物でしたが、その「即位」とは激戦の最中に亡き父の後継者を宣言しただけの臨時的なものに過ぎませんでした。(儀式なんてしてるヒマありませんからね。笑)


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上がそのバヤジット1世です。(1360~1403)

今回彼の生涯を語る上で避けて通れないのが、後にオスマン帝国衰退の一因となる「兄弟粛清」です。バヤジットは父の後を継ぐとすぐに、同じ戦場で共に戦っていた弟たちを捕えて処刑させたのです。これは後継者争いを防ぐのが目的でしたが、これがその後のオスマン王家の悪しき慣習として長く続いていく事になります。

ともあれそうした犠牲の上に自らの地位の安定を図ったバヤジットでしたが、アナトリア本国では早々に彼を脅かす事態が発生します。父ムラト1世の死を知ったかつてのアナトリア諸国が一斉に反オスマンの火の手を上げたのです。

それだけではありません。先のコソボの戦いの勝利によって従えたはずのセルビア、ブルガリア、さらにビザンツ皇帝らが次々にオスマンからの離脱のための反乱を企て、そのため即位してからの7年余り、バヤジットはこれらとの戦いに東西奔走する事になります。

しかしバヤジット1世は軍事に秀でた君主でした。彼は優れた手腕を発揮してこれらの敵を討ち従えて行き、反オスマン勢力は一転劣勢に立たされます。こうしたオスマンの強さは西ヨーロッパ諸国にも伝えられ、バルカンのキリスト教国の危機を憂いたローマ教皇は再び対オスマン十字軍の結成を全ヨーロッパ諸国に呼びかけました。

ローマ教皇のこうした呼びかけに対し、これらのキリスト教国はもはや十字軍などに熱意は無かったのですが、教皇の意向を無視するわけにもいかず、やむなくヨーロッパ諸国は1396年9月、およそ1万6千の軍勢を集めるとバルカン半島に送り込みました。

当時バヤジット1世はビザンツ皇帝を屈服させるため、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを包囲していましたが、その知らせを聞くと自ら主力部隊を率いて迎撃に向かいます。(この時点の彼の兵力は、そのコンスタンティノープル包囲と、反乱に備えてアナトリア方面にかなりの兵力を割かざるを得なかったためにさほどの大軍ではなく、ヨーロッパ連合軍と大差の無い1万5千程度であった様です。)

両軍はブルガリアのニコポリスで再び激戦を繰り広げます。「ニコポリスの戦い」の始まりです。


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上が「ニコポリスの戦い」を描いた中世の絵と、ニコポリスの現在の姿です。

この戦いにおいてヨーロッパ勢は、西ヨーロッパの名だたる王侯貴族の若い子弟たちから成る連合軍でしたが、戦を知らない彼らは時代遅れの騎士道精神にしがみつき、すでに歩兵と騎兵を効果的に配置した集団戦法を構築して待ち構えるオスマン軍に対して各自がバラバラに無謀な突撃を繰り返し、その多くが戦死か捕虜になって再び敗れてしまいました。

このニコポリスの戦いの敗北は、ヨーロッパキリスト教諸国を失望と落胆の底へ突き落としますが、オスマン軍の勝利はイスラム世界で大変な称賛を受けました。とりわけすでに実体は滅んでいたものの、その権威だけは「飾りもの」とはいえエジプトのカイロに存続していたイスラム第2王朝のアッバース朝カリフはバヤジットを褒め称え、彼に対してイスラム世界における君主すなわち「皇帝」を意味する「スルタン」の称号を授けます。

このスルタン授与によって、それまでイスラム世界における「候」を表す「ベイ」を名乗っていたバヤジットは、オスマン家で初めて正式に「スルタン」を名乗り、またこの時点でオスマン君候国は正式に内外から「オスマン帝国」と認められたのです。

名実共に帝国と認められ、その前途に向かうところ敵無しと恐れられたオスマン帝国でしたが、そんな彼らに東から思いもかけない「大嵐」が襲い掛かろうとしていました。一代にして中央アジアにオスマン帝国よりはるかに広大な版図を築いた覇王ティムールの大軍が、オスマン帝国の本拠アナトリアに侵攻して来たのです。


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上がその覇王ティムール(1336~1405)の肖像と、彼のティムール帝国の領域です。彼の生涯についてはいずれ別の機会にもっと詳しくお話したいと思うので、今回は軽く触れる程度にさせていただきますが、中央アジアのオアシス都市サマルカンド近郊の貧しい貴族の子として生まれた彼は、若くしてその軍事的才能を発揮し、中央アジアに大帝国を築き上げていました。

ティムールは当初、西のオスマン帝国とはいわゆる「共存」の道を考えていた様で、バヤジット1世に対して「両国の勢力圏と国境線を策定しよう。」とのかなり丁重な手紙を送っています。しかしバヤジットはティムールの強大さを甘く考えていたのか彼を信用せず、両者の関係はすぐに険悪になります。

しかし情勢はバヤジットのオスマン帝国に大きく不利な方向に動いていました。なぜなら彼とその父ムラト1世の親子2代が度々行ったアナトリア遠征によって、オスマン帝国に服属あるいは滅ぼされた「ベイリク」と呼ばれる旧アナトリア諸国の領主たちが、旧領の奪還と国の再興を図ってみなティムールの軍勢に馳せ参じていたからです。

ティムールはこの彼らの勢力を利用し、1399年からアナトリア方面に大軍をもって侵攻し、主だった都市を次々に攻略占領していきます。一方迎え撃つバヤジット1世のオスマン軍は、先のベイリクの人々がほとんどオスマンの敵に回ったため、兵力はティムール軍の半数程度という非常に不利な状況でした。


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上がティムール軍のアナトリア方面の進撃経路です。バヤジットはティムールのこれ以上の進撃を阻止するため、アナトリア中央部のアンカラ近郊にティムール軍を誘い込み、これを撃滅する作戦を開始します。こうして1402年7月、両軍は激突しました。これが「アンカラの戦い」です。

この戦いにおける両軍の戦力は、ティムール軍がなんと総勢20万に達し、対するオスマン軍は12万というものでした。戦闘は朝から夜間まで続いたものの、オスマン軍の小アジアの勢力がティムール側に寝返ったのを機に戦況はバヤジット側に不利になります。やがてオスマン軍は王朝と帝国の存続のため、従軍していたバヤジットの王子を奉ずるとスルタンを見捨てて退却を開始、結局戦いはオスマン軍の敗北に終わってしまいました。バヤジットも退却しようとしましたが落馬してティムールの捕虜になってしまいます。

この時捕虜になった敗者バヤジット1世と、勝者ティムールとのエピソードはヨーロッパ諸国では事実と全く違う形で有名です。それは勝ったティムールが、敗れたバヤジットを檻に閉じ込め、自分が馬に乗る際はバヤジットに四つん這いにさせて彼を踏み台にしたとか、かつて帝国のスルタンであったバヤジットに散々惨めな思いをさせたという様に伝えられています。しかしこれはバヤジットに何度も敗れたヨーロッパ諸国の彼に対する憎しみから生まれたフィクションであり、実際はティムールは捕虜にしたバヤジットを丁重に扱ったそうです。


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上がティムールとバヤジットの面会の様子を描いた絵です。(上の絵はバヤジットが横になった姿で描かれていますが、この時彼は持病の痛風が悪化して立てない状態でした。同じく右足が不自由で常に杖をついていたティムールは彼を気遣い、そのままの姿での会見を許しています。それにしても、この時2人の間で一体どんな会話のやり取りが交わされたのでしょうか?)

ティムールは自分に歯向かった者たちへの見せしめのために、徹底的な殺戮と破壊を行った「怖い王」で、決して温和な性格ではありませんでしたが、(そんな性格であったなら一代で大帝国は築けないでしょうが。笑)バヤジットはオスマン帝国のスルタンであり、自分に敗れたとはいえバヤジットも相当な歴戦の勝者である事はティムールも良く聞き知っていました。そんな彼にティムールは同じ帝王としての敬意を表してバヤジットに接したそうです。(バヤジットはティムールの捕虜になってから持病の痛風が悪化し、数ヵ月後に亡くなりますが、彼の死を知るとティムールは涙を流したそうです。)

このアンカラの戦いの敗北は、それまでほとんど負け知らずで拡大成長を続けてきたオスマン帝国にとって最初の大きな危機ともいえる出来事でした。スルタンバヤジット1世は敵の捕虜となって数ヶ月のうちに捕虜のまま亡くなり、その後生き残った彼の王子たちも帝位をめぐって争いを始めます。さらにオスマン帝国が長年苦労して平定したアナトリア諸国が、このオスマン帝国の混乱と危機に乗じ、ティムールの保護の下でオスマン帝国から次々に旧領の奪還に成功し、オスマン帝国は大きくその規模を縮小、事実上存亡に関わるほどの壊滅的な状況にまで追い込まれてしまったからです。

オスマン帝国をここまで追い詰めたティムールは、それから3年後の1405年に68歳で亡くなり、その後彼の築いたティムール帝国は息子たちによって分割相続されて分裂し、それ以上の危機は回避されたのですが、オスマン帝国はバヤジットの王子たちによる帝位争いによって、およそ10年に及ぶ空位期間を経験します。そしてそれを勝ち抜いてスルタンに即位した彼の息子メフメト1世と、その子ムラト2世の親子2代は、失った帝国領土の失地回復に40年を費やす苦労を強いられる事になるのです。

次回に続きます。
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