オスマン帝国の逆襲 ・ 親子2代の領土奪還作戦

みなさんこんにちは。

1402年7月、それまで無敵の勢いで拡大を続けてきたオスマン帝国は、「アンカラの戦い」で中央アジアからアナトリアに侵攻してきた大征服者ティムールの率いる20万余の大軍に、初めて歴史的な大敗を喫してしまいました。

この「ティムール・ショック」によって、オスマン帝国は始祖オスマン1世が国を興して以来、4代100年に亘って拡大を続けてきたその勢力と領土を大きく縮小させる事になってしまいます。アンカラの敗北は、それまで経験した事のない壊滅的な打撃を彼らに与えたのです。

この時期に、オスマン帝国5代スルタン(皇帝)となったのが、先帝バヤジット1世の息子メフメト1世でした。


Çelebi_Mehmet

上がオスマン帝国5代皇帝メフメト1世です。(?~1421)彼はアンカラの戦いの際にも、父バヤジット1世とともに従軍していましたが、オスマン軍は戦況が不利になると、ティムール軍に包囲されていた現スルタンバヤジット1世の救出を諦め、帝国とオスマン家の大事な後継者であるメフメトを奉じて撤退してしまいました。その結果彼は無事に戦場を離脱する事が出来ましたが、父バヤジット1世は前回お話した様に戦場に取り残されてティムールの捕虜になり、虜囚のまま無念の死を遂げる事になります。

父バヤジットの死によって新たに皇帝となったメフメト1世でしたが、彼は決してすぐに帝位を継いだわけではありませんでした。実は彼には他にも3人の兄弟たちがおり、その兄弟たちとのその後11年に及ぶ壮絶な帝位争いが待ち受けていたからです。

特にメフメトの兄スレイマンが彼にとっての最大のライバルであり、このスレイマンとの戦いが彼を悩ませます。なぜならティムール軍はアナトリアを蹂躙し、地中海沿岸に達した所で撤退を開始したので、オスマン帝国のヨーロッパ側の領土であるバルカン半島のオスマン領は全くの無傷であり、そのバルカン半島を押さえていたのが長男スレイマンであったからです。

それに引き換えメフメトの方は、アナトリア北部辺境にかろうじて残っていたわずかな領土を拠点とせざるを得ず、当初この帝位争いは、長男でもあるスレイマンが圧倒的優勢でした。そこで彼は、オスマン帝国の最初の都ブルサを拠点としていた弟のイーサーを攻撃してブルサを奪い返し、さらにもう一人の弟ムーサーに対しては同盟してスレイマンに対抗します。

これに対し、ブルサを追われたイーサーは兄スレイマンを頼ってバルカンに逃亡、スレイマンは1404年、弟イーサーに一軍を与えてメフメトを攻撃させました。しかしこの戦いにもメフメトは勝利し、敗れたイーサーは生死不明となり、彼の軍勢はそのままメフメト軍に吸収されます。すると1409年、今度はメフメトがもう一人の弟ムーサーに軍勢を与えてバルカンのスレイマンに反撃します。


Musa_Çelebi

上がメフメトの弟ムーサーです。(?~1413)彼はなかなかの戦上手で、ワラキア、セルビア、ブルガリアと同盟し、それらバルカン諸国から成る軍勢を率いて帝国の第2の都であるエディルネにいたスレイマンを攻撃しました。このムーサーの攻撃に不意を突かれたスレイマンは慌ててコンスタンティノープルに逃走しましたが、1411年2月、ムーサーの差し向けた追っ手の軍勢に追いつかれて交戦中に戦死してしまいます。これによってメフメトは最大の強敵を排除する事が出来ました。

しかし、今度はそのムーサーが君主を名乗り、勝手に自分の名を刻んだ貨幣を鋳造したり、メフメトの考えと相容れない考えで帝国の統治を始めたため、いずれ何らかの形で彼とは戦わざるを得ないと考えていたメフメトは、ムーサーに反対する者たちと同盟すると1413年7月、帝位争いの最終決戦に臨みます。そしてついにムーサーの軍勢を破ると彼を逮捕処刑し、ようやくオスマン帝国の全権を掌握する事が出来たのです。(このあたりの話は、鎌倉幕府を開いたわが国の源頼朝に似ていますね、彼も自分が天下を取るために義経や範頼などの弟たちを平家と戦わせ、利用するだけ利用して最後は謀殺しています。)

ともあれ兄弟たちとの壮絶な帝位争いの末に、オスマン帝国の新たな皇帝として1413年に正式に即位したメフメト1世でしたが、彼の苦労はそれで終わりではありませんでした。先のティムール軍との戦いでオスマン軍が大敗した事は述べましたが、ティムールは地中海沿岸まで達するとそれ以上の遠征を中止して軍勢を退かせます。しかしティムールは、オスマン帝国が長年苦労して征服した他の君候国(ベイリク)にオスマンから奪われた元の領土を返還し、これらのアナトリア諸国の大半が復活していたからです。

その中には、かつてオスマン帝国の最大のライバル国であった「カラマン君候国」があり、これらの諸国との新たな戦いが予想されていました。(ティムールがなぜこれらの国々を復活させたのかその理由は不明ですが、恐らく彼はオスマン帝国と自らの築いたティムール帝国との軍事的緩衝地帯としてこれらの小国を置いておきたかったのでしょう。これらの君候国は、オスマンから領土を奪い返してくれた上に、国の復興を支援してくれたティムールに対して反抗する事は道義上ありえませんし、オスマンやその他の小国同士で内輪もめさせて相争わせておけば、オスマン帝国がティムール領まで手は出す余裕はありませんからね。)

この時点におけるオスマン帝国の領土は、幸いティムール軍がバルカン半島に上陸しなかったために、バルカン方面の領土はほとんど温存されていたものの、アナトリア方面はティムールの侵略により100年かけて拡げた領土の大半を失っており、これらの奪還が帝国再建の第一歩でした。

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上がほぼその頃のオスマン領です。かつてオスマン帝国の歴代スルタンが征服した君候国の多くが再興しています。即位後のメフメト1世はこれらの諸国との戦いと度重なる反乱鎮圧に忙殺され、彼はその在位中ほとんど戦争ばかりしていました。そのためメフメト1世が出陣している間、帝国の国政は長くオスマン家を支えてきた貴族階級の人々が担う事になります。


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上が皇帝メフメト1世を支えるトルコ貴族の高官たちです。後に述べていきますが、このオスマン帝国という国家はヨーロッパなどの国々と違い、ある時点から貴族階級の存在しない、「皇帝以外はすべてが奴隷の国」と呼ばれる様な専制君主国家となるのですが、この時代までは皇帝家であるオスマン家以外に、それを支える一部の名門家系がいました。

これらの貴族たちのうち最も力があったのが、代々帝国の大宰相を務めてきた「チャンダルル家」という一族で、彼らはオスマン帝国の拡大発展期に、政治、経済、文化を主導していきました。

様々な苦労が祟ったのか、メフメト1世は1421年にわずか8年の在位で崩御しますが、(彼は生年不明なので享年が分かりませんが、恐らく40歳前後だったと思われます。)現在のトルコの歴史教科書などでも、その短い治世で分裂した帝国を再統一し、国家の再建に注力した皇帝として評価されています。

そのメフメト1世の後を継ぎ、オスマン帝国6代皇帝となったのが先帝メフメトの子で17歳のムラト2世でした。


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上がオスマン帝国6代皇帝ムラト2世です。(1404~1451)彼は父メフメト1世が帝位争いに没頭している時代に生まれたので、父帝の苦労を間近で見て良く知っていました。また、父メフメトが亡くなった時においても、オスマン帝国のアナトリア方面の領土はまだその大半が再征服の途中であったため、彼は父の遺志を継いでこれらの領土奪還を決意します。

しかし、ムラト2世がアナトリア方面の再征服を行うには、背後のビザンツ帝国をはじめバルカン半島の諸国を押さえておかなければなりません。すでにその頃当のビザンツ帝国は「帝国」とは名ばかりで、その領土は帝都コンスタンティノープル周辺だけになってしまい、周りはほとんどオスマン帝国に包囲された状態で潰そうと思えばそれは可能したが、ムラト2世の父メフメトが帝位に就く時に、時のビザンツ皇帝マヌエル2世(1350~1425)に支援してもらった恩義があったため、元来温和な性格だったムラト2世は父の政策を踏襲し、当初彼はビザンツ帝国に対して現状を維持し、そのまま手を付けない方針でした。

しかしビザンツ側では、皇帝マヌエル2世の息子で対オスマン強硬派のヨハネスが、ムラト2世の父メフメトの兄弟の一人で、ムラトには叔父に当たる「ムスタファ」なる人物を擁立し、その人物をオスマン皇帝にしてしまえば、彼を通してビザンツ帝国がオスマン帝国を自在に操れると主張し、巧みな外交戦略でオスマン帝国との折衝を乗り越えてきた老練な父マヌエルの反対を押し切ってその計画を実行に移します。


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上がそのヨハネス(1392~1448)のメダルです。彼は父マヌエル2世の死後、ヨハネス8世としてビザンツ皇帝に即位しますが、彼の企んだ謀略がビザンツ帝国を窮地に陥れる事になってしまいます。

このヨハネスの計画を知ったムラト2世はさすがに激怒し、ビザンツの「道具」であったそのムスタファをあっけなく捕えて処刑すると、父の代から続くビザンツ帝国との友好関係を破棄し、1422年7月、謀略の中心コンスタンティノープルを大軍で包囲してビザンツを震え上がらせました。

しかし、ビザンツの帝都コンスタンティノープルを囲み、幾多の敵を退けてきた三重の大城壁がオスマン軍の前に立ちはだかります。そうして物理的に時間を稼ぐ間に、老練なビザンツ皇帝マヌエル2世は得意の外交戦略でオスマン帝国の弱点であるアナトリア方面での反乱を誘発します。背後を脅かされ、元々ビザンツを威嚇する事が目的だったムラト2世はそれ以上の作戦行動は不利と判断し、ビザンツ側にオスマンへの臣従と多額の貢納金を支払う事を条件として軍を撤退させました。

その後もムラト2世は帝国を堅実に運営していきますが、年齢を重ねるうちに即位当初の若い時代に誓った「失った領土の再征服」という考えは、次第に彼にとって重要なものではなくなっていった様です。彼は政治、軍事両面で優れた有能な君主であり、また先に述べた様に温和な性格で、学問と文化を愛しましたが、一方で生来信心深い熱心なイスラム教徒でもあり、君主としてよりもイスラム教の僧としてありたいと願ってその後何度か自ら退位し、帝位を息子メフメト2世に譲って僧院にこもっています。(このあたりはわが国の上杉謙信に似ているかも知れません。彼も戦上手なのに何度も出家しようとして城を飛び出し、家臣たちを慌てさせた大変な仏教信者であった事は良く知られていますね。)

アンカラの敗北以後、オスマン帝国はメフメト1世とムラト2世の親子2代が40年以上の歳月をかけて帝国の再統一と維持に務めましたが、失った領土は今だ未征服の地が多く、帝国が再び隆盛を極めるのはムラト2世の子、メフメト2世の時代まで待つ事になります。しかし、彼ら親子が費やした時間は決して「負債の返済」にのみ充てられたわけではありません。特に学問と文化を愛する教養人であった6代皇帝ムラト2世の治世に、それまで国家としてまだ未成熟な部分が多かったオスマン帝国が、その支配地域で十分な時間をかけて強固な地盤を築き上げていく時間的余裕を得る事が出来、それが次の世代のオスマン帝国の飛躍的発展の大きな原動力となっていくのです。

次回に続きます。
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