コンスタンティノープル攻防戦(前編) ・ 千年の都を攻め落とせ!

みなさんこんにちは。

1402年のティムールの侵略によって壊滅的打撃を受けたオスマン帝国は、その後即位したメフメト1世と、その子ムラト2世親子の40年以上に及ぶ努力の結果、昔日の勢いを盛り返すところまで復興しつつありました。

特に6代皇帝ムラト2世(1404~1451)の30年に及ぶ在位中は、それまで急拡大を続けてきたオスマン帝国が、征服した地域の人民を十分に時間をかけ、オスマン帝国の臣民に編入していく時間的余裕を得る事が出来た時期でもありました。

そのオスマン帝国発展の大きな軍事的原動力となったのが、「デウシルメ」と呼ばれる制度によって集められた元キリスト教徒の奴隷たちから成る、「イェニチェリ」というオスマン皇帝直属の常備軍です。


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上の1枚目が「イェニチェリ」を描いた絵で、2枚目の写真は現在トルコのイスタンブールで観光用に再現されているイェニチェリ軍団です。彼らがあの有名な軍楽隊の音楽に乗ってパレードする姿は、この地を訪れる世界中の観光客にいつも大人気ですね。トルコに旅行に行ったらこれを見ないで帰るわけには行かないでしょう。

この「イェニチェリ」とは、トルコ語で「新兵」を意味し、先に述べた「強制徴用」を意味する「デウシルメ」によってオスマン帝国の支配地であるバルカン半島やアナトリアのキリスト教徒の少年たちを集め、イスラム教に改宗させて徹底教育を施した、オスマン皇帝に絶対忠誠を誓う皇帝直属の常備軍の事です。

ではなぜオスマン家の皇帝たちはこの様な常備軍を創ったのでしょうか? もともとオスマン帝国は初代オスマン1世が有力戦士たちを従え、それら有力戦士たちを束ねる「代表」として興した軍事集団から発展していった国家ですが、当初のオスマン家はあくまでその有力戦士たちの代表に過ぎず、もし有力戦士の一人でも裏切りや寝返りが出ると、その配下の兵までごっそり離脱してしまうという弱点がありました。

そこでそうした弱点の克服と、兵力の安定的な供給のため、オスマン家に絶対忠誠を誓う直属の親衛隊ともいうべき常備軍が必要になってきたのです。

しかしこの制度ですが、実は本来のイスラム教の考えに反するものであった様です。イスラム世界にも「奴隷」という概念はもちろん存在していましたが、それは古代ギリシャなどで生産奴隷として一生酷使される様なひどいものではありませんでした。

イスラム法上の奴隷は当然「資産」として売り買いされましたが、その金額次第で奴隷身分から解放される事が出来、また奴隷として買われても、それがまだ子供なら育ての親と養子、大人なら主人と召使いとしてその関係は大切にされ、これも買主の意向でいつでも奴隷から解放される事も認められていました。それはキリスト教徒の様なイスラム以外の異教徒に対しても同じです。

そんなイスラムの奴隷に対する考えに対し、デウシルメによって集められたキリスト教徒の少年たちを強制的にイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝に一生を捧げる「完全な奴隷」として、皇帝直属の軍団を組織するというオスマン独特のやり方はイスラム教の教えに反し、現代においても歴史家の間で納得の行く説明がされていないのが実情です。

ともあれ極めて異例なやり方で創り上げられたイェニチェリ軍団は、やがて1万を越えるオスマン軍最強を誇る精鋭の大部隊へと成長し、その後の歴代オスマン皇帝の行った数々の遠征において第一線で戦闘に従事、オスマン帝国の拡大発展に大きく寄与した存在でした。(彼らイェニチェリが最強を誇った物理的な理由として、ほぼ全員が銃火器を持つ言わば当時最新の「機械化部隊」であった点です。1万以上の鉄砲隊の一斉射撃を浴びては、剣と槍の歩兵や、馬で突撃する騎兵で構成された従来の軍勢では敵はひとたまりも無いでしょう。)

このイェニチェリの特殊性については別の回で後述させていただくとして、今回のテーマに話を戻します。

オスマン帝国を立て直した6代皇帝ムラト2世は有能な君主でしたが、同時に生来大変信心深い熱心なイスラム教徒でもありました。そのため彼は君主としてよりもイスラムの学僧になる事をかねてから望み、その30年に及ぶ長い在位中の最晩年に2回も退位し、帝位を息子メフメト2世に譲位しています。


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上がそのムラト2世です。(1404~1451)彼は元来温和な性格の文化人であり、肖像画でも涼やかな目もとや顔立ちにそれが表れていますね。

ムラト2世は1444年、時のローマ教皇エウゲニウス4世が差し向けた2万のハンガリー軍がブルガリアに侵攻した際、その2倍の4万の軍勢で見事に撃退し、北方の脅威を取り払います。(ヴァルナの戦い)彼はもうこれでバルカン半島は安全と思ったのか、同年歴代皇帝で初めて自ら退位してしまいます。後を継いだのは息子でまだ12歳の少年であったメフメト2世でしたが、当然この年齢では政務が取れるはずも無く、国政は先帝の信任厚い老練な大宰相カリル・パシャに任されていました。

しかし思わぬ事態が発生します。先のヴァルナの戦いの戦後処理で、まだ少年のメフメト2世に対し、大人の官僚や軍人たちが頭を下げて指示を受ける事に強い抵抗があり、困った大宰相カリル・パシャは先帝ムラト2世にこの件が済むまで復位してもらえないかと頼み込みます。

訴えを聞いたムラト2世はこの一件の処理のみを条件としてやむなく復位し、子のメフメト2世は退位させられて地方へ移ります。やがて一連の事後処理が片付き、ムラトが再び退位してメフメト2世が復位した矢先の1448年、再びキリスト教諸国の軍勢がセルビアに侵入、この時においてもまだ16歳の少年メフメト2世では帝国軍を指揮するにはまだ若すぎたため、先のカリル・パシャの願いで再びムラト2世が復位してこれを撃退し、またもメフメト2世は退位させられてしまいます。

これは先帝から帝国の運営と、大事な後継者メフメト2世の後見を託されたカリル・パシャにとっては極めて常識的な判断であったと思いますが、父の身勝手な理由で即位と退位を繰り返させられたメフメト2世の心は大変傷つき、さらにそれは自分を子ども扱いするカリル・パシャをはじめとする宰相たちに対する反発へと変貌していく事になります。

そんな彼は、若さゆえのやりきれない心情を抱えて悶々と地方での時を過ごしながら、ある一つの大きな野望を胸に抱いていました。それは父ムラトはもちろん、今だ歴史上誰も成し得た者のいない壮大な計画、千年続くビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの征服です。


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上がビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープル(現イスタンブール)の位置と、当時の全景です。この街は古代ローマ帝国が度重なる内乱と異民族の侵入によって東西に分裂した西暦395年に東ローマ帝国の都として遷都され、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の名を冠してコンスタンティノープルと名付けられ、その地理的面積からかつての都ローマには及ばないものの、10世紀の最盛期には人口40万を超えるキリスト教世界最大の街として繁栄しました。(同時に帝国の名も、ローマから遷都したのならもはやローマ帝国とは区別すべきとの考えから、遷都する以前の街の名「ビザンティウム」にちなんで「ビザンツ帝国」と呼ばれています。)

このコンスタンティノープルを都とするキリスト教国家ビザンツ帝国は、およそ千年もの長きに亘って存立し続けた国でしたが、絶えず繰り返された内乱とイスラム勢力の台頭によって徐々に衰退し続け、オスマン帝国が興隆したこの時代には「帝国」とは名ばかりで、その領域は都コンスタンティノープル周辺と、イスラム勢力でも手を出さない様なエーゲ海のいくつかの小島だけになっていました。

メフメト2世は成長するに連れてこの街を征服する事に強い思いを見せ、ビザンツとは共存の道を考えていた穏健派の大宰相カリル・パシャは何度も若いメフメト2世を諌めましたが、この若者の性格ではそれが逆効果に働いてしまいました。

カリル・パシャは父である先帝ムラト2世の信任厚い大宰相であり、父は息子に対し、カリルを「ラーラ」(先生)と呼ばせ、メフメトも少年時代まではカリルを良く慕っていましたが、メフメトも成長するに従い、当然の事ながら次第に自分独自の考えを持つようになり、やがてそれは決定的な対立へと発展してしまいます。

そんな矢先の1451年、6代皇帝ムラト2世が崩御し、ここにメフメト2世は誰にも邪魔されずに、7代皇帝として完全かつ正式に即位しました。若干19歳の若き皇帝の誕生です。


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)彼は即位にあたり、唯一の弟アフメットを処刑します。これは先に述べた様にオスマン家独特の慣習で、帝位争いによる帝国の混乱を防ぐために、好むと好まざるとに関わらず行われたものでした。

まだ若い皇帝の即位に早速試練が襲い掛かります。アナトリアにおけるオスマン帝国積年のライバルである南のカラマン君候国が、講和条約を破棄して攻め込んで来たのです。メフメト2世は長く夢見てきたコンスタンティノープル征服の前に目前の邪魔をとり除くため、大軍をもってアナトリア南部に遠征、いとも容易くカラマン軍を撃破して再びカラマンを降伏させます。

こうして目下の敵を破ったメフメト2世は、コンスタンティノープル攻略のため本格的に活動を開始します。その手始めに彼が行ったのが、コンスタンティノープル周辺のボスポラス海峡に新たな要塞を築き、黒海から地中海への出入りを完全に封鎖してしまう事でした。


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上がメフメト2世が造らせた要塞「ルメーリ・ヒサーリ」(「ローマの城」という意味だそうです。)です。ここに彼が要塞を造った理由は、すでに彼の曽祖父である4代皇帝バヤジット1世が造らせた対岸の要塞「アナドール・ヒサーリ」と合わせ、この海峡を通過する船を両岸から大砲で狙い撃ち出来るからでした。

1452年夏に完成したこの要塞に満足した彼が次に行ったのが、コンスタンティノープルを千年もの間守ってきた三重の大城壁を打ち破る取って置きの巨大な大砲の製作でした。ハンガリー人の技術者ウルバンなる人物を巨額の報酬で召し抱え、全長8.2メートル、口径76センチもある巨大な大砲を造らせました。

さらに1452年末には海からの攻撃のため、300隻を越える大量の軍船を建造させ、明けて1453年に入ると帝国内の全軍に動員令を発し、帝国の南北国境に配置した守備隊を除くほぼ全軍、総勢10万を超える大軍が続々と首都エディルネに集結し、若い皇帝の出陣命令を待って待機していました。

この様な状況に、ビザンツ帝国との共存を基本政策として奔走してきた皇帝の大宰相であるカリル・パシャは、大きな失望と脱力感にさいなまれていました。彼がビザンツとの共存を目指したのは、キリスト教国家ビザンツに手を出せば、ローマ教皇を筆頭とする西欧キリスト教諸国が、異教徒イスラムへの「十字軍」を叫んでバルカンのオスマン領へ攻め込んで来るのを防ぎたかったからです。しかし事はこの老宰相の考えとは反対の方向へ大きく動き出していました。

いかにコンスタンティノープルが千年の都といえど、物理的には単なる一都市に過ぎません。カリル・パシャが恐れていたのはもっと大きな理由、ビザンツを滅ぼす事によって、イスラムのオスマン帝国と全ヨーロッパキリスト教国が永遠の戦いに発展してしまうのではないかという危機感でした。

カリル・パシャは駄目を承知で若い皇帝に最後の説得を試みました。しかし、それに対する皇帝の返事は次の様なものだったそうです。

「ラーラ、私は貴方とわが臣民にはるかに大きな富を与えてやりたい。あの街は私に征服される事を望んでいるのです。どうかあの街を私にください。」

大宰相カリル・パシャはもう何も言わず、黙って主君に従うしかありませんでした。

こうして1453年3月、メフメト2世率いるオスマン帝国軍はコンスタンティノープル攻略のため首都エディルネを出陣し、一路千年の都を目指して進撃を開始しました。

次回に続きます。
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