コンスタンティノープル攻防戦(後編) ・ ビザンツ帝国滅亡

みなさんこんにちは。

1453年春、オスマン帝国7代皇帝メフメト2世は、それまで歴史上誰も成し得た事のなかったある「大作戦」を実行するため、彼が父から受け継いだ帝国の総力を挙げて大軍を首都エディルネに集結させていました。

その「大作戦」とは、千年以上もの歴史を持つビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを攻略、これを占領するというものです。この時まだ若干21歳の若い皇帝はこの野望達成のため、考えうるあらゆる方策を講じてその夢を実現しようとしていました


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)後に述べていきますが、このメフメト2世はさほど長命だったのではなく、またこの肖像画も彼が40代以降の晩年に、イタリアの画家を招いて描かせたものらしいですが、かなり尖がった特徴的な鷲鼻の人物だった様ですね。そしてその性格は、かのアレクサンドロス大王を思わせる激しい気性で敵も味方も震え上がらせる一方で、他方では文化、芸術、学問にも深い興味を示す非常に両極端な人物でした。

そして彼がそれほどまでに欲しがり、それを手に入れるために若い情熱を傾けたそのコンスタンティノープルの主は、千年以上続いたビザンツ帝国最後の皇帝であり、奇しくも帝都と同じ名を持つコンスタンティノス11世という人でした。


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上がそのコンスタンティノス11世の銅像です。(1405~1453)ビザンツ帝国は建国以来12の王朝が交代し、彼はその最後の皇帝家であるパレオロガス朝10代皇帝で、ビザンツ皇帝としては85代にして帝国最後の皇帝です。上の像はたくましい武人の姿ですが、実際の彼は礼儀正しい温和な紳士であり、その人柄と内に秘めた意志の強さ、強烈な個性から、彼に接した人々の多くは「皇帝の中の皇帝」と彼を褒め称えています。現代のギリシャ本国においても、彼は滅び行く帝国の最後の皇帝としてオスマン軍に徹底抗戦した勇敢な英雄として絶大な人気があります。

この性格も力関係もまるで正反対の、親子ほども年齢差のある2人の皇帝の対決は、もはや目前に迫っていました。

コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

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このコンスタンティノープル攻防戦について詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。地中海世界の歴史を語らせたら右に出る者はいない小説家、塩野七生さんの代表作です。彼女の作品は、多くの女性作家が好む「恋愛」一辺倒の部分がほとんどなく、純粋に歴史と人物描写、軍事的考察に視点が置かれているので、歴史ファンならばコレクションとして書棚に絶対の自信を持ってお薦めする作家です。作品の内容についてはページ数約260ページ程度ですが、当時の王侯貴族では嗜みとして決して珍しくなかった同性愛(少年愛)的表現もあるので、その種の話が生理的にお嫌いな方は、その部分だけ読み飛ばしてお読みになっても十分楽しめる作品です。

ここで、この戦いにおける両軍の戦力を比較しておきましょう。

攻める皇帝メフメト2世は、コンスタンティノープル攻略のために、帝国軍の主力部隊のほぼ全軍(10万)と、これまでにオスマン帝国が従えた属国に命じて出させた軍も合わせ、その兵力は総勢12万を越えていました。1453年3月、これらの大軍はコンスタンティノープルの城壁の外側の陸上部分を完全に包囲し、さらに海からは、前回お話した300隻以上の軍船が海上を封鎖していました。


それに対し、迎え撃つコンスタンティノス11世率いるビザンツ軍はおよそ4700余(正確には4773名)それにコンスタンティノープル在留の西欧の傭兵およそ2千余の合わせて7千ほどでした。もちろんこれらの傭兵に支払う報酬はビザンツ皇帝自身が払うのです。しかし実際にはビザンツ帝国と交易で300年以上の長い関係を持つ、中世イタリアの2大海洋都市国家ヴェネツィアとジェノヴァにそれを立て替えてもらう手はずになっていた様です。またこの当時のコンスタンティノープルの人口は、かつて40万を数えた最盛期の姿は見る影も無く、この頃にはその10分の1の4万程度に減少していました。

海上戦力に至ってはヴェネツィア、ジェノヴァその他の諸国の帆船やガレー船16隻と、当時のビザンツ帝国の持っていた全船舶10隻の合わせてたった26隻というものでした。

コンスタンティノス11世は少ない兵力を増やすため、西欧各国に増援軍の派遣を要請しますが、各国は今度こそビザンツの命運は尽きたと見切りを付け、正式な援軍はどこからも得られませんでした。頼みの綱のヴェネツィアやジェノヴァにも、資金や食糧の調達はするが、地上軍や艦隊の派遣は本国周辺の防衛のために出来ないと断られてしまいます。(皇帝が最も欲した城壁防衛の地上軍は、この2国にも用意するのは困難でした。ヴェネツィアもジェノヴァも総人口15万程度の都市国家であり、海軍は最強を誇っていたものの、陸軍は人口の少なさからその都度傭兵を金で雇うしかなかったからです。)


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上の1枚目が当時のコンスタンティノープルの様子で、2枚目が攻防戦におけるオスマン軍の布陣を表した図です。

それにしても、いかに千年続いた栄光に輝く街とはいえ、一都市に過ぎないこの街の攻略に、なぜメフメト2世はこれだけの大軍を動員して包囲したのでしょうか? それはこのコンスタンティノープルという街が、当時世界最大最強を誇る三重の大城壁で厳重に守られた難攻不落の堅固な城塞都市であったからです。


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上がコンスタンティノープル三重の城壁の現在の姿とその断面図です。(ビザンツ時代の城壁が最も良く保存されている部分です。大きさは図に描かれている人物の姿と対比してご想像ください)この城壁はビザンツ帝国2代皇帝テオドシウス2世(401~450)によって建造が始まり、その後も長い年月をかけて拡大増強されて上の様な姿になったものです。(改修工事には、大勢の市民が進んで参加したそうです。)最も外側の壁は人の背丈ほどしかありませんが、実際はその上に木製の柵が設けられ、そのさらに外側には深さ7メートルはあろう空堀があり、敵の侵入の際には防衛のため海水が引き込まれる設計になっていました。

この世界最強ともいえる「テオドシウス大城壁」のおかげで、この街は1204年の第4回十字軍の戦いの際を除き、それまで一度も敵の侵入を許した事の無い鉄壁の守りを誇っていたのです。

さらにビザンツ軍には防衛のためのもう一つの秘策がありました。それはコンスタンティノープルと対岸のジェノヴァ人の居留区であるガラタ地区の間にある「金角湾」と呼ばれる湾を鉄の鎖で端から端まで結び、湾内に侵入しようとするオスマン艦隊を阻止しようというものです。

これらの作戦により、兵力の少ないビザンツ軍は海という天然の防壁を盾に最小の兵力をそちらに残し、主力部隊の大半をテオドシウス城壁の防備に振り向ける事が出来るはずでした。

1453年4月、メフメト2世はコンスタンティノス11世に対して使者を遣わします。それは大軍で包囲して降伏を迫るという高圧的なものではなく丁重な申し入れで、

「皇帝が家族と財産、家臣たちを引き連れて街を明け渡せば、それら全ての安全を保証し、市民にも危害は加えない。」

というものでした。しかしこの申し入れに対し、コンスタンティノスは拒否して交渉は決裂します。彼がこう返事を返す事は、メフメトにも分かっていました。これは同じ皇帝として相手に敬意を表し、言わば「儀式」として行われたパフォーマンスに過ぎなかったのです。

4月12日、コンスタンティノープル攻防戦は1ヵ月半に及ぶ激戦の幕を切って落とします。攻撃は前回もお話した、この大城壁を打ち破るためにメフメト2世が準備させたハンガリー人ウルバンの巨大な大砲12門と、それ以外の大小数百門からなる大砲の一斉射撃によって始まりました。


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上がそのウルバン砲を描いた絵と、現在イスタンブールのトプカプ宮殿の庭に展示されている実物大のレプリカです。砲弾は鋼鉄の弾ではなく、横に見える様に巨大な石を球状に削った重さ500キロ以上の石丸で、射程距離は1.6キロ程度でした。しかしこの大砲、そのあまりの大きさゆえに故障の多発、次弾装填に3時間以上もの時間が掛かるなどの欠点があり、また命中率も、長大な城壁のどこかに当たるのがやっとというほどで、その破壊力をもってしても城壁を完全には破壊出来なかった様です。

砲撃と呼応して、無数のオスマン軍将兵が一斉に城壁めがけて突撃し、梯子をかけて城壁をよじ登ろうとしますが、迎え撃つビザンツ軍は上から石や丸太をトルコ兵の頭上に投げ落とし、オスマン軍はいたずらに犠牲を増やすばかりでした。

陸上での戦闘に続き、海上での戦闘も始まります。コンスタンティノープルを包囲する300隻を越えるオスマン艦隊に対し、ビザンツ艦隊はわずか26隻でしたが、これらはオスマン艦隊よりはるかに大型船であり、全て先に述べた金角湾の鉄鎖の内側に待機して一歩もトルコ船を近寄らせませんでした。さらに攻防戦が始まってから2週間後、同盟国ジェノヴァの船3隻と、ビザンツ船1隻の計4隻が食糧を満載し、わずかながらようやく集められた命知らずの傭兵たち(人数は不明ですが、多くてもせいぜい100人に満たないでしょう。しかし兵力の少ないビザンツ軍にとっては貴重な援軍であったはずです。)を乗せてコンスタンティノープル近海まで接近します。この報告を聞いたメフメト2世は

「キリスト教徒どもの船を一隻たりとも通してはならぬ。」

と厳命し、全艦隊にこの4隻の捕縛か撃沈を命じました。4隻対300隻なら普通どう考えても勝ち目はありません。しかしこの時はビザンツ側に勝利の女神が微笑みました。ジェノヴァの船乗りたちの巧みな操船により、この4隻はオスマン艦隊を蹴散らし、その合間を縫って味方が一部を開けた金角湾の鉄鎖を通過して無事に帝都の港に到着したのです。

この知らせはコンスタンティノス皇帝を大変喜ばせ、皇帝自ら港に乗組員を出迎えて礼を述べ、ビザンツ軍の士気も大いに上がりました。陸上での戦闘は連日続いているものの、三重の城壁と守備兵の奮闘がトルコ兵を跳ね除け、今また海戦でも勝利したのです。

「このまま頑張れば状況は好転し、今度も持ちこたえられるかもしれない。」

ビザンツ側にはこんな楽観論まで出るほどでした。

それに対し、包囲しているメフメト2世率いるオスマン軍には失望と焦りが出始めていました。圧倒的な戦力で包囲しているのに地上戦はあの大城壁に阻まれて一向に進展せず、海戦でもわずかな敵を取り逃がしたのです。メフメト2世の怒りは凄まじく、艦隊司令官を捕えて処刑せよと命じるほどでしたが、(この命令は配下の兵たちの必死の嘆願で「財産没収」に減刑されました。)いくらそんな事をしても戦況は変わりません。そこで彼は思い切った戦略の転換を図ります。

それはなんと陸上に船を陸揚げし、ガラタ地区を大きく迂回して金角湾に進入させるという大胆なものでした。


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上がその様子です。メフメト2世はこうして70隻の艦艇を金角湾内に侵入させる事に成功し、先の海戦で後から入港した増援の4隻を含めても、全艦合わせて30隻しかないビザンツ艦隊を挟み撃ちにしてしまいます。この様子を見たビザンツ軍のショックは計り知れないものでした。これにより金角湾の制海権はオスマン軍の手に落ちる事になり、これを機に戦局は大きく逆転する事になります。

さらに追い討ちをかける様に、ビザンツ側に深刻な問題が切実に迫ってきます。5月に入り、籠城が長引くに連れて食料が不足し始めたのです。先に述べた4隻の船の到着以降帝都は外界との連絡が一切断ち切られ、手持ちの蓄えを取り崩して将兵と市民に配給し、節約しながら持ちこたえるしか方法はありませんでした。

5月下旬になると、連日の戦闘で城壁の損害も著しく、もはや帝都の陥落は時間の問題となりました。勝利を確信したメフメト2世はここに至り、最後の勧告をコンスタンティノス皇帝に通達します。用件は開戦前と同じで街を明け渡せというものです。しかしこれも皇帝は断固拒否して抗戦を続行します。

総攻撃の前夜、皇帝は宮殿からこれまで自分に従って共に戦ってくれた将兵と市民に感謝の演説を行い、一人一人の手を握って涙を流しながら礼を述べました。栄光ある帝国皇帝ともあろう高貴な人が、一将兵一市民に対してそこまでしたのです。人々は皇帝と滅び行く帝国のために最後まで共に戦い、死ぬ事を誓ったそうです。

そして5月29日早朝、オスマン軍10万による最後の総攻撃が開始され、ついに城壁が突破されます。なだれ込むトルコの大軍はビザンツ兵たちをなぎ倒し、ときの声と共に一斉に市内に突入していきました。コンスタンティノス皇帝も最後まで彼に付き従った皇帝直属の親衛隊の騎士数人と共に白馬にまたがり、剣を抜いて敵の大軍に突撃し、その姿を消してしまいました。


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同日夕方、オスマン帝国軍はコンスタンティノープル市内を完全に占領。ここに西暦395年にローマ帝国がこの地に遷都して以来、千年以上続いたビザンツ帝国は滅亡したのです。

次回に続きます。
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