イスタンブール誕生 ・ 新帝都の建設

みなさんこんにちは。

1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1100年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを総攻撃し、1ヵ月半の死闘の末ついにこれを攻め落としました。これによって彼は、オスマン帝国歴代スルタンはおろか、歴史上誰も成し得た事のない千年の都の征服を成し遂げたのです。

しかし、その時コンスタンティノープル市内では、この都を千年の長きに亘って護り続けて来た三重のテオドシウス大城壁を破って突入したトルコ兵たちによる凄惨な略奪が行われていました。ヨーロッパやイスラム圏に限らず、古来敵に勝利した際の略奪は、勝った兵士たちに許された「特別ボーナス」の様なものであり、この戦いにおいてもそれが行われ、メフメト2世は配下の大軍に、3日間の略奪を許したのです。

市内になだれ込んだ10万を越えるオスマン軍は、最初は激しい殺戮を行いました。なぜなら城壁を破ったといっても、その付近にはかなりの数のビザンツ兵たちが、一人でもトルコ兵を押し留めようと果敢に抵抗し続けていたからです。彼らはオスマン帝国の大軍に比べれば、数は4千に満たないとはいえ、千年の栄光に輝くビザンツ帝国軍の精鋭であり、滅び行く帝国とその皇帝コンスタンティノス11世とともに、最後まで戦って死ぬ事を選んだのです。

ただし、その殺戮は城壁付近のビザンツ軍の掃討戦で行われたものであり、そのビザンツ軍の必死の防衛線を超えるとその先は全く無防備の街が開けており、市内に残るのが女子供や老人などの市民だけだと分かると、侵攻したトルコ兵たちは先を争って市内の全域で、売れば金になりそうな全ての物を市民から強奪して行きました。

奪われたのは物だけではありません。城壁周辺の防備についていたビザンツ帝国の正規兵約5千や、外国からの援軍の傭兵2千余を除けば、コンスタンティノープル市内には3万5千ほどの一般市民がいましたが、トルコ兵たちは一通りの物品の略奪を終えると、今度はこれらの市民を奴隷として売り払うため、手当たり次第に捕えていきます。

とにかくこの3日間だけは、その者が手に入れた人、物、金の全てが自分の物に出来るのです。とりわけ彼らが狙ったのは若い女性や少年たちで、中でも姿の美しい美女や美少年などは、自分たちの君主であるメフメト2世に献上されるために選りすぐられ、(美女たちが皇帝に献上されるのはごく普通の事ですが、このメフメト2世は男色家でもあり、帝国内外から選りすぐりの美少年を集め、身の回りの世話や「夜伽」の相手をさせる小姓として傍においていました。そうして皇帝の寵愛を受けた少年たちのうちで頭脳明晰な者が、やがて帝国の高級官僚として国政を担う様になっていくのです。)それ以外の者たちは労働力として奴隷商人に売られるために両手を縛られ、列を成して市外へと歩かされて行きました。


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上はコンスタンティノープルに入城する甲冑姿のオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)

コンスタンティノープル陥落後、市内でトルコ兵たちが低レベルな略奪に夢中になっていた頃、彼らの主である征服者メフメト2世ははるかに高度な事柄に集中していました。その時に彼が最も気にしていたのは、彼の率いる大軍に最後まで戦い続けたビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の生死についてです。


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上がそのコンスタンティノス11世です。(1405~1453)彼については前回もお話した通り、あらゆる意味で「皇帝」という位が最もふさわしいとして、敵味方問わずあらゆる人から尊敬され、ギリシャ本国でも大変人気がある人物です。彼は攻防戦の最後の総攻撃の日に自ら白馬にまたがり、皇帝に最後まで付き従った忠実な数人の騎士たちとともに、城壁を破って怒涛のごとく侵攻して来るトルコの大軍に向かって剣をふるって突撃し、その消息が分からなくなっていました。

このコンスタンティノス皇帝が、敵ながら皇帝かつ武人として、また一人の人間として尊敬すべき人物である事はメフメト2世が最も良く承知していましたが、そういう意味とは別に、彼にとってはコンスタンティノスに生きていてもらっては困るのです。なぜなら勝ったとはいえ、オスマン側も大変な苦労をして手にした勝利です。にもかかわらず、コンスタンティノスが生き延びていずれかに落ち延び、その地でビザンツの残党を集めて復権し、今風に言えば「亡命政権」を打ち建ててビザンツ帝国再興のために再び戦いを挑んで来られては、オスマン帝国にとって厄介な敵が外に増える事になるからです。(実際コンスタンティノス皇帝には、存命ならそれを実現出来るだけの人をひきつけてやまない人望と、君主としての才能がありました。)

彼は全軍に通達し、敵帝の遺体を徹底的に捜索させます。やがて「皇帝の首を討ち取った。」と主張する数人のトルコ兵が現れ、メフメトの前にうやうやしくその皇帝の首を差し出しました。メフメト2世は捕えたビザンツ帝国の重臣たちにこれを見せ、皇帝本人か確認させると、彼らは口をそろえてかつての自分たちの主人であると認めたので、メフメトはこれをもってコンスタンティノス皇帝の戦死とビザンツ帝国の滅亡を内外に宣言しました。

メフメト2世はコンスタンティノープル市内に入城すると、旧ビザンツ帝国の誇る大聖堂アヤ・ソフィアに赴き、ひざまずいてアッラーの神に勝利を感謝しました。彼はこの大聖堂の見事さに感嘆し、偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに従って聖堂内部のキリスト教の壁画を漆喰で塗り隠させ、極力現状のままでこの聖堂をイスラムのモスクに転用する事にします。そして全軍に略奪の禁止を命じ、荒れに荒れていた市内の秩序回復に取り掛かりました。


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上がコンスタンティノープルの象徴アヤ・ソフィアとその内部です。この建物は西暦330年ごろに最初の聖堂が造られたのですが、その後の混乱で何度か焼失し、西暦537年に、ビザンツ帝国最盛期の皇帝ユスティニアヌス帝が現在の形に再建しました。(1500年もの間、この建物はビザンツ、オスマンの2大帝国の移り変わる歴史を見てきたのですね。驚)

コンスタンティノープルを手に入れたメフメト2世は、オスマン帝国の首都をそれまでのエディルネからこの地に移します。新帝都の誕生です。そしてこれ以後1923年の新生トルコ共和国誕生によって首都が現在のアンカラに移されるまでの実に470年もの間、この街はオスマン帝国の都となります。

彼は他にももっとするべき事があったはずなのですが、実は意外な事を陥落直後に実行しています。それは少年時代の彼の後見を務めた父の代からの帝国大宰相カリル・パシャとその一族チャンダルル家の人々を逮捕、投獄したのです。罪状は敵であるビザンツ側と内通し、「利敵行為」を働いたという事でした。

このカリル・パシャは以前にもお話した通り、常々ビザンツと西欧キリスト教諸国との共存をその基本政策としてきた対ヨーロッパ穏健派だったのですが、若い皇帝メフメト2世と次第に意見や考えが合わなくなり、それが裏目に出てしまったのです。その後彼とその一族は処刑され、オスマン帝国建国以来、代々帝国大宰相を歴任して来た名門チャンダルル家は断絶してしまいます。そして彼の後には、カリル・パシャの政敵であり、メフメト2世の側近であった宮廷奴隷出身のザガノス・パシャが大宰相に起用されます。(これ以後帝国大宰相の職は、チャンダルル家の様な名門ではなく、その時々の皇帝のお気に入りの人物が起用される事になり、つまりその後のオスマン帝国は、皇帝が信任を置く大宰相を通じて、皇帝個人の意志が全てを決める事実上完全な「専制君主国家」へと変貌を遂げます。)

帝国内の「抵抗勢力」を排除したメフメト2世は、新たな都に定めたこの街をオスマン帝国の帝都にふさわしい形に作り変える事を思い立ちます。そのためにはキリスト教国家ビザンツ帝国の面影を完全に消し去らなければなりません。彼はまずその手始めとして、旧ビザンツ帝国の皇宮を取り壊し、その跡地にイスラム様式の壮麗な宮殿の建設を開始します。これが後にオスマン帝国歴代皇帝の居城となる「トプカプ宮殿」です。


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上がメフメト2世が建造したトプカプ宮殿です。この宮殿はコンスタンティノープル征服から12年後の1465年に建設が始まり、13年後の1478年に完成しました。宮殿の名前「トプカプ」の由来はこの宮殿の門の一つに大砲を備えた「大砲の門」(トルコ語で「トプカプ」というそうです。)があり、それにちなんだそうです。

メフメト2世は自らの住まいである宮殿の建設と相まって、他にもたくさんの建物を建設しています。中でも特に彼が力を入れたのがイスラムの祈りの場であるモスクの建設でした。新たな帝都はキリスト教ではなく、イスラム教徒の都であり、そのイスラム教徒にとって、一日5回の礼拝は必須の義務なのです。しかしオスマン帝国が征服した直後のコンスタンティノープルには、先に述べたキリスト教の大聖堂アヤ・ソフィアを除いては、大勢の人々を屋内に収容出来る大きな建物が少なく、これらのものはすでにモスクに転用済みで、今後帝国の都として確実に増え続ける人口を考えると、もっと数多くの新たなモスクが必要になってきたのです。

人口の話になったので、その方面に着目すると、コンスタンティノープル攻防戦前の人口は先に述べた様に4万程度でしたが、陥落後の人口はオスマン軍による略奪と、市民を奴隷として市外に連れ出した事により、占領軍を除いてはほとんどいなくなってしまっていました。

そこでメフメト2世は激減した人口を増やし、再びこの街を活気ある都にするために人々を呼び戻す事にします。その一番手っ取り早い方法として彼が行ったのが先のトプカプ宮殿や多くのモスクの建設などの一連の「公共事業」でした。新たな建物の建設のために多くの建設業者や職人が集められ、帝都は一大建築ブームとなります。建築には多くの物資が必要であり、その物資の運搬には大量の船が欠かせません。

そしてその物資と船を大量に準備出来たのが、当時地中海を2分する勢力を誇っていたイタリアの2大海洋都市国家ヴェネツィアとジェノヴァでした。そしてこの街を拠点に長く東西交易を続けてきたこれらのヴェネツィア、ジェノヴァの商人たちに大量の注文が入り、彼らは喜び勇んで商売を再開していきました。

このコンスタンティノープルが長く繁栄したのは、その位置がヨーロッパとアジアを結ぶ、東西の文明の十字路に当たる格好の場所にあったからです。ヴェネツィアやジェノヴァの商人たちが交易を再開すると、それを目当てにさらに様々な物売りの商人たちが新たな都に集まってきます。メフメト2世はこれらの商人たちを一ヶ所に集め、3千軒もの店が入れる巨大な屋根つきの市場を建設しました。これが名高い「グランド・バザール」です。


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上が現在のイスタンブール市内のグランド・バザールの内部の様子で、現在はおよそ4千軒もの店が軒をならべています。また「グランド・バザール」という名称は英語であり、現地のトルコでは「カパルチャルシュ」(屋根つき市場)というそうです。あまりに広くて数多くの店が立ち並んでいるために全容を写真でお見せするのは困難ですが、上の写真の様に正に迷宮となっています。(こんな所で買い物していたら、きっと迷子が絶えない事でしょうね。笑)このグランド・バザールでは「手に入らないものは無い。」といわれるほど様々なものが売られていますが、最も人気があるのは下の写真の様なまばゆい金製品です。

メフメト2世はこのグランド・バザール以外にも、市民の生活を支えるための市場(マーケット)を数多く造らせ、いわゆる市場経済を活性化させていきます。商人たちにはこれにより得られた収益の一部を税の他に納めさせ、それを財源として、上下水道、学校、病院、公共浴場など、市民生活に必要なさらに多くの様々な公共施設を建設して、住み良い街づくりをどんどん進めていきました。

こうした彼の一連の政策によって、陥落後荒廃して無人に近い状態だったコンステンティノープルはメフメト2世の治世の最晩年の1480年頃には、人口12~13万にまで回復し、帝国の更なる拡大と共に、放っておいてもさらに増えてますます繁栄していくまでになっていったのです。

最後に、この街の現在の名称である「イスタンブール」についてですが、これはトルコ語ではなくギリシャ語で「街へ」を意味する「イス・ティン・ポリン」に由来しているそうです。

次回に続きます。
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