ドラキュラとの戦い ・ トルコも恐れた串刺し公

みなさんこんにちは。

千年続いたビザンツ帝国を滅ぼし、その都であったコンスタンティノープルに帝都を移したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、新たに手に入れたこの街をイスラムの都にふさわしい街に造り変えるため、様々な手段を講じて街を建て直し、それによりかつてコンスタンティノープルと呼ばれていたこの街は、オスマン帝国の帝都「イスタンブール」と名を変えて昔日の繁栄を取り戻しつつありました。

しかし、この若い皇帝の野望はそれだけでは収まりませんでした。彼はその後も東西に活発な征服活動を続けていき、さらに帝国の領土を拡大していくのですが、その第一段階におけるバルカン半島征服において、その強大さと勇猛果敢さでヨーロッパ諸国に恐れられたオスマン軍将兵ですら震え上がったある「人物」が立ちふさがり、メフメト2世率いるオスマン帝国に計り知れない心理的恐怖を与える事になりました。 今回はその辺りのお話です。

1453年にコンスタンティノープルを攻め落とし、ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世は、先に述べた新たな帝都イスタンブールの建設を進めながら、次の征服先をどの方面にするか思いあぐねていました。


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)上の画像はイラストですが、きっとこんな風に酒を飲みつつ、建設中のイスタンブールで海を眺めながら思いをめぐらせていた事でしょう。(自分の勝手なイメージです。笑)

彼には2つの征服先がありました。1つ目は西のヨーロッパ方面、そして2つ目はオスマン帝国発祥の地アナトリアと、その先に広がるアジア方面です。当時西のヨーロッパ方面は、セルビア、ブルガリアなどを属国として従えていたものの、アルバニア、ボスニア、ワラキア、モルダヴィアなどといったそれ以外のキリスト教諸国は今だオスマン帝国に服属していませんでした。そしてそれらの諸国を背後から操り、オスマン帝国との防波堤、いわば「盾」として戦わせていたのがさらにその北方の強国ハンガリー王国でした。


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上がこの頃のハンガリー王国の勢力範囲です。バルカン半島支配とさらなるヨーロッパ進出を目論むオスマン帝国にとって、ヨーロッパ方面における第一の敵国はこのハンガリーでした。

さらに東へ目を転ずれば、アナトリアにはオスマン帝国にとって古くからのライバル国であるカラマン君候国と、黒海沿岸には旧ビザンツ帝国の「親戚国」ともいうべきトレビゾンド帝国があり、その背後にはそれらを支援し、現在のイラン、イラク一帯に強大な勢力を誇った「白羊朝」と呼ばれる大国がひかえていました。

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上がその「白羊朝」(ホワイトシープ朝)の勢力範囲です。この白羊朝という国家については、イスラム世界の歴史に詳しい方を除いては、日本でご存知の方は非常に少ないと思いますが、1378年ごろに当時この地域に大勢力を振るっていたティムールの下で、それに従って力を蓄え、ティムールの死後はライバルであった「黒羊朝」(ブラックシープ朝)を倒してその領土を乗っ取り、(上の図の赤い部分です。)ティムール朝の混乱に乗じて勢力を拡大して、最盛期の王であるウズン・ハサン(1423~1478)の時代には、上の様にオスマン帝国を大きく脅かす存在にまでなっていました。

メフメト2世はオスマン帝国を取り囲むこうした諸々の事情を考慮した結果、まずは西のヨーロッパ方面を征服し、アジア方面はそれが一段落してから随時遠征を行う事に決します。

彼は1456年7月、バルカン半島全域征服を目指し、セルビア北部の要衝ベオグラードを攻撃します。この街を取れば、オスマン軍はバルカンはおろか中央ヨーロッパにまで侵攻する事が出来るのです。しかしここで彼らは、ベオグラードを守るために待ち構えていたハンガリーの摂政フニャディ・ヤノシュ率いる防衛軍によって手痛い損害を受け、多くの兵を失って撤退を余儀なくされてしまいます。


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上の1枚目がベオグラードの位置で、(赤く示されている範囲が現在のセルビア共和国で、ベオグラードは同国の首都です。)2枚目がベオグラードを守り抜いたハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュです。(1386?~1456)彼はハンガリーの王ではありませんでしたが、同国最大の力を持つ大貴族で、彼とその息子で後にハンガリー王となるマーチャーシュ1世(1443~1490)の親子2代50年余りは、ハンガリー王国が最も強大であった時期です。

このベオグラード攻略の失敗がオスマン軍に与えた衝撃は大きかった様で、以後オスマン帝国はメフメト2世のひ孫であるスレイマン1世の時代まで65年もの長い間、ハンガリー侵攻を断念せざるを得なくなります。

しかしベオグラード攻略には失敗したものの、それは局所的な敗北に過ぎず、オスマン帝国によるその他のバルカン地域の征服は比較的順調に進んでいました。1459年にはベオグラード以南のセルビア領を支配下に置き、1460年までに旧ビザンツ帝国の遺領である全ギリシアを征服、1463年にはボスニア王国を滅ぼします。

メフメト2世はここで東に目を向け、1461年に先に述べた白羊朝の支援を受けていたビザンツの最後の後継国家トレビゾンド帝国に侵攻、最後の皇帝一族を捕えて処刑し、これを滅ぼします。


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上の地図の右下、黒海の最も奥の赤枠で示された一帯がトレビゾンド帝国です。(分かりにくくてすいません。汗)この国家は1204年の第4回十字軍で、西欧諸国の謀略によりドサクサに紛れて一度だけ帝都コンスタンティノープルが陥落した際に、当時のビザンツ帝国の皇帝家であったコムネノス王朝がこの地に亡命政権を打ち建てて出来た国です。「帝国」とはいっても規模は小さいながら、黒海の豊かな産物と東西交易から上がる収入を背景に周辺国としたたかに渡り合い、生き延びてきた国でした。しかし今度ばかりはその命運も尽き、ついに滅亡の時を迎える事になりました。いずれにせよこのトレビゾンド征服により、旧ビザンツ帝国の勢力は名実共に完全に滅び去ってしまいました。

このトレビゾンド征服は背後の白羊朝の王ウズン・ハサンを怒らせ、メフメト2世と彼は後に対決する事になるのですが、それは後に譲る事にして、そのメフメト2世の征服事業を大きく狂わせる一人の人物が、バルカン半島にその存在をあらわにしました。その人物の名はワラキア公ヴラド・ツェペシュ、後に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなる男です。


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上がそのワラキア公ヴラド・ツェペシュです。(1431~1476)すごい強烈なインパクトのある顔の人物ですね。(笑)彼はわが国では、先に述べた「ブラド・ツェペシュ」の名で歴史好きな方には知られていると思いますが、正式にはワラキア(現ルーマニア)公ヴラド3世といい、ツェペシュというのは現地のルーマニア語で「串刺しにする者」という意味で、いわばニックネームとして付けられているのだそうです。

彼について今回取り上げたのは、歴史に残忍な王侯貴族は数あれど、その中でもこの人物が群を抜く残忍さで敵味方双方に恐れられた「恐怖の王」であり、その血まみれの生涯が、誰もが知る世界で最も有名な怪奇フィクションである「ドラキュラ」のモデルになった点に興味を引かれたからです。

このヴラド公は1431年、ワラキア公であった父ヴラド2世の次男として生まれました。この年、父2世は神聖ローマ皇帝からドラゴン騎士団の騎士に任ぜられ、「竜公」(ドラクル)と呼ばれる様になり、その子である彼は「ドラクレア」と呼ばれ、これが先に述べた小説「ドラキュラ」の語源になったのは容易にご想像が付くと思います。

しかし当時のワラキア公国はハンガリー王国とオスマン帝国の2大勢力に挟まれ、絶えずその影響に翻弄される小国でした。ヴラド3世も少年時代から弟ラドゥと共に両国に人質に出されてしまいます。その間に打ち続く戦乱、さらに父や兄を殺されるなど、少年時代から殺戮を目の当たりにして成長した事が、その後の彼を人々から恐れられる恐怖の王へと醸成していく事になります。

彼は成長すると1456年に25歳でワラキア公になります。(その彼を支援したのが、ベオグラードでメフメト2世の大軍を撃退したハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュでした。)ワラキア公となったヴラドはこれまでの経験から、貴族たちに頼らない自分直属の軍勢を組織し、領内の貴族たちを次々に制圧して自分一人に権力を集中させます。(伝説ではヴラド公は貴族たちに和睦を申し入れ、その証として開いた酒宴の席で、油断した彼らを皆殺しにしたそうです。)その時に彼が使った手段が、例のニックネームに表される彼に歯向かう者への「串刺し」に代表される恐怖支配です。


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上の絵は当時描かれた絵です。この「串刺し」という処刑法は、非常に凶悪な重罪人で、かつ身分の低い者にのみ行われたものでしたが、彼はこの串刺しを貴賤の区別無く行い、見せしめとして盛んに国中にさらしていきます。

「ヴラド公は自分に歯向かう者を好んで「串刺し」にし、その串刺しの林を眺めながら食事を楽しんだ。」

彼の残忍な支配は、当時発明された活版印刷によって上の様なヴィジュアルな形で表現され、大量に印刷されてヨーロッパ中に盛んに宣伝されました。(実際に彼がこの様に食事していたか定かではありませんが、西欧には誇大に伝えられていった様です。)

他にも、疫病や伝染病の蔓延を防ぐため、病人や貧民、かつてジプシーと呼ばれた放浪の人々を一ヶ所の建物に集め、火を放って建物ごと焼き殺したなどという話も伝わっています。真偽は定かではありませんが、500年以上も連綿と語り継がれているからには事実なのでしょう。いずれにせよかなり冷酷非道な怖い王であったのは本当の様です。

それにしても、なぜ彼はこの様な残忍な方法で人々を恐怖に落としいれたのでしょうか? それは彼の国ワラキアが、オスマン帝国をはじめとする周囲の国から侵略されないようにするための、いわば「血まみれのパフォーマンス」でした。

思うに戦の勝敗というのものは、大軍で相手を圧倒すれば必ず勝てると決まっているものではありません。どこそこに遠征するとかを自由に決めるのは王や皇帝でも、実際に戦うのは末端の将兵たちです。その敵の将兵たちを戦う前から怖がらせて士気を削ぎ、敵兵を心理的パニックで総崩れに追い込む事が彼の狙いでした。

1459年、メフメト2世はこの恐怖の王ヴラド3世に対し、オスマン帝国への貢納金の支払いを迫ります。貢納金を支払うという事は、つまりオスマン帝国の属国になるという事です。ヴラド公はこれに怒り、メフメトの使者を得意の「串刺し」にして処刑してしまいます。

怒ったのは当然メフメト2世です。彼は1460年に大軍を率いてワラキアに侵攻し、ヴラド公を追い詰めようとしますが、ここで彼の駆使した少数の兵によるゲリラ戦や、焦土作戦によって苦戦を強いられます。メフメト2世は圧倒的な物量と財力にものを言わせ、大軍で攻め込んだのですが、ヴラド公は配下のワラキア軍2万を分散させ、いつ果てるとも知れないゲリラ戦に持ち込んでオスマン軍を悩ませます。そしてヴラド率いるワラキア軍の攻撃を受けたオスマン軍部隊の後に残されるのは、あの串刺しにされたトルコ兵たちの姿でした。

このヴラド公の作戦はオスマン軍に前述した様な大きな心理的恐怖を与え、メフメト2世はワラキア攻略を一時中断して本国に撤退してしまいました。

ここまではヴラド公の計算通りでした。彼は当時最強のオスマン帝国軍をはるかに少ない軍勢で見事に撃退し、彼の軍勢は一時4万にまで膨れ上がったのです。しかし彼は人々を恐れさせ過ぎました。ヴラド公のあまりの恐怖支配に対し、それまで彼を恐れて服属していたワラキアの貴族たちや民衆が次第に離反して行きます。そんなワラキア情勢を素早く逆手にとって反撃に転じたのがメフメト2世です。

メフメトは人質としてオスマン帝国にいたヴラドの弟ラドゥを新たなワラキア公に推挙し、ヴラドの下を離反したワラキア貴族たちを味方にしてヴラド公を追放する事に成功したのです。彼はその後北部のトランシルヴァニアに落ち延びますが、その地でハンガリー王マーチャーシュ1世に捕えられ、12年もの間幽閉されてしまいます。(「幽閉」といっても、ハンガリー王から大きな城を丸ごと与えられ、監視付きではあっても外出は自由で、何の不自由もなかった様です。)

やがて彼は釈放され、1476年に再びワラキア公に返り咲くのですが、再度侵攻したオスマン軍との戦いでついに命運尽き果て、戦死してしまいました。しかし、かつてヴラド公の恐怖支配に苦しんだワラキアの人々は彼の死を信じられず、再びこの様な恐ろしい王が生き返らないよう、ヴラドの遺体の胸に太い鉄の釘を打ち込んだそうです。


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このヴラド・ツェペシュの恐怖の物語は、彼の話を基に上に載せた19世紀末のイギリスの作家ブラム・ストーカー(1847~1912)によっておどろおどろしく創作され、「吸血鬼ドラキュラ」として出版されて誰もが知るドラキュラ伯爵のモデルになったのは前述した通りですが、今日のルーマニア本国では、このヴラド3世はオスマン帝国の脅威に敢然と立ち向かった英雄として評価され、彼に対する残忍な言い伝えは、当時のハンガリー王らが意図的に彼を悪者に仕立てるために誇大に捏造されたものであるとして修正する動きがある様です。

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上はヴラド3世の居城であったブラン城です。

ヴラド・ツェペシュは今日では、なんといってもあの「ドラキュラ伯爵」のモデル、そしてルーマニアが世界に誇る最も有名な人物としてその名を刻み、上に載せた彼の居城ブラン城には世界中から多くの観光客や「ドラキュラファン」が後を絶たず、ルーマニアで最大の人気観光スポットになっています。(当地の観光収入も相当大きいでしょうね。)かつて恐怖で人々を支配した彼は、今日では思わぬ形で人気者(?)となってルーマニアに大きく貢献しているのです。

みなさんもヨーロッパに旅行される機会があれば、フランスやイタリアといった王道の西ヨーロッパ諸国だけではなく、バルカン半島や東ヨーロッパ諸国を訪ねられてみてはいかがでしょうか? そしてもしルーマニアに行かれる事があれば、ぜひこのブラン城も訪ねて見ましょう。もしかしたら、上の様なドラキュラ伯爵が出迎えてくれるかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

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