ローマへの道 ・ 夢に終わったイタリア征服

みなさんこんにちは。

「串刺し公」として恐れられたワラキア公ヴラド3世に勝利したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、1462年にワラキア(現ルーマニア)を属国とすると、バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めました。この時点で彼は、セルビア、ブルガリア、ワラキア、ボスニアを従え、これまでそれらの小国を背後から操り、オスマン帝国と戦わせていた北の強国ハンガリー王国も、メフメト2世の巧みな戦略により本国の防衛に集中するのが精一杯で、もはやこの地域でオスマン帝国に敵対する有力な勢力はほとんど排除されていました。

メフメト2世が、次の征服先をヨーロッパ方面とアジア方面の2方面に分けていた事は前回お話しましたが、その第一段階としてのバルカン半島支配がほぼ達成出来た事により、彼はこれを転換点として作戦の第二段階に入ります。それはアジア方面に軍を差し向け、これを機に背後の敵対諸国を完全に制圧してしまおうというものです。

当時オスマン帝国のアジア方面には、帝国の発祥地であるアナトリアに、オスマン帝国建国以来の古くからのライバル国であったカラマン君候国が今だ健在で、その先のイラン、イラク地域にはこれを支援する大国「白羊朝」が、隙あらばオスマン領に侵攻すべく虎視耽々と狙っていました。


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上がその「白羊朝」の勢力範囲です。(1460年頃)隣に現在のアフガニスタンを中心としてティムール朝がありますが、ティムールの子孫たちはそれぞれに独自の王国を打ち建てて次第に自滅してゆき、この時期は規模が大きく縮小していました。

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この白羊朝の最盛期を築いた王が、上に載せたウズン・ハサン(1423~1478)という人物で、この王との対決が、遠征の第二段階における最大の目的でした。

また現在のシリアからエジプトにかけては、マムルーク朝エジプト王国というこれも強大な大国があり、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易から上がる莫大な収入を背景に、常に相争うイスラム世界の国々とは一線を画した繁栄を続けていました。


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上がそのマムルーク朝エジプト王国の勢力範囲です。この王朝は別名「奴隷軍人王朝」と呼ばれ、もともとは先代王朝であったアイユーブ朝において、戦時に死んでも困らない奴隷たちを兵士として組織された軍団が、その武力を背景にして1250年にアイユーブ王家を簒奪して(つまり乗っ取って)築いたとてもユニークな王朝です。この王国はイスラムの聖地メッカをその支配下に置き、先に述べた香辛料貿易で巨万の富を得ていました。

これらの敵のうち、メフメト2世がまず狙ったのは最も勢力の小さいカラマン君候国でした。白羊朝とマムルーク朝のどちらに侵攻するにも、その通り道にあるカラマンを征服しなくてはその先には進めないからです。彼はこの国の最終的併合を目指して1466年にカラマンに攻め入り、同年中に首都コンヤを攻め落とし、カラマン君候国を完全に滅亡させます。

これに怒ったのが白羊朝のウズン・ハサンです。彼は対オスマンの「道具」として支援していたカラマン君候国が敗れ、その領土がオスマン帝国に奪われた事に危機感を覚え、新たな作戦を考える必要に迫られます。そこで彼が思いついたのが、東地中海においてオスマン帝国と利害が衝突していたイタリア最大の海洋都市国家ヴェネツィア共和国との同盟です。

ウズン・ハサンは強力な海軍を持つヴェネツィアと同盟する事で、オスマン帝国を挟み撃ちにしようとしたのです。ウズン・ハサンが最も欲しがったのは当時最新の西欧の大砲でした。そこで彼は1472年、ヴェネツィアに大量の大砲の発注を依頼します。しかし、彼のこの企みは、すでにメフメト2世に見抜かれていました。メフメト2世は先手を打って艦隊に命じ、白羊朝に大砲や弾薬を供給するヴェネツィア船舶を徹底的に拿捕してしまい、その結果ウズン・ハサンは不十分な軍備でオスマン軍と戦う事を余儀なくされてしまいます。

1473年、オスマン軍と白羊朝軍はアナトリア東部で大規模な会戦に踏み切ります。しかし剣と弓槍の歩兵や騎兵中心の白羊朝軍に対し、オスマン軍は鉄砲隊と大砲を駆使した「機械化部隊」による圧倒的な火力にものをいわせて圧勝し、ウズン・ハサンは敗れてしまいました。(その後、メフメト2世とウズン・ハサンとの間で講和条約が結ばれ、両国はユーフラテス川を国境線とする事で停戦します。)

この戦いの敗北によってウズン・ハサンは大きく権威を失墜してしまい、今まで彼に力で従わされていた各勢力が一斉に反乱の火の手を上げ、それどころか身内の王族までこれに加担して彼を悩ませます。そして1478年にウズン・ハサンが亡くなると、彼の王子たちは王位をめぐってたちまち内戦をはじめ、白羊朝は成立から100年余りで崩壊していきました。

こうして白羊朝に大打撃を与え、当分の間彼らのオスマン帝国への軍事行動を封じ込めたメフメト2世は、次の目標を黒海に向けました。目的は黒海とその沿岸でしか手に入らない豊かな産物を手に入れる事と、これらをヨーロッパ諸国に売りさばくための交易ルートの確保でした。


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上の図はメフメト2世が即位した当時のオスマン帝国の領土です。この時すでに帝国は黒海の半分を手に入れていましたが、メフメト2世はこの海を完全に我がものとする事を狙いました。(ちなみにこの「黒海」という名の由来は、海水の成分に鉄分が多い理由から、海水が独特の「黒み」をおびているからだそうです。)ここで黒海の産物の代表的なものを下にご紹介しましょう。

キャビア(ロシア産ベルーガ)

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黒海といえば、なんといっても1枚目の「キャビア」が有名ですね。チョウザメという魚の卵であるというのは、一般知識としてご存知の方も多いと思います。ちなみに自分も人生で一度だけこれを食べた事があります。といっても自分で買ったわけではなく、10年ほど前に自分の少年時代からの古い友人で商社勤務の者が、この地域に海外出張するというので、「買って来てくれ。」と冗談に言ったら、本当にお土産に買って来てくれたのです。値段はジャムのビンくらいの大きさで、日本円で1万円ほどだったとか。おかげでこちらも見栄を張ってしまい、彼に寿司とうなぎをおごる羽目になりましたが・・・(笑)

さてそのお味は? というと、はっきりいって「少し小粒の黒いイクラ」と言いましょうか、食感はそんな感じで大差はありませんでした。おいしいかどうかは食べ方や人によると思いますが、個人的には「1度食べたら十分かな。」と思いました。ただ普通の赤いイクラよりもかなりしょっぱいので、食後に喉が渇きます。

2枚目はクロテンの毛皮です。クロテンとはイタチの仲間で、その手触りの良い美しい毛並みは高級毛皮のなかでも最高級品といわれています。わが国でも平安時代には、かつて中国東北部にあった渤海から朝廷に献上されていたものです。高級毛皮といえば、同じくイタチの仲間で「ミンク」の毛皮が有名ですが、こちらはほぼ世界中に生息していて数が多く、価格はクロテンよりも安いそうです。これは良質なクロテンがロシアなどに生息が限定されており、その希少性の差が価格に表れている様です。

3枚目は小麦です。特に黒海北部に広がるウクライナの大穀倉地帯は温暖な気候と肥沃な大地に恵まれ、遊牧騎馬民族出身で、農耕によって食糧を得る事を知らないトルコ民族の築いたオスマン帝国にとって安定的な食糧供給先として、とりわけその地で栽培される大量の小麦は、日々の糧として欠かせないパンを得るためになんとしても手に入れなければならないものでした。

黒海を征服すれば、先に述べた黒海の産物のうち、この付近でしか手に入らない希少なものが、帝都イスタンブールを経由して帝国とヨーロッパ諸国に流通させることが出来、インドからの香辛料貿易を独占するマムルーク朝エジプト王国に十分対抗できる財源を得られるのです。

メフメト2世はこの黒海の完全征服を目指し、1475年に対岸にあるチンギスハンのモンゴル帝国の子孫にあたり、王位争いの渦中にあったクリム汗国に遠征軍を差し向け、同年にこれを服属させる事に成功します。


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上がメフメト2世が亡くなる直前のオスマン帝国の領土です。クリム汗国を属国(事実上征服)とした事で、黒海沿岸も一部を除いてオスマン帝国のものとなりました。

さて、ここまで来れば、黒海をほぼ制圧したメフメト2世が次に狙うのは、当然残る最後の大国マムルーク朝エジプト王国と思われるでしょうが、実際は彼はマムルーク朝とは1度も交戦せず、その在位中エジプトに遠征する事はありませんでした。その理由は定かではありませんが、おそらく隣国白羊朝との挟み撃ちに遭うのを避けたのではないかと思われます。

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そんな彼は、実は意外な方面に次の征服先を考えていました。それはなんとイタリア半島です。もともとメフメト2世は少年時代から、オスマン帝国の歴代皇帝の中で最もヨーロッパ文明と芸術に強い興味と関心を持った人物であり、上に載せた画像の様に、自分の肖像画をわざわざイタリアの画家ベッリーニを大変な報酬で呼び寄せて描かせたほどのヨーロッパファンでした。

折りしも当時イタリアは、都市国家フィレンツェの支配者として君臨していた大富豪メディチ家の下で、「ルネサンス」の絶頂期であり、メディチ家の庇護を受けた多くの芸術家たちによって、絵画、彫刻、建築などの数多くの傑作が生み出され、イタリア中にそれが波及していた真っ最中でした。かねてからこれらにとても興味を抱いていたメフメト2世が「イタリア半島征服」の夢を抱くのは自然の成り行きであった事でしょう。

彼は1480年8月、信頼する家臣の一人ゲディク・パシャをイタリア派遣軍司令官に任命し、およそ2万からなる軍勢をイタリア半島南部に差し向けました。オスマン軍司令官ゲディク・パシャは100隻を越える大艦隊でイタリア南部の都市、オトラントに上陸すると、市内に立てこもるナポリ王国のわずかな守備隊と市民からなる防衛軍をあっけなく壊滅させてこれを占領してしまいます。


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上がオトラントの位置と、その街並みです。(人口は5600人ほどですが、エメラルドグリーンの美しい海と白壁の街並みが魅力のリゾート地です。)しかし、かつてこの美しい街で、侵攻したオスマン軍によって徹底した略奪が行われ、およそ2万の市民のうち、1万2千が無残に虐殺されたそうです。

当時このイタリア南部にはナポリ王国がありましたが、ゲディク・パシャ率いるオスマン軍はこのオトラントだけではなく、周辺の都市も次々に攻撃し、恐怖に駆られた当時のナポリ王フェルディナンド1世は各国に救援を要請、事態を深く憂慮した時のローマ教皇シクストゥス4世の呼びかけで、ナポリ王の王子アルフォンソを司令官とする対オスマン十字軍が結成されます。

一方帝都イスタンブールでイタリア遠征が順調に進んでいた事に満足したメフメト2世は、いよいよ本腰を入れてイタリアの征服に取り掛かるべく、皇帝直属の精鋭部隊イェニチェリを主力とする大軍に動員令を発し、自ら指揮を取って出陣の準備に入りました。

メフメト2世にとって、オトラントなどの様な地方都市などどうでも良いのです。彼が目指していたのはローマ、すなわち古のローマ帝国の都で、現在はキリスト教世界の中心であるローマでした。このローマを征服し、ローマ教皇を捕えて教皇庁を滅ぼしてしまえば、その衝撃はヨーロッパ世界に計り知れない精神的打撃を与える事が出来、また同時に預言者ムハンマドがイスラム教を開いて以来、イスラム世界で未だに誰も成し得た事のない、「イスラムによるヨーロッパ征服」という偉業達成に大きく近づく事が出来るからです。

そしてイスラムによってヨーロッパが征服され、イスラム教を全ての価値観の中心に置き、先の優れたヨーロッパ文明と芸術をイスラム文明と融合させる事により、彼の理想とする真の世界帝国をこの世に実現させる事が彼の夢でした。

しかしアッラーの神はこの皇帝にその実現を許さなかった様です。なぜならすでに病身であったメフメト2世は病を押して夢の実現に向けて動き出した矢先、無理が祟って急死してしまったからです。享年49歳の決して長くない生涯でした。

メフメト2世の急死によって、もともとオスマン宮廷内でも、影で「スルタンの無謀な冒険」の感が強かったイタリア遠征は直ちに中止され、イタリア駐留のオスマン軍はわずかな守備隊を残して本国に撤退します。これを好機と見たヨーロッパ連合軍は反撃に転じ、残っていたわずか1300余りのオスマン軍守備隊を全滅させてオトラントを奪還し、イタリア半島からオスマン軍を一掃する事に成功しました。

少年時代に抱いたヨーロッパ世界への強い憧れ、そのヨーロッパをも組み込んだ帝国の建設のため、ローマへの道に足を進めようとしたメフメト2世のイタリア征服作戦は、こうして「夢」のまま未完に終わったのです。そしてこれ以後、オスマン帝国では歴代皇帝の誰一人として、ヨーロッパ文明に目を向ける者は無く、彼らの目はあくまで「イスラム世界」というきわめて限定されたものに主眼を置く、いささか視野の狭い地域的なレベルに硬直化する事になっていきました。

次回に続きます。
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