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帝国を継ぐ者 ・ 黄金の玉座 を奪い取れ!

みなさんこんにちは。

1481年5月、それまでギリシャとアナトリアにまたがる程度の地域的な一国家に過ぎなかったオスマン帝国を、北はバルカン半島全域から黒海、南はイラクのユーフラテス川付近に至る広大な領域国家へと拡大させ、人々から「征服王」と呼ばれたオスマン帝国7代皇帝メフメト2世は、病身の身を省みずに無理を承知で興したイタリア遠征の途上、49歳の若さで急死してしまいました。

彼の死により、オスマン帝国では帝位継承の恒例ともいうべき、オスマン家一族による熾烈な帝位争奪戦が展開されていく事になります。今回はそのあたりのお話です。

先帝メフメト2世には、上から順にバヤジット、ムスタファ、ジェムという3人の皇子たちがいましたが、次男のムスタファは1474年に何者かに暗殺されていたため、オスマン帝国の次の支配者となる後継者候補は残る2人、バヤジットとジェムのどちらかで、この時2人の兄弟はどちらも帝都にはおらず、それぞれ地方の知事として任地に赴任していました。

ここで疑問に思うのは、普通に考えれば長男が後継者となるのが順当ではないか? という点ですが、このオスマン帝国においては、帝位継承に当たって兄弟間の順位は不定でした。それならば父親である先帝が在位中に、長子相続とかを法で定めてしまえば良かろうと思考が進むのですが、それもこのオスマン帝国という国家には通用しない論理でした。なぜならこのオスマン帝国は「皇帝以外は全てが奴隷の国」とヨーロッパ諸国から揶揄されるほどの専制君主国家であり、帝国の全権は皇帝のみにあるため、例えば先代の皇帝が定めた法なども、代替わりで新しく即位した皇帝は、それが自分の意に沿わなければ簡単に廃止なり変更なり出来てしまうからです。

そのためオスマン帝国(というよりオスマン家)では、帝位継承において真っ先に宮殿に入り、皇帝の黄金の玉座について宮廷をおさえ、群臣から臣従の誓いを受けた者が皇帝となる事が出来、それに敗れた者は皇帝を脅かす存在として処刑されるのが、およそ100年前の4代皇帝バヤジット1世以来の帝国の慣例として定着していました。


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上は現在トルコのイスタンブールにあるトプカプ宮殿の宝物館に展示されているかつてのオスマン帝国皇帝の玉座です。この玉座はなんと8万枚もの金貨を溶かして造り、さらに玉座の表面に鋲の様にある突起の部分には、1000個以上のエメラルドがはめ込まれているそうです。(驚)この黄金の玉座をめぐり、かつて歴代のオスマン皇帝家一族は血まみれの帝位争いを繰り広げたのです。

ちなみに、わが国の元首にあらせられる天皇陛下が国会の開会式にご臨席の際にお座りになられる玉座も、下に載せた様に美しくも重厚な彫刻に分厚い金箔を施し、戦前の日本工芸の粋を極めて作られた豪華なものですね。天皇家の菊のご紋章が、わが国の真の統治者がどなたであるかを良く表しています。

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上が参議院にて玉座にお座りになられている今上天皇陛下のお姿です。(これは自分の勝手な理想なのですが、ぜひ陛下には大礼服に頸飾と勲章をお付けいただき、首相以下大臣級をはじめ、議員の皆さんも陛下より授与された勲章をお持ちの方はそれを身に付けて参列してもらいたいものです。)

さて、オスマン家のそうした事情と並行して、皇帝を支える宮廷や政府内でも、多くの人々が選択の必要に迫られていました。2人の皇子のうち、どちらの味方に付くべきか、いやどちらを擁立すれば、自分たちに有利になるのか? といった思惑が複雑に絡み合っていたからです。メフメト2世の死を真っ先に知ったのは当然これらの宮廷や中央政府の人々で、彼らは一刻も早くこの知らせを自分たちが擁立すべきと考えたそれぞれの皇子の元へ送る必要がありました。


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上がメフメト2世の長子バヤジットです。(1447~1512)彼は長男でありながら、若い頃は年齢的な未熟もあって遊びにうつつを抜かし、父メフメト2世の不興を買っていた様です。しかし年齢を経て成熟するに連れ、やがて父帝を凌ぐほどの敬虔なイスラム教徒となります。そんな彼の下には、イスラム宗教界から多くの支持者が集まり、さらにペルシア人、ユダヤ人、イタリア人などの異民族を好んで重用した先帝メフメト2世の独裁的な帝国運営に対して不満を抱くトルコ人グループもバヤジット側に付いていました。つまり帝国内の多数派を抑えていたのです。これが後に彼に幸運をもたらす事になります。

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上がバヤジットの末弟ジェムです。(1459~1495)彼は兄より12歳も歳が離れていましたが、才気煥発で詩人として名高く、それゆえ兄弟たちのうち、文化や芸術を愛した父メフメト2世に最も可愛がられていたそうです。そのため特に先帝メフメトの傍で、実際に政治を行っていた大宰相カラマーニ・パシャらの政府中央グループは、このジェムを次の皇帝に擁立すべく画策していました。つまり簡単にいえば、先帝メフメト2世に対して同調していた人々がジェムの支持に回り、逆に批判的な人々がバヤジット派を形成していたのです。しかしジェムにとっての不運は、彼の支持者が帝国内で少数派であった事でした。

そこへ思わぬハプニングが起こります。ジェムの元へ先帝崩御の知らせを伝える使いが、バヤジット派によって足止めを食らい、ジェムに父の崩御を知らせるのが、バヤジットより4日も遅れてしまったのです。このたった4日間が、両者の運命を決定してしまいました。

最終的にこの帝位継承レースは、皇帝の親衛隊で、オスマン帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団が「数は力」と判断し、早々に多数派のバヤジットの味方に付いた事からバヤジットの勝利に終わります。イェニチェリ軍団は、なんと先帝メフメト2世崩御の翌日に帝都イスタンブールでクーデターを起こし、ジェム派の頭目であった大宰相カラマーニ・パシャを暗殺、彼に連なるジェム派の要人たちも次々に捕えられ、帝国の実権はバヤジットの手に落ちる事になったのです。

このイェニチェリ軍団については、元キリスト教徒の少年奴隷たちをイスラム教徒に改宗させた、オスマン皇帝に絶対忠誠を誓う直属の親衛隊であるという事は以前にもお話しましたが、この頃からイェニチェリ軍団の中で、そうした本来の存在意義とは別の軍団独自の思惑が芽生えていました。つまり彼らイェニチェリ軍団にとって都合の良い人物を皇帝に据えれば、イェニチェリたちはその武力で皇帝を意のままに操って帝国を動かす実権を握る事が出来るからです。そしてこれ以後、イェニチェリ軍団は皇帝直属の親衛隊という本来の役目を逸脱し、その権威と武力を背景に、帝国の既得権益を握る集団へと異質に変貌していくのです。

ともあれ、こうしてバヤジットは弟ジェムに先んじて帝都イスタンブールに入り、トプカプ宮殿にて正式にオスマン帝国8代皇帝バヤジット2世として即位しました。しかし、当然これに収まらないのが敗れた弟のジェムの方です。(収まるはずがありませんね。先に述べた様に、帝位に就けなかった者は処刑されてしまうのですから。)

ジェムはイスタンブール入りで兄バヤジットに先を越された事を悟ると直ちに引き返し、自分の支持者を主力とする4千の兵力でオスマン帝国の最初の都であったブルサを占領、ここに立てこもり、兄帝バヤジットに対し、帝国を分割支配する案を提案します。その提案とは以下の様なものです。

・バヤジットはヨーロッパ側の皇帝となる。
・ジェムはアジア側の皇帝となる。

しかし、これを聞いた兄バヤジット2世は激怒し、これを拒絶して6月に入り、自ら大軍を率いてジェムの立てこもるブルサを攻撃します。5千に満たないジェムの軍勢はあっさり敗れ、彼は家族を引き連れて南の大国マムルーク朝エジプト王国を頼って亡命する事を余儀なくされてしまいました。

さて、ここからジェム殿下の流浪の人生が始まります。彼はマムルーク朝の力を借りてほぼ1年後の1482年5月にアナトリアに再侵攻、一時はアンカラまで進撃するほどの勢いでしたが、再びオスマン軍に敗れてしまいます。それどころか、兄バヤジットがエジプトへの陸路を封鎖したため、エジプトに戻れなくなってしまいました。

そこで彼はヨーロッパで再起を図るべく、当時エーゲ海に対イスラム十字軍の最前線部隊として駐留していた聖ヨハネ騎士団に身を寄せ、彼らの本拠地ロードス島に渡ります。


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上がロードス島の位置と、現在の島の様子です。(これも分かりにくくてすみません。右下の赤い範囲で示された付近が、当時この島を拠点としていた聖ヨハネ騎士団の勢力図です。)

ジェムはその後、騎士団の手引きではるか遠く離れたフランスに渡り、さらに今度はイタリアのローマ教皇国に送られます。この彼の旅路は、純粋に自らの復権を願っての事でしたが、しかし実際にはすでにヨーロッパ諸国にとって巨大な敵となっていたオスマン帝国に対する「駆け引きの道具」として利用されるために送られたのでした。(フランスもローマ教皇も、本気でジェムに協力する気など毛頭無く、トルコ本国のバヤジット2世に対して、彼をこちらに留め置く代わりに多額の身代金を要求し、その方が無用な混乱を引き起こさずに済むと踏んだバヤジット2世はそれを受け入れ、毎年ローマ教皇に大金を払っていた様です。つまり教皇らは裏で「ぼろ儲け」していたのです。)

結局ジェムの帝国復権の望みが叶う事は無く、彼は1495年、トルコから遠く離れたイタリアの地で36年の波乱の生涯を閉じます。

一方、弟との帝位争いに勝利し、彼を排除してオスマン帝国の新たな支配者となっていた兄バヤジット2世には、その後弟ジェムとはまた違った数奇な人生が待ち受けていました。バヤジット2世は皇帝となると、父メフメト2世とはあらゆる面で対照的なやり方で帝国を運営して行きます。彼は即位からその崩御まで、およそ33年というオスマン帝国歴代皇帝でもかなり長い在位を誇りますが、その彼の長期政権を支えた最大の要因は、父と違ってほとんど外征をしなかったという点にあります。

これには理由があります。といってもそれは非常に単純で、簡単にいえば「あまりお金が無かった。」という事です。彼の父メフメト2世は冒頭で述べた様に、皆から「征服王」と呼ばれるほどの戦好きで、その野望は飽く事を知らず、イタリア征服まで実行しようとしていた事は前回もお話しましたが、戦争にはとにかくお金がかかります。先帝メフメトは外征に湯水の様に大金を投じ、これらを捻出するために、従えた国々に盛んに多額の上納金を課し、足りなければ帝国全土に新たな税をかけていました。

「新たな征服地を得れば、金などいくらでも後から入って来る。」

先帝メフメト2世はこうした「血の投資」とでも言うべきやり方で帝国を拡大させていったのですが、その「投資」が帝国に富をもたらしていくには時間がかかります。そのためバヤジット2世が帝位を継いだ時のオスマン帝国は意外にも財政が決して豊かではなく、皇帝の親衛隊であったイェニチェリ軍団がメフメトの死によってクーデターを起こし、先帝の大宰相を暗殺したのも、先帝の晩年には彼らへの給料の支払いが滞る事が多くなり、財政を任されていた大宰相を憎んでいたからです。そこで新帝バヤジット2世は早急に財政を立て直す必要に迫られます。

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上はイスタンブールで観光用に再現されているオスマン皇帝の親衛隊イェニチェリ軍団です。

その一番の近道が外征を極力しない事で余計な軍事費を削減し、イェニチェリを中心とする帝国軍将兵たちへの給料の支払いだけは完全に出来る様にする事でした。(そうでなければまたクーデターを起こされてしまいますからね。)しかし、彼も全く戦をしなかったわけではありません。1492年に黒海沿岸のモルダヴィアに兵を差し向けてこれを属国とし、さらに北のハンガリーや南のマムルーク朝とも何度も交戦しています。しかしモルダヴィア併合を除いては、そのほとんどが国境付近の局地的な防衛戦に過ぎませんでした。

こうして帝国軍部を手なずけた彼でしたが、それだけでは父の負債ともいうべき帝国内の不満を解消出来ませんでした。その帝国内の不満とは先帝が新たに国民に課した外征のための新税です。外征をしないと決めた以上もうこれは必要ありませんし、軍部だけ優遇しては、国民の不満が皇帝に向けられてしまい、反乱を誘発しかねません。そこで彼はこの税を廃止していわゆる「減税」を行い、国民の不満をそらす事にも成功します。

他にも彼は父とは正反対の政策を実行しています。彼が父メフメトよりも敬虔なイスラム教徒である事はすでに述べましたが、そのイスラム教の教えでは偶像崇拝を固く禁じています。そのため彼は父が買い集めたヨーロッパの絵画や彫刻のコレクションを全て売却して国庫の足しにし、トプカプ宮殿から撤去してしまいます。そして新たに宮殿やモスクをイスラム美術で覆い、また父が外国人を重用しすぎた事へのトルコ人の不満も配慮し、一定のトルコ人も宮廷と中央政府に置いてこれらの勢力のバランスを取り、さらに学問を手厚く保護して多くのイスラム学者の養成に力を尽くすなど、彼が理想とする本来のイスラム文明に立ち返った帝国を造ろうと、政治、文化面での大きなゆり戻しを推進していきました。

バヤジット2世の治世は父メフメト2世の時代の反動で、オスマン帝国が積極的な対外行動を起こさなかった事から、いわゆる帝国発展の停滞期とされ、その時期の皇帝であった彼は、トルコ本国でもあまり評価されてはいませんが、「やりたい放題」であった先帝によって傾いた国家財政の建て直しのために支出を減らし、父の時代に拡大した領土の基盤固めを主な施策とするなど、とても現実主義でかなり有能な君主であったと思います。(実際彼は33年も長期在位しています。無能な君主ならこれほどの長期政権は無理でしょう。)

こうして地味ではあるが堅実なバヤジット2世の政策により、オスマン帝国の国力は彼の時代にさらに強固なものになり、そしてそれは次の世代の帝国の更なる拡大の大きな原動力となっていくのです。

次回に続きます。
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