ピラミッドを我が手に ・ エジプト征服作戦

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、8代皇帝バヤジット2世の統治下で対外進出の手を一旦休め、急速に拡大しすぎた領土の基盤整備と国力の回復、とりわけ国家財政の建て直しに注力していた西暦1500年前後、そのオスマン帝国の東の隣国イランにおいて、その後彼らの背後を長く脅かす存在となる、新たな新興国が誕生していました。1501年に成立したサファヴィー朝ペルシア王国です。

それだけであれば、特にこれまでのオスマン帝国を取り囲む状況と何ら変わりはなかろうと思われがちなのですが、このサファヴィー朝がオスマン帝国を(深く)悩ませる存在となるのは、その軍事的脅威よりも、彼らオスマン帝国をはじめとする中近東の人々が信仰するイスラム教において、その大多数を占めるほとんどの人が「スンナ派」と呼ばれる宗派であるのに対し、この王朝が宗派の異なる少数派「シーア派」の国家であったからです。


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上がペルシア(現在のイラン)とその周辺に勃興したサファヴィー朝の領域図と、建国者である初代国王シャー・イスマイール1世です。(1487~1524) 

このサファヴィー朝というのは、元々はイスラム教の一教団に過ぎなかったものが次第に力を付けて強大な軍事集団となり、その教団の当主の一族であったイスマイールが、それまでこの付近を支配していたティムール朝末期の混乱に乗じてクーデターを起こし、シャー・イスマイール1世として即位して自らの王朝を開いたものです。(ちなみにイランでは、王の事を「シャー」と呼んでいます。)

このイスマイール1世という王が、他のどの王侯よりも凄いのは、なんと14歳の若さにして王朝を樹立した事です。(いくら強力な軍事教団の当主であったとしても、果たして14歳の少年に周囲の大人たちを従えさせる事が出来たのか? 現代の感覚では大きな疑問ですが、現実にこの王朝は成立しています。)

さてこの王朝が、同じイスラム教の中でも宗派が異なるシーア派であるという事はすでに述べましたが、イスラム教というのは、大きく2つの宗派に分かれています。ここで、その違いをごく簡単にお話しておきましょう。 元々イスラム教というのは、預言者ムハンマド(570?~632)が、アッラーの神を唯一の神として広めた一神教の宗教である事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知と思いますが、その開祖ムハンマドが亡くなると、イスラム教の指導者を誰にするのかという、いわゆる後継者争いが起こります。

その争いの中で2つの派閥が対立します。1つは預言者ムハンマドの子孫かその血筋の者を指導者としていく一種の世襲体制派、これがシーア派と呼ばれるものです。そしてもう1つはイスラム学者の合議で選出された「カリフ」と呼ばれる最高権威者を立ててこれをムハンマドの代理人とし、その指導の下にイスラム共同体を創ってイスラム教を盛り立てて行こうとする派。これをスンナ派といいます。(オスマン帝国をはじめ、ほとんど大半のイスラム教国がこのスンナ派です。)

最終的にこの争いは、全イスラムの8割を占める圧倒的多数派であったスンナ派が勝利し、以降スンナ派はイスラム教の正統宗派として今日に至るまでイスラム世界を主導していく事になり、2割に満たない少数派のシーア派は辺境に追いやられてしまいます。

しかし、この時代になって、少数派のシーア派の王朝であるサファヴィー家が、イスラム世界のど真ん中ともいうべき一帯であるイランに広大な王国を建国したのです。これはそれまでイスラムの正統派として君臨してきたスンナ派、とりわけその領袖として台頭しつつあるオスマン帝国にとって、存亡に関わる重大な問題でした。 なぜならシーア派は、建前としてはムハンマドの子孫の者を指導者としていくというシステムであるために(ムハンマドの子孫など、とうに断絶していましたが、シーア派にとっては指導者として自分たちが都合良く利用出来れば誰でも良いのです。)このシーア派がイスラム世界に勢力を広げ、スンナ派に取って代わる様な事になれば、オスマン家をはじめとする他のスンナ派イスラム国家の王家はそれぞれの国を支配する権利を剥奪され、追放されるか滅ぼされてしまう理屈になるからです。

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上の図は全世界のイスラム教徒の分布図です。(黄緑がスンナ派、緑がシーア派、イランの付近に集中していますね。)このシーア派のサファヴィー朝がイランに王国を建国した結果、その後サファヴィー朝滅亡後も上の様にイランにシーア派が深く根付く事になり、それが今日も続く中東におけるイランと他のイスラム諸国との対立を招いて行く事になるのです。

そこで、オスマン帝国では皇帝バヤジット2世主導の下に、シャー・イスマイールの宣伝で帝国内に浸透しつつあったシーア派の弾圧が行われますが、それが返って人々の反感を買い、1511年にアナトリア各地で大規模な反乱を引き起こしてしまいます。

バヤジット2世はこの反乱を鎮圧するため、コルクト、アフメト、セリムの3人の皇子たちにそれぞれ軍勢を与え、各地へ派遣しました。しかしここで、コルクト、アフメトの2人の皇子が次々に反乱の鎮圧に失敗、帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団の信用を失ってしまいます。イェニチェリ軍団は末弟のセリム皇子に期待を寄せ、そのイェニチェリの支持を得たセリムはこれを機に、かねてから心の奥に潜ませていた野心の実現のために、父帝に自分を後継者としてバルカン方面に留め置くよう要求します。(帝都イスタンブールの近くにいる方が、即位の際に有利だからです。)

しかし、すでに老齢で退位を考えていたバヤジット2世は、帝位を次男のアフメトに譲位する事を望み、(長男コルクトは文化人で帝位に関心を示さず、三男セリムは君主として気性が激しすぎたため、最もバランスの取れた性格のアフメトを後継者に指名した様です。)セリムの勝手に怒った彼はセリムをクリミアに追放し、これによりこの親子の仲は完全に決裂してしまいます。

前回お話しましたが、このオスマン帝国にあっては帝位継承の際、誰よりも早く皇帝の黄金の玉座に着き、宮廷を押さえた者が皇帝として認められ、それ以外の者はたとえオスマン家の皇族といえども処刑されてしまうのが非情な慣わしでした。(その事を身に染みて最も良く知っていたのが、自らもそうして帝位を継ぎ、実の弟とその一族を死に追いやったバヤジット帝その人でした。)

これは自分の勝手な想像で恐縮ですが、バヤジット帝がセリムを遠い異郷の地に追放したのは、あるいは隠れた親心であったのかも知れません。帝都から遠く離れた所にいれば外国に亡命する時間稼ぎが出来ますし、帝位継承の慣例で処刑されるのを免れるからです。長男コルクトについては定かではありませんが、こちらも生活に困らないだけの多額の資産を持たせてエジプトかグルジアにでも送り出すつもりだったのでしょう。

バヤジット2世は反乱が何とか鎮圧されると1512年に入り、アフメト皇子に対して譲位するから一刻も早く帝都に帰還せよと使者を遣わし、知らせを聞いたアフメトは急いで陣を引き払ってイスタンブールに戻ろうとしました。

しかし、ここで思わぬ事態が発生してしまいます。あろう事か皇帝の親衛隊であるイェニチェリ軍団が、父の怒りを買ってクリミアに逃亡していたセリムを支持してアフメト皇子の帝都入りを阻止、その間にクリミアから急ぎ戻ったセリムが父を廃位し、トプカプ宮殿で即位してしまったのです。完全なクーデターでした。


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上がオスマン帝国9代皇帝セリム1世です。(1465~1520)

新帝セリム1世は即位すると、真っ先に2人の兄とその一族を処刑し、帝位争いの芽を摘んでしまいます。そして廃位し、もはや無力な老いた父を帝都イスタンブールから追放し、トラキアの田舎町に隠棲させてしまいます。この息子の反逆に絶望した先帝バヤジット2世は、隠棲先でまもなく崩御してしまいました。(この彼の死は、セリム1世の毒殺の説が有力です。それは彼の死が、廃位からちょうど1ヵ月後というタイミングの良さからきています。)

こうして父と兄たち、その息子たちまでを完全に根絶やしにした「冷酷者」セリム1世は、オスマン帝国の新たな支配者として歴史にその姿を現しました。彼は即位すると、外征に消極的だった父とは正反対に、たちまち領土拡大の野望をあらわにします。セリムは父帝の時代にほとんど止まっていた帝国の拡大のため、まずは北の強国ハンガリーと和平条約を結び、背後を固めます。こうして北の脅威を除いた彼は、その矛先を南の新たな強敵サファヴィー朝に定めました。

一方サファヴィー朝の王シャー・イスマイール1世も、このオスマン帝国の挑戦を手ぐすねを引いて待ち構えていました。彼は数の少ないシーア派をもっと増やすため、最初の勢力拡大地域をオスマン帝国領であるアナトリアに定めていたからです。1514年8月、両国はその宗派の雌雄を決する戦いに突入します。これが「チャルディラーンの戦い」です。


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上がチャルディラーンの位置です。この戦いにおける両軍の戦力はオスマン軍が6万、サファヴィー軍が4万というものでしたが、騎兵を中心とするサファヴィー軍に対し、すでに鉄砲隊と大砲を効率良く配置した当時最新の軍備を整えていたオスマン軍はサファヴィー軍に圧勝し、敵王シャー・イスマイールは命からがら都に退却してしまいます。

この敗北は、シャー・イスマイールのプライドを大きく傷付けた様です。彼はなんとかセリム1世の追撃を押しとどめたものの、その後国政に関心を失って酒におぼれる毎日を過ごす様になってしまい、37歳という若さでこの世を去ります。(彼の死により王位はその子タフマースヴが10歳で継承しますが、この年齢では政務が取れるはずも無く、サファヴィー朝は崩壊の危機を迎えますが、幸い忠実な側近たちがこの少年王を良く支え、やがて成人した彼は52年もの長い在位中に大変な努力でサファヴィー朝の基礎を固め、そのおかげでサファヴィー朝ペルシア王国は彼の後も12代200年余り続きました。)

一方サファヴィー朝に大打撃を与え、シーア派の勢力拡大を阻止する事に成功したセリム1世は、それまでの歴代オスマン皇帝たちがまだ誰も成し遂げていない大計画を実行に移します。それはもう一つの大国であるエジプトのマムルーク朝に侵攻し、これを征服するというものです。

このマムルーク朝エジプト王国とは、前にもお話した様に元は先代のエジプト王朝であるアイユーヴ朝において、死んでも困らない奴隷を中心として組織された軍団が、その武力を背景に台頭し、アイユーブ王家を乗っ取って築いたというユニークな王朝で、それゆえその王位継承は王家による世襲ではなく、軍団の有力者が王位に着くという極めて珍しい国家でした。この王国はイスラムの聖地メッカを支配下に置き、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易を独占して巨万の富を得ていましたが、軍団の有力者が王位に着くというシステムであったために次第に派閥抗争が激化し、その都度繰り返される内乱により、王国はこの時期もはや衰退の極みにありました。

マムルーク朝が「突けば必ず崩れる」と見たセリム1世は1516年8月、マムルーク朝の領土であったシリアに侵攻を開始、これに対し、マムルーク軍も討伐軍を差し向け、両軍はマルジュ・ダービクで最初の戦闘を開始します。兵力はオスマン軍6万5千に対し、マムルーク軍は8万でした。しかし、この戦いにおいても、大量の鉄砲隊と800門ともいわれる多くの大砲を準備したオスマン軍が昔ながらの騎兵中心のマムルーク軍を粉砕、以後マムルーク軍は一度も戦線を維持する事が出来ず、追撃するオスマン軍に敗退を重ね、1517年1月には首都カイロが陥落します。


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上がセリム1世率いるオスマン軍のエジプト進撃の進路です。たった半年余りでシリアからエジプト全土までを蹂躙していますね。カイロ陥落により、マムルーク軍は戦意を失い、最後の王トマン・バイがオスマン軍に捕えられ、セリム1世の前に引き立てられた後処刑されます。彼の死により、267年続いたマムルーク朝エジプト王国は滅亡し、その後エジプトは19世紀までオスマン帝国の領土の一部になります。

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「我らはついにピラミッドをも手にした。」

セリム1世はエジプトを征服した事により、征服王と呼ばれた彼の祖父メフメト2世よりもはるかに広大な領土を帝国に組み入れる事に成功し、またエジプトのナイル川流域の豊かな耕作地帯で生産される豊富な農産物と、先に述べた紅海経由のインド東方世界との交易収入が帝国に莫大な富を持たらしていく事になります。

さらに彼はこうした物理的な利益だけでなく、もっと大きな宗教的権威を手に入れる事にも成功しました。それはイスラム世界において、神の預言者ムハンマドの代理人として連綿と受け継がれ、マムルーク朝においてもカイロでその保護下にあって生き延びてきたアッバース朝最後のカリフから、その地位をオスマン皇帝である彼が継承し、以後オスマン皇帝=カリフとして、政治、宗教両面でイスラム世界の全てを統べる唯一無二の存在を宣言したのです。(セリム1世にカリフの地位を譲った最後のカリフは、セリムの命により密かに抹殺されています。)

セリム1世のエジプト征服作戦は見事に成功し、オスマン帝国はその領土を一気に3倍にまで拡大させました。それだけではなく、彼は自らが預言者ムハンマドの代理人であるカリフになる事により、オスマン帝国をイスラム世界を構成する一国家から、イスラム世界を支配する神聖な国家へと大きく格上げしたのです。

セリム1世の在位はわずか8年余りという短い期間でしたが、その10年に満たない期間に彼が行った遠征によって、気が付けばオスマン帝国は自他共に認める大帝国になっていました。

次回に続きます。
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