ロードス島攻防戦(前編) ・ 聖ヨハネ騎士団の戦い

みなさんこんにちは。

マムルーク朝エジプト王国を滅ぼし、シリアからエジプトを経て、紅海沿岸のイスラムの聖地メッカまでをもその支配下に置いたオスマン帝国9代皇帝セリム1世は、これらの新たな征服地を土産に意気揚々と帝都イスタンブールに凱旋しました。

彼は1512年に即位してから、先帝である父バヤジット2世の時代にほとんど停滞していた帝国の版図拡大のため、積極的に各地に外征を行い、特に1517年のエジプト攻略作戦においては、たった半年で260年余り続いた大国マムルーク朝を滅亡させ、その広大な領土と莫大な富をそっくり我がものとしたのです。


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上がセリム1世が亡くなる直前のオスマン帝国の領域です。エジプトを手に入れた事で、オスマン帝国はかつて古代ローマ帝国が東西に分裂した時点における東ローマ帝国とほぼ同じ大きさにまで拡大しています。

それだけではありません。セリム1世はエジプト攻略の前年に、トルコから遠く離れた北アフリカのアルジェリア沿岸地域もその支配下においています。但し、これは彼が自ら征服したのではなく、当時この地域を支配していたイスラムの海賊の首領であったバルバロス・ハイレッディンが、オスマン皇帝の臣下として臣従する事の引き換えに、彼をオスマン海軍の提督兼アルジェリア総督として公式に任命した事によるものです。


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上がオスマン海軍の提督にしてアルジェリア総督に任命された海賊の首領バルバロス・ハイレッディンです。(1475~1546)彼は上で述べた様に、元は地中海一帯を荒し回った大海賊でした。当時アルジェリアとチュニジア付近には、「ハフス朝」というベルベル人の王朝がありましたが、この時期すでに衰退しており、彼はその隙をついてアルジェリア沿岸部を奪い取ります。当初彼は、この地に自らの王国を築こうとしたのですが、その夢はスペインなどの攻撃によって早々に諦めざるを得なくなります。(なぜなら彼の兵力は、自分の配下の海賊たちからなる海軍が主力で、海上戦では最強でしたが、領土を守る陸上戦となると、スペインが上陸させた陸軍に兵力の点で敵わないからです。)

そこで彼は、強大な陸軍を持つはるか東のオスマン帝国に臣下として服従し、オスマン帝国の総督としてこの地域を「代理支配」し、地上戦でスペインに対抗するという現実路線を選んだのです。そしてこれはオスマン帝国にとっても願っても無い申し出でした。なぜならオスマン帝国は、騎馬民族出身の帝国であり、当然陸軍は最強を誇りましたが、海の上となると何も知らず、ゆえに海軍は常に弱かったため、海戦となるとこれらの海賊たちを「提督」として召し抱え、ほとんど任せきりにしていたからです。(つまりオスマン帝国の場合はハイレッディンの逆で海軍力が弱かったため、強力な海軍を持つ彼を帝国の総督として厚遇する事で、その不足を補おうとしたのです。)

こうした両者の思惑と利害の一致により、アルジェリア沿岸部はこの地域で最も早くオスマン領となったのでした。

しかし、今や東地中海のほぼ全域をその手中に収めたオスマン帝国のすぐ間近に、小さな「トゲ」ともいうべき厄介な敵が、海の上から帝国を脅かしていました。それは前々回にお話した対イスラム防衛の最前線部隊としてエーゲ海の美しい島ロードス島を本拠地とする「聖ヨハネ騎士団」です。

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上がそのロードス島の位置です。いかにトルコ本国の近くにあるかお分かりいただけると思います。このロードス島を基地とする「聖ヨハネ騎士団」は、元は聖地エルサレムへの巡礼者が長い旅路の末に病に倒れる者が多かった事から、中世イタリア最初の海洋都市国家としていち早く繁栄したアマルフィの敬虔なキリスト教徒の商人が、修道士たちを集めて病院と宿泊所を作った事から始まったものでした。その後、当初の設立の目的とは逆に軍事組織として発展し、十字軍時代にはイスラム勢力と激しい攻防を繰り広げましたが、その後の十字軍の衰退とオスマン帝国の興隆によって、この時代にはこのロードス島を基地として、海上でイスラム勢力と戦っていました。(といってもそれは建前で、実際に彼らがしていた事は海賊と同じでした。騎士団の軍船は地中海沿岸各地と帝都イスタンブールを結ぶオスマン帝国の海上交易路に出没し、イスラム船を襲撃、拿捕して積荷を強奪し、タダで手に入れたそれらを転売して大儲けしていたのです。)

セリム1世はこのロードス島の攻略を計画し、早速準備に取り掛かりますが、彼にはその時間がもうありませんでした。なぜならその矢先の1520年、彼は54歳で急死してしまったからです。


この時オスマン帝国にとって幸いだったのは、彼には男子の後継者が一人しかいなかった事です。オスマン家歴代皇帝たちが、即位の度に実の兄弟間で血みどろの帝位争いを繰り返す慣わしであったのは、これまでも当ブログで何度かお話して来ましたが、今回はそれをしなくて済みます。(笑)

さて、今回幸運にも皇帝の黄金の玉座を血に染める事無く帝位を継承した人物こそ、後に「大帝」と称され、オスマン帝国歴代皇帝の中で最長の46年もの在位を誇り、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世です。


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上がオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世です。(1494~1566)彼は26歳で即位し、幸運にも兄弟がいなかった事からスムーズに皇帝となれたオスマン家で数少ない人物でした。彼については後述していきますが、皇帝として、武人として、また哲学や学問を愛する文化人としても優れ、さらに若い頃は大変な美青年であったそうです。そんな彼が君臨した時代は、オスマン帝国が最も強大さと繁栄を誇った最盛期の黄金時代であり、その体現者こそ、このスレイマン帝その人でした。

スレイマン1世はその即位と同時に、代替わりには付きものの各地の反乱に見舞われたものの、早々に数ヶ月でこれを鎮圧してしまい、即位翌年の1521年には早くも最初の大規模な外征を行って帝国の更なる拡大を推し進めます。彼の外征の方向は、父セリム1世がもっぱらイスラム世界に目を向けたものに対し、彼の場合は反対のヨーロッパ方面に向けられたという点に特徴があるでしょう。そしてこの彼の意図が、ヨーロッパの人々をして、「泣く子も黙るオスマン・トルコ」と言わしめるほどの恐怖に陥れる事になるのです。

スレイマン1世は最初の外征先として、かつて彼の曽祖父であるメフメト2世が攻略に失敗して以来、60年以上も手を出さなかったバルカン半島のベオグラードを狙いました。そして1521年8月、彼はなんと25万もの大軍を動員してベオグラードを包囲し、ハンガリーの守備隊をあっけなく全滅させてこれを苦もなく占領してしまいます。このベオグラードを攻め取った事で、スレイマンは後のヨーロッパ侵攻作戦の拠点を手に入れたのです。

その彼が、本格的なヨーロッパ侵攻の前にどうしても叩いておくべき敵として次に狙ったのは、彼の父セリム1世が攻略準備をしていたロードス島の聖ヨハネ騎士団でした。このまま彼らがロードス島にいる限り、周辺海域でのイスラム船への海賊行為は止まず、東地中海の海路の安全、つまり、征服したばかりのエジプトのカイロやアレクサンドリアなどと、帝都イスタンブールとの間の円滑な物資の流通が立ち行かず、帝国に送られるはずのエジプトの豊かな富が騎士団によって奪い取られ、彼がこれから行おうとしているヨーロッパ侵攻の軍資金の確保や物資の補給に大きな支障を来たしてしまうからです。

そこでスレイマン1世は1522年6月、このロードス島攻略を決意、帝国全軍に動員令を発します。一方その攻略の的であるロードス島の聖ヨハネ騎士団も、オスマン帝国の不穏な動きをすでに察知しており、島の防衛体制の増強を急いでいました。


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上の4枚の写真は現在のロードス島の様子です。(現在はギリシャ領で島全体の人口は約11万7千ほど、その内半数の5万2千が、最大の都市ロードスに集中しています。)写真を見てお分かりの様に、城壁に囲まれた旧市街と新市街に別れ、特に旧市街は、聖ヨハネ騎士団が築いた堅固な城壁に囲まれた城塞都市でした。最後の4枚目の写真は騎士団の司令官である騎士団長の居城で、同時に騎士団の司令部です。

この聖ヨハネ騎士団は、先に述べた様に元はキリスト教の聖地エルサレムの巡礼者の保護と病院を兼ねた宿泊施設を提供する十字軍騎士団の一つに過ぎませんでしたが、この時代ヨーロッパ諸国では、すでに聖地奪回を目的とした「十字軍」などというものはとうに廃れており、(理由は単純です。エルサレムを奪還しても、その距離の遠さから占領確保が困難ですぐにイスラム勢力に奪われてしまうため、言わば「切が無い」事と、遠征にかかる莫大な費用の割には見返りが少なく、王候たちが嫌がったためです。)中世的思想のこれら騎士団もほとんど解散していました。


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上は鎖帷子(くさりかたびら)に兜をかぶった一般的な騎士たちです。

そんなヨーロッパ世界にあって、この聖ヨハネ騎士団は対イスラム聖戦を目的とする唯一の十字軍として貴重な存在であり、ローマ教皇やスペインをはじめとするカトリック諸国の手厚い保護の下に、全ヨーロッパのカトリック教徒の寄進と、先に述べたイスラム船への海賊行為による略奪で莫大な収入を得ていました。(上の写真の立派な城塞都市が、騎士団の財力の大きさを良く物語っています。)

この様に貴重な存在であった聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパの王侯貴族たちにとっても、自らの経歴の権威づけのために格好の存在でした。すなわちこの聖ヨハネ騎士団の騎士となる事は、異教徒イスラムの聖戦に従事する神に最も近い神聖な存在であり、それによって多くの人々から畏敬の対象として見られる事は、ヨーロッパの王侯貴族たちが自分の国や領地を統治していく上で、それが有る無しで大きな違いをもたらすのです。(これはたとえば誰かを紹介されて、「あの人は東大卒」といわれれば、「畏敬」とは行かずとも、たいてい誰でも一目置いてしまうのと似た様な心理でしょうか? 笑)

そこでヨーロッパの王侯貴族たちは、やがて自分の後継者となる王子や子弟たちの経歴に「箔を付けるため」に、この聖ヨハネ騎士団にこぞって入団させる様になります。そのため騎士団に所属する騎士たちは、団長以下その全てが名のある王侯貴族の子弟たちで占められ、いつしかこの騎士団の騎士になる事は、ヨーロッパ王侯貴族のステイタスシンボルになっていました。


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上は聖ヨハネ騎士団の騎士の姿です。今日の戦果を語り合っているのでしょうか?

さてその騎士団の戦力ですが、これはそれほど多いものではなく、騎士の総員は500余りから、多くても600名を超える事はなかった様です。騎士たちはみな身分の高い名門貴族で、一人の騎士に従者が2~3人付くので、それを含めた騎士団の純粋な兵力は2千余り、それにロードス島在留の傭兵が1500余と、ロードス島の島民3千余で合計は6500から多くても7千には満たず、これが防衛軍の全てでした。

それに対してスレイマン1世率いるオスマン軍は、帝国正規軍だけで10万、さらに従えて間もないシリア、エジプトの軍勢が同じく10万で、総勢20万を越える大軍でした。さらに海上からは、スレイマン帝自ら率いる帝国の主力軍を乗せた300隻以上の軍船に、南からはエジプト軍を乗せた200隻以上の軍船を合わせ、合計500隻を越える大艦隊でした。(騎士団も艦隊はありましたが、その数は多くても20隻に満たず、またこれらに兵を乗せてしまうと防衛戦力が減ってしまう事から、ロードスの港に空しく繋がれたままほとんど使われませんでした。)

こうして1522年8月、東地中海の制海権をめぐるロードス島攻防戦は、不気味な静けさをたたえながら5ヶ月に亘る激しい戦いの幕を開ける事になります。

次回に続きます。

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