ロードス島攻防戦(後編) ・ 薔薇の島陥落す

みなさんこんにちは。

1522年6月、オスマン帝国10代皇帝スレイマン1世は、今や帝国の内海となった東地中海の中で、これまでどうしても落とせなかったヨーロッパキリスト教勢力の最後の牙城であるロードス島の攻略を目指し、総勢20万の大軍と、それらを輸送する500隻以上の大艦隊を率いて出陣しました。

このロードス島には、前回お話した様にオスマン帝国が興隆するはるか以前の11世紀に、イスラム勢力から聖地エルサレム奪還を目的として結成された十字軍である「聖ヨハネ騎士団」が駐留し、ロードス島近海を航行するイスラム船を襲撃・拿捕して海上交易路を脅かし、オスマン帝国を深く悩ませていました。

スレイマン1世は、このオスマン帝国にとって「のど元のトゲ」ともいうべきロードス島を攻め落とし、聖ヨハネ騎士団を壊滅させる事で、帝国の海上交易路の安全確保を図り、自らが行おうとしていたヨーロッパ内陸部侵攻作戦の海の上の障害を取り除いておこうとしたのです。


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上がロードス島の位置と、オスマン軍の進撃経路です。オスマン軍は大きく3つの大部隊に別れ、スレイマン1世率いる主力部隊本軍10万は陸路アナトリアを南下し、ロードス島対岸まで到達した所で、帝都イスタンブールから出航した皇帝の大宰相ムスタファ・パシャ率いる300隻の大艦隊がそれらを輸送する手はずになっていました。また南からは、スレイマン帝の父セリム1世の代に征服して間もないエジプトの大軍10万が、これも200隻の大艦隊でアレクサンドリアを出航、一路ロードス島を目指して北上していました。(軍勢の数がほぼ同じなのに、オスマン軍主力部隊とエジプト軍の艦船の数が違うのは「船の大きさが違うから」です。オスマン帝国は海軍が弱く、艦艇は小型船が多かったのに対し、エジプトは古代から地中海を行き来し、大型船の操作に慣れていたため、艦艇はオスマン軍よりはるかに大型で、その分大勢の兵を輸送出来たからです。)

一方迎え撃つ聖ヨハネ騎士団の兵力は、騎士600とその従者たち1千余、傭兵1500余、島民3千余の総勢6千から7千程度で、30倍の兵力を持つオスマン軍に対抗しなければなりませんでした。

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上は聖ヨハネ騎士団が築いた城壁に囲まれた現在のロードス島旧市街の様子です。ちなみに、この島の名前である「ロードス」の由来は、「薔薇」(ばら)つまり「ローズ」それが転じて「ロードス」となったと言われ、かつてこの島に咲き誇っていた(らしい)事から古代ローマ時代に付けられたと言われています。美しい青い海に映える古い街並みが印象的です。3枚目の写真のオープンテラスのレストランに注目してください。日本でなら建築基準的にあり得ない店構えです。こんな所で通りを行きかう異国の人々を眺めながらのんびり食事を楽しみたいものですね。(笑)


ロードス島攻防記 (新潮文庫)

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このロードス島攻防戦について詳しくお知りになりたい方は、上の塩野七生さんの本が良書です。ページ数は240ページで、このロードス島を防衛する3人の若い騎士たちの物語です。自分はこの本を読む時、フォーレのシチリアーナを聴きながら、地中海の情景を想像して楽しんでいます。(笑)

さて、1522年6月に帝都イスタンブールを出陣したスレイマン1世は、周到な準備をしつつ1ヶ月以上かけてゆっくりと進軍し、同年7月末に、主力部隊の全軍がロードス島への上陸を完了しました。一方防衛するロードス軍は、ロードスの城塞都市に立てこもり、トルコの大艦隊の侵入防止のため、軍港と商港には湾の入り口に鎖を張って迎撃態勢を整えていました。

海上戦闘が苦手なオスマン軍の弱点を良く知っていた騎士団は、敵が内陸部の城壁に攻撃を集中してくる事を予想し、監視の兵を除いてほぼ全軍を内陸部の城壁上に展開させます。騎士団のこうした戦法は、さかのぼる事70年前の1453年に、コンスタンティノープル攻防戦でビザンツ軍がとったやり方を踏襲したものですが、今回は2つの点で大きな違いがありました。1つは城壁の構造の進歩です。

コンスタンティノープル攻防戦の際には、世界最大最強と言われた難攻不落の三重の城壁が戦いの舞台でしたが、これは文字通り高い「壁」であり、オスマン軍が準備した数百門の大砲の一点集中砲撃によって各所に穴を開けられ、最終的にはそこからオスマン軍の侵入を許して陥落するに至ったものですが、ここロードス島の聖ヨハネ騎士団はその失敗を踏まえ、城壁を高くするのではなくその手前の堀を深く掘り下げる構築法を採用していました。(堀を深くすれば、城壁を高くするのと同じ効果が得られますからね。)

もう1つの違いは籠城に備えて食糧を潤沢に備蓄していた事です。コンスタンティノープル戦の時はビザンツ軍民合わせて4万以上の人口があったため、1ヶ月程度で食糧が底を突いてしまったのですが、ここロードス島は対イスラム勢力への最前線であり、常時臨戦態勢にあった聖ヨハネ騎士団においては常日頃から食糧の備蓄確保に努め、今回の戦いの時点でも、長期戦に備えておよそ1年は籠城出来るだけの食糧が備蓄されていました。

実は、このロードス島がイスラム勢力に上陸され、籠城戦をするに至ったのはこれが初めてではありません。とりわけスレイマン1世の曽祖父で、コンスタンティノープルを攻め落としたメフメト2世も大軍をこの島に上陸させています。しかしいずれも城塞都市ロードスに立て篭もった騎士団の奮闘によって戦闘は長期化、やがて包囲する側が食糧不足と疫病の蔓延によって自壊し、結局包囲を解いてしまう結果となった経緯がありました。

そのため騎士団は今回もその経験を生かし、兵力では圧倒的に敵わない以上長期籠城戦に持ち込み、敵の大軍を内側から崩壊させる作戦に望みをつないでいたのです。

1522年8月1日、再三にわたるスレイマン1世からの降伏勧告を拒否し続けたロードス軍に対し、オスマン軍の総攻撃が開始され、ここにロードス島攻防戦の幕が切って落とされます。オスマン軍の準備した数百門の大砲の猛烈な砲撃と呼応して、無数のオスマン兵たちが一斉に城壁目掛けて突撃を繰り返し、城壁の上から迎え撃つロードス軍が弓矢と石弓、鉄砲でよじ登ってくるオスマン兵を狙い撃ち、次々に打ち倒していきます。

激しい攻防戦は騎士団の予想通り長期化し、月日は流れていったのですが、ここで騎士団の計算外の事態が発生していました。オスマン軍がなかなか包囲を解こうとしないのです。これは前回の曽祖父の失敗を踏まえ、ひ孫のスレイマン帝が大量の輸送船による「ピストン輸送」で、武器弾薬と食料の安定供給を成功させていたからでした。

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上は当時の地中海航路の大型船です。

「敵は20万の大軍だ。これらを食わせる食糧など、この小さなロードスの島に有りはしない。1ヶ月程度持ちこたえれば撤退するだろう。」

騎士団幹部たちはそう予想していたのですが、すでに戦いは4ヶ月を越え、それでもオスマン軍の攻撃は衰えを知らず、ロードス軍の中には次第に焦りの色が見えはじめて行きます。食糧については、先に述べた様に1年分の備蓄があったため、まだ半年以上は籠城する事が出来ましたが、騎士団が心配したのは弾薬の不足でした。城壁の上からの銃撃戦で大量の弾薬を消費してしまい、節約のため騎士たちは白兵戦に切り替えざるを得なくなり、もともと兵力の少ないロードス軍は戦死者と負傷者が増え始め、これらが騎士団の緊急の課題となって重くのしかかってきました。

騎士団首脳部はヨーロッパ各国に救援要請の使者を送り、さらに各国在留の聖ヨハネ騎士団の騎士たちに、傭兵でもなんでも良いから集められるだけの兵と武器弾薬食糧を携えてロードス島に援軍に来るように命じました。

しかし、神聖ローマ帝国、フランス、ローマ教皇国などのヨーロッパ各国は互いの争いに夢中で、ロードスの様な地中海のはずれの小島の事など眼中になく、どの国も援軍を差し向けようとはしませんでした。結局ロードス救援のため向かったのは、ヨーロッパ在留の同じ騎士団の騎士たちで、彼らは騎士団が最も欲していた武器弾薬食糧を大量に船に積み込み、それぞれ数人、あるいは多くて数十人ほどの騎士や傭兵を乗せてロードス島の港に入港しました。(「同じ釜の飯を食った仲」とは良く言ったものですが、軍隊というものは男同士の友情を強めます。いかに騎士たちの結束が強かったか想像出来ますね。)

そうした努力で一時はロードス軍の士気も上がりましたが、ロードス軍を取り囲む状況は一向に変わらず、人々の気持ちは大きく揺らいでいきました。また、オスマン軍においても苦しい戦いである事は同じでした。連日の激しい戦闘で多くの損害を出し、当初20万いた兵力も半数が戦死、戦病死しており、すでに4ヶ月目に入ってもまだ決着は着かなかったからです。

オスマン軍最高司令官である皇帝スレイマン1世はこうした状況を打開するため、戦略の転換を図ります。それはこれまで騎士団をはじめロードス軍に対し、「降伏」を勧告していたのですが、それでは誇り高い騎士たちのプライドを逆なでし、逆に徹底抗戦の意志を持たせてしまう事から、この文言を使わずに「開城」を申し入れる事にしたのです。

そもそもスレイマン帝がこのロードス島を攻略する決意をしたのは、ロードス島の領土的な価値ではなく、そこに巣食ってイスラム船を襲撃するこの聖ヨハネ騎士団を排除し、東地中海における海上交通の安全確保を図る事が大きな目的でした。つまり簡単に言えば騎士団がいなくなれば良いのです。そのため彼は「騎士団を滅ぼす」のではなく、「島から追い出す」作戦に切り替えた方が得策と判断し、作戦の転換を図りました。両軍の交渉は12月中旬に行われ、オスマン側から次々に騎士団に配慮した有利な条件が提示されます。それは以下の様なものです。

1.騎士団とその騎士たちは、大砲を除く全ての財産を持って島から退去する。

1.騎士団の退去と全ての財産の運搬に必要な船舶が不足の場合、オスマン側は無償で提供する。

1.退去の準備に12日間を与え、その間オスマン軍は一切の戦闘行為を停止する。

1.ロードス島民で島を去りたい者は3年間以内の自由退去を許す。

1.残留するキリスト教徒の島民は完全な信教の自由を約束する。

などです。連日の戦闘で大きく精神面で痛手を受けていたロードス側は、もはや完全に「開城」に動き出していました。こうして同年12月末、両者の間で和平交渉が成立し、ここにロードス島攻防戦は延々5ヶ月に及ぶ戦いの幕を閉じる事になりました。

明けて1523年1月、島を出る騎士団の艦隊25隻と、島民およそ5千を乗せた50隻の船団が、住み慣れたロードス島を離れていきました。しかし、島民たちは民間人なので、自由に行き先を決められましたが、騎士団はそうは行きません。騎士団首脳部は自分たちの新たな拠点を求めて数年の間ヨーロッパ各国を放浪しますが、なかなかそれを見つけられませんでした。

しかし、1530年になって情況が好転します。時の神聖ローマ皇帝カール5世が、北アフリカからのオスマン帝国の防衛を条件として、地中海のほぼ中央に位置する小島を騎士団に与える事を許可したのです。その島の名は「マルタ島」 騎士団が長年住み慣れた薔薇の島ロードスとは比べものにならない荒れた島でした。


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上がマルタ島の位置と、現在の様子です。

ロードス島を追われて以来8年の苦節の末、ようやく聖ヨハネ騎士団は新たな本拠地を手に入れたのです。そして彼らは当時荒れ果てた何も無い島だったこの地に、オスマン帝国への復讐戦を誓って一から城塞都市を築き、ロードス島攻防戦から43年の時を経て、再びスレイマン1世の差し向けたオスマン帝国の大軍と戦う事になるのです。

次回に続きます。
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