日の沈まない帝国への挑戦 ・ ウィーン攻略作戦

みなさんこんにちは。

1522年、延々5ヶ月に及ぶロードス島攻防戦で多大な犠牲を払いながらも、東地中海におけるオスマン帝国最大の脅威であった聖ヨハネ騎士団を追い出し、海上交通の安全を確保したスレイマン1世は、いよいよ本来の目的であったヨーロッパ大陸への本格的な侵攻作戦の準備に取り掛かりました。

その最初の第一段階として彼が狙ったのは、長くオスマン帝国とせめぎあって来た北の強国ハンガリー王国です。折りしもこの時期のハンガリーは、最盛期の国王であったマーチャーシュ1世(1443~1490)の時代を過ぎ、南からオスマン帝国から、西からは神聖ローマ帝国のハプスブルク家の政治・軍事両面の干渉を受け、かつての栄光から一転衰退期に入っていました。


640px-Hans_Krell_001.jpg

上がこの時のハンガリー国王であったラヨシュ2世です。(1506~1526)彼は父王の死後わずか10歳で即位しましたが、まだ少年の彼に当然国政が取れるはずもなく、ハンガリーは周辺国の干渉と国内の大貴族たちの専横によって弱体化してしまいます。

オスマン帝国のスレイマン帝はこの機に乗じて一気にハンガリーに侵攻し、その領土をもぎ取るつもりでいました。しかし、ここで思わぬ事件が彼の計画を大きく遅らせてしまいます。スレイマンが皇帝に即位する前に、先帝であった父セリム1世が1517年に征服したエジプトで大規模な反乱が発生してしまい、その鎮圧に3年近くを要してしまったからです。

その反乱を鎮圧し、彼がハンガリー侵攻を開始出来たのは1526年になってからでしたが、その間にハンガリーでは、無力な少年王であったラヨシュ2世が二十歳の青年王に成長し、国家の存亡をかけてオスマン帝国との直接対決を決断します。

1526年4月、スレイマン1世は6万の軍勢を率いてハンガリーへの侵攻を開始、迎え撃つラヨシュ2世率いるハンガリー軍5万とモハーチで会戦しました。しかし、銃火器と大砲を駆使したオスマン軍の最新の戦法に、重い甲冑姿の騎士からなる時代遅れの戦法で挑んだハンガリー軍は2万の戦死者を出す壊滅的敗北を喫し、総大将である若き国王ラヨシュ2世も戦死してその短い生涯を閉じる事になってしまいました。(オスマン側の損害は約2千。)

一方勝利したスレイマン1世の大軍は、そのままハンガリー領内を蹂躙し、首都ブダペストに入城、ハンガリーを完全に占領してしまいます。これにより彼は歴代皇帝として初めて、オスマン帝国建国以来長く帝国を脅かす存在であった北の強国ハンガリーを征服する事に成功したのです。

このオスマン帝国のハンガリー征服は、当時のヨーロッパ諸国に強烈なショックを与えました。とりわけハンガリーと国境を接するすぐ隣の大国である神聖ローマ帝国(実際はドイツ諸侯の連合国家ですが。)の皇帝家であるハプスブルク家のオーストリア大公国にとっては大きな脅威です。

当時この神聖ローマ帝国の皇帝は、そのハプスブルク家の当主カール5世という人でしたが、彼はスペイン王でもあったため、ポルトガルのエンリケ航海王子に始まる大航海時代の到来と、その後のコロンブスによる新大陸の発見によって、スペインが南北アメリカ大陸に広げた広大な植民地から莫大な金銀がヨーロッパに運ばれ、彼の帝国は「日の沈まない帝国」と世に称されるものになっていました。


Peter_Paul_Rubens_-_Charles_V_in_Armour_-_WGA20378.jpg

上がその「日の沈まない帝国」の主である神聖ローマ皇帝にしてスペイン王カール5世です。(1500~1558)彼は厳格なカトリックであり、彼こそはヨーロッパキリスト教世界最大最強の皇帝でした。彼は自らが全キリスト教徒の守護者である皇帝として、異教徒イスラムからヨーロッパを守る使命感に燃えていました。かたやイスラム世界最大最強の皇帝であるスレイマン1世と彼は、同じ時代を生きていたのです。そしてこの2人の最強の皇帝の対決は、もはや必然的なものになっていました。

このヨーロッパの皇帝であるカールに対して、イスラムの皇帝スレイマンは相手の強大さを考慮した上で、正面での軍事衝突の前に、周到な準備から取り掛かります。まずは敵であるカール5世の「弱点」を探し出し、それを突く事です。

スレイマン自身がそうであった様に、権力者である以上敵が必ずいるものです。彼はヨーロッパにおけるカールの敵を味方に付け、それを利用してカールの足を引っ張り、戦いを有利に進める事を画策します。そしてそのための「道具」は、カールの周りにいくらでも見つける事が出来ました。なぜならカール5世の「日の沈まない帝国」は、内外ともに敵だらけであったからです。

そのカール5世のヨーロッパにおける最大の敵は、隣国フランスの国王フランソワ1世でした。フランソワはスレイマンと同い年で、かつて神聖ローマ皇帝の座をめぐってカール5世と激しく争い、その後も生涯に亘ってカール5世を最も悩ませた人物です。スレイマンはこのフランソワを自分の味方に引き入れようと策を練ります。


francoisiclouet2010l.jpg

上がそのフランス国王フランソワ1世です。(1494~1547)彼がカールと神聖ローマ皇帝位を争った理由は、個人的な好き嫌いの感情論ではなく、スペイン王であるカールがドイツ神聖ローマ皇帝となってしまうと、フランスがスペインとドイツに挟まれ、いわゆる「挟み撃ち」に遭ってしまうのを恐れたためでした。そして両者の帝位争いは、新大陸からの莫大な金銀で選帝侯らの買収に成功したカールの勝利に終わり、フランソワにとっては最も恐れた事態に陥ってしまったのです。

フランソワ1世はなんとかこの事態を打開すべく、なりふり構わぬ仰天の手を打ち放ちます。それは異教徒であるイスラムの覇者オスマン帝国と同盟を結んでカール5世を逆に「挟み撃ち」にしてしまうというものでした。つまりフランソワも、オスマン帝国をカールを追い詰める「道具」に利用しようと目論んだのです。

フランソワからの同盟の申し入れは、オスマン帝国のスレイマン1世にとって願ってもないものでした。こうして利害が一致したフランス王国とオスマン帝国との間で同盟が結ばれ、同時にカール5世は苦境に立たされます。

1529年5月、スレイマン1世はついにヨーロッパ内陸部への侵攻作戦を開始します。彼は帝国軍主力部隊およそ12万を率いて帝都イスタンブールを出発、ハンガリーからオーストリアに侵攻し、カール5世のハプスブルク軍を蹴散らしながら前進し、同年9月末にはハプスブルク家の本拠地であるウィーンに到達し、これを完全に包囲してしまいます。


Vienna1.gif

上がこの時のスレイマン1世の進撃経路です。

ここに「日の沈まない帝国」とオスマン帝国の全面対決が始まったのです。攻めるスレイマン帝の12万の大軍に対し、防衛するハプスブルク家のオーストリア軍は5万余りでした。

viennaA.jpg

形式的な降伏勧告と分かりきった拒絶のやり取りの後、ウィーン攻防戦は幕を上げます。堅固な城塞都市であったウィーンに対し、今回もオスマン軍は300門以上の大砲による一斉射撃と大量の歩兵を投入した物量作戦で激しく攻撃します。(このやり方はスレイマン1世が最も得意とした戦法でした。)防衛するハプスブルク守備隊とウィーン市民は、それまで経験した事もない凄まじい砲撃の大音響に、恐怖を覚えながらも頑強に抵抗し続けました。

しかし、思わぬ事態がウィーンを窮地から救う事になります。このウィーン攻防戦が始まったのは10月で、北国のオーストリアではすでに霜が降り、寒さが南国育ちのオスマン兵たちの士気を大きく削ぐ事になったからです。

世界史はもちろん日本史においても、たとえば戦国時代などは大軍で敵の城を取り囲む籠城戦というのは数限りなくその事例がありますが、一見すると包囲されている側が絶体絶命のピンチの様に思われます。(実際その通りですが。笑)しかし現実には包囲している側も大変なのです。なぜなら包囲軍の兵士たちは、何も無い野外で暑さ寒さや雨風にさらされるからです。

また、ウィーンが内陸にあった事も幸いでした。スレイマン1世は12万の大軍を維持するための大量の物資、とりわけ食糧と弾薬の補給を全て陸路で運ばせなければならず、前線のオスマン軍各部隊で補給が追いつかない状態に陥ってしまいました。

これらの悪条件は、名君スレイマン1世にウィーン攻略の中止を決意させるに十分でした。そして作戦開始から2週間で、彼は全軍に撤退命令を出し、イスタンブールへと帰ってしまいます。それだけではありません。この戦い以降スレイマンは、あれほど情熱を傾けて準備していたヨーロッパ侵攻作戦を断念してしまい、以後はオーストリア、チェコ、ポーランドとハンガリーとの国境線を帝国の北限と定めると、それ以上ヨーロッパに攻め入る事を止めてしまったのです。

これはヨーロッパにとってはありがたい事でしたが、ではなぜ彼はそれ以上ヨーロッパに進撃するのを止めてしまったのでしょうか? その理由は歴史家の間で諸説語られていますが、最大の理由はやはり先に述べたヨーロッパの気候が大きな原因の様です。

そもそもスレイマン率いるオスマン帝国の支配地域は、本国トルコを含めて暖かい(というより暑い)南のイスラム世界がほとんどです。そのためトルコ人をはじめ、オスマン帝国を構成する大半の民族は冬の厳しい寒さというものを知らず、緯度がはるかに上のヨーロッパの凍えるような寒さは、当時のオスマン帝国の人々に強烈な忌避感を憶えさせた様です。

いずれにしても、この戦い以降オスマン帝国のヨーロッパ侵攻は、150年後の第2回目のウィーン攻略まで無くなるのですが、この事件がヨーロッパ社会に与えた心理的ショックは計り知れないものがありました。特に当時宗教改革の真っ只中にあったドイツ神聖ローマ帝国では、カトリックの腐敗を説いたルター率いるプロテスタント勢力が、オスマン帝国の脅威を「神の罰」と宣伝し、オスマン帝国という外の敵を退けたカトリックの保護者である皇帝カール5世は、今度は国内のプロテスタントという新たな敵に悩まされ、ついには退位してハプスブルク帝国をスペインとオーストリアに分割してしまう事になるのです。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR