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地中海を死守せよ! ・ マルタ島の戦い

みなさんこんにちは。

1529年10月、ヨーロッパ侵攻を目論んだオスマン帝国のスレイマン1世率いる12万の大軍は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世のハプスブルク家本拠地であるオーストリアのウィーンを包囲し、これを手に入れんと猛攻を仕掛けてきました。

ウィーンといえば、中央ヨーロッパに燦然と輝く都であり、その位置はもはや「ヨーロッパ辺境」とは言えず、またその存在は、これまでオスマン帝国が攻め取ってきた東ヨーロッパのバルカンの諸都市とは比較にならない重要性を占めていました。

スレイマン帝は、このウィーンを攻め落とす事でヨーロッパ人の心胆を寒からしめ、それをてこにしてさらにヨーロッパ中央へと領土を広げるつもりでいたのです。そして迎え撃つハプスブルク軍とウィーン市民の防衛軍5万との間で激しい攻防戦が繰り広げられます。

しかし、この彼のたくらみは、前回もお話した様に大軍を支える食糧弾薬などの物資補給が追いつかず、特にヨーロッパの気候の寒さに驚いたオスマン軍将兵の士気の低下によって、作戦開始からたった2週間で瓦解し、スレイマン帝はそれ以上のヨーロッパへの遠征を中止してしまいました。

このウィーン攻略作戦は失敗こそしたものの、ヨーロッパの人々にオスマン帝国への強烈な心理的恐怖を与えるという効果は絶大で、以後対オスマン帝国の最前線となるオーストリアの支配者ハプスブルク家では、隣国ハンガリーのオスマン帝国の宗主権を認め、さらに貢納金を払う事で、(つまり金で手なずけて)トルコの侵略を抑える政策に転換します。

一方ヨーロッパ侵攻を断念したスレイマン1世は、今度はその遠征の矛先を2つの方面に進めます。1つはオスマン帝国のはるか東のイランを中心に勢力を振るうサファヴィー朝ペルシア王国。そしてもう1つは地中海です。


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上はサファヴィー朝とオスマン帝国の位置関係です。このサファヴィー朝は、同じイスラムでも、宗派の違う「シーア派」の王朝であり、オスマン帝国にとってこの大国は常に背後を脅かす存在でした。

ウィーン攻略を断念したちょうどその頃の1530年代初頭、両国の国境付近の領主の間で個別の争いが起きていました。スレイマン帝はこれを口実に、この機会にサファヴィー朝を滅ぼしてイランを手に入れ、シーア派を壊滅させてしまうべくこの地域に侵攻軍を差し向けました。

しかしこの遠征はスレイマン1世にとって予想外の長期戦を強いられる事になります。当時このサファヴィー朝ペルシア王国の王は同王朝2代目のタフマースヴ1世という人でしたが、有能な君主であった彼の粘り強い抵抗により結局スレイマンはイランの完全な征服を諦めざるを得なくなります。


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上がそのサファヴィー朝ペルシア王国2代国王タフマースヴ1世です。(1514~1576)彼は初代の父王が築いた王国を、父の死によってわずか10歳で引継ぎましたが、まだ少年の彼に何も出来るはずはなく、王国は国内外の争いで乱れに乱れ、彼もそれに大きく翻弄されて何度も危険な目に遭っています。しかしこうした苦労が逆に彼を強く鍛え上げ、有能な王へと育て上げる事になりました。彼はオスマン軍が大砲と銃火器を主力とする当時最新の装備であった事から、騎兵を中心とする自らのサファヴィー軍では勝ち目が無いと正面での戦いを避け、オスマン軍を奥地へと引き入れ、補給線が延びきった所で敵の後方に部隊を出没させ、各個にオスマン軍の補給部隊を攻撃し、敵の追撃を受けないうちに素早く撤収するゲリラ戦術で応戦し、オスマン軍を悩ませます。

タフマースヴ王との長期戦でかなりの戦力を消耗したスレイマン帝はイラン征服を諦め、1555年にイラクをオスマン領とする事で両国は国境線を画定し、東方遠征は終結します。(通算すると20年以上に及ぶ長い戦いでしたね。彼のこの方面における執着振りからすると、なかなか諦め切れなかったのでしょう。)

さて、東の強敵ペルシアとの戦争をようやく終わらせたスレイマン1世がそれと並行し、46年に及ぶその在位期間の全てを通じて最も情熱を燃やしたのが全地中海の征服です。上の地図をご覧いただければお分かりの様に、すでに彼の帝国は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる大帝国に発展していましたが、あくまでそれは陸上での事であり、海上支配の確立は今だ不十分だったからです。

先に何度か当ブログでもお話しましたが、このオスマン帝国という国家は元は騎馬民族トルコ人の築いたものです。そのため海洋民族でない彼らは当然の事ながら海軍の伝統がなく、船の数だけは金に糸目をつけずにそろえる事は出来ても、それを操る人材に乏しく、海の上での戦いは終始苦手なものでした。そしてそれが、オスマン帝国の地中海支配を遅らせる原因でもありました。

スレイマン1世は帝国軍の弱点であるこの海軍力の増強に努め、そのために一人の強力な味方を得る事に成功します。それは北アフリカのアルジェリア沿岸部を根城にする当時の地中海最大の海賊であったバルバロス・ハイレッディンです。


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上がその大海賊バルバロス・ハイレッディン(1475~1546)と、その根拠地アルジェの城塞都市です。彼は先に述べた様にアルジェリアのアルジェを根拠地とし、常時50隻以上の艦隊を自由に操っていた地中海最大最強の海賊でした。

バルバロスはすでにスレイマンの父セリム1世の時代からオスマン帝国とコネクションを持っていましたが、自分の支配地であるアルジェリアが、絶えず陸上からスペインの脅威にさらされる弱点を克服するためにオスマン帝国の強大な陸軍力を欲し、1533年にスレイマン1世に完全な臣下として服属と忠誠を誓い、スレイマンは彼をアルジェリア総督兼オスマン海軍の総司令官に任命します。

それまで弱かったオスマン海軍は、ハイレッディンの帝国への帰順により飛躍的に強化され、スレイマンはハイレッディンの率いる艦隊と彼の支配地アルジェリアをタダで手に入れる事が出来たのです。(スレイマン帝はさぞ上機嫌だった事でしょうね。笑)

一方オスマン海軍の総司令官に任命されたハイレッディンは、スレイマン帝の期待に大きく応え、その勇猛果敢さと豊富な海戦経験をフルに活かして地中海を暴れ回り、オスマン帝国の地中海における制海権の確保に大きく尽力します。彼の活躍により、地中海はその3分の2がオスマン帝国の支配下に置かれる事になりました。

しかし、その地中海のちょうど真ん中にあるマルタ島という小島を支配し、徹底的にオスマン帝国に抵抗し続けるある一つの集団がありました。その名は「聖ヨハネ騎士団」 かつて1522年にロードス島において、スレイマン1世の率いる20万の大軍に果敢に抵抗し、降伏でも追放でもない「開城」という特殊な形式でロードス島を去り、その後このマルタ島に本拠を定めたキリスト教騎士団です。


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上がそのマルタ島の様子です。現在はマルタ共和国となっています。(首都はヴァレッタで人口は6300人ほど。4枚目の上空から見た写真ではかなり大きな街に見えるため、人口がもっとありそうですが、ヴァレッタは中央の旧城塞都市部分のみで、この部分の人口がこの程度なのだそうです。マルタ共和国全体の人口は40万ほど。)

この聖ヨハネ騎士団はロードス島攻防戦の後、1530年に時の神聖ローマ皇帝カール5世からオスマン帝国の海上侵攻の防衛を条件にこのマルタ島の領有を許され、30年以上の歳月をかけて堅固な城塞都市を築いていました。彼らは着々と都市の建設に勤しむと同時に、海上ではかつてロードス島近海で行っていたのと同様に周囲を航行するイスラム船を襲撃し、積荷を強奪、乗組員を人質に取り、地中海の全ての制海権の獲得を狙うスレイマン1世にとって、新たな脅威になっていました。

スレイマン1世がこの聖ヨハネ騎士団とロードス島で戦ったのは、即位して2年目の26歳の時でしたが、それから40年の時を越え、その騎士団が再び彼に手向かう勢力に復活して活動を再開したのです。

このまま彼らを野放しにしておいては、オスマン帝国による地中海の完全な掌握は実現出来ません。そこでスレイマンは、この聖ヨハネ騎士団壊滅とマルタ島奪取を企図し、1565年に再び遠征軍を差し向けました。

この時のオスマン軍の兵力はおよそ4万あまりで、それらを輸送する艦隊はおよそ190隻ほど、一方迎え撃つマルタ島の聖ヨハネ騎士団は主力の騎士たちが550騎、それに傭兵やマルタ島の島民を合わせた6千余りで、43年前のロードス島攻防戦での兵力とほぼ同じでした。

しかしこのマルタ島攻防戦は、前回のロードス島攻防戦の時とはかなりの部分で大きな違いがありました。それは戦場が帝国本土から遠く離れていた事と、オスマン軍の兵力が前回のロードス島攻防戦の5分の1程度とはるかに少ない事、そしてなんといっても帝国皇帝たるスレイマン1世自身が指揮していない事でした。

しかしそれは無理からぬ事でした。なぜならすでにこの時スレイマン帝は70歳の高齢であり、前線で自ら陣頭指揮を取れる様な年齢ではなく、また大帝国の皇帝が自ら出向くのに、マルタ島の様な小島では相手が小さすぎるという理由から、今回はスレイマン帝の宰相の一人ララ・ムスタファ・パシャがマルタ攻略軍司令官として派遣されていました。

戦いは1565年5月中旬から始まります。マルタ島に上陸したムスタファ・パシャ率いるオスマン軍はマルタ軍を城塞都市に追い詰めますが、元からそのつもりで作戦をたてていたマルタ軍の粘り強い抵抗と堅固な城塞に苦戦して戦闘は長期化、さらにオスマン艦隊の司令官と、上陸している陸上軍の司令官ムスタファ・パシャとの意見の相違がオスマン軍の作戦に混乱を招いてしまいます。(これは明らかにスレイマン帝の失敗でした。全軍を一人の司令官にトップダウンで指揮させるのではなく、陸軍と海軍でそれぞれの司令官に指揮命令系統を分けてしまったために、遠征軍は統一した作戦行動が取れなくなってしまったからです。)


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上がマルタ攻防戦を描いた絵です。複雑に入り組んだ入り江に築かれたマルタの城塞都市に、オスマン軍が攻めあぐねています。おかげでマルタ軍は時間を稼ぐ事が出来、オスマン軍は遠征軍の7割以上の損害を出し、4ヵ月後の9月に撤退を余儀なくされます。

皇帝からマルタ島の奪取を命令されたのにそれに失敗し、皇帝から預かった多くの兵を失った司令官のムスタファ・パシャは、皇帝からの激しい怒りと死刑を覚悟して帝都イスタンブールに帰還し、トプカプ宮殿で恐る恐るスレイマン帝に戦況を報告しました。しかし、意外にもそれに対して皇帝は特に無関心で、ムスタファにはこれまで通り宰相職を全うする様にと命じられただけで、これといったお咎めはなかったそうです。(これはスレイマンがもはや高齢であった事と、本来有能な将軍であったムスタファ・パシャの様な人材を失う事を避けたスレイマンの「大器」を表すものですが、当のムスタファ・パシャは運が良かったですね。ちなみに彼はその後もオスマン帝国を支える軍人として活躍しています。)

一方見事オスマン軍を撃退する事に成功し、島を守り抜いた聖ヨハネ騎士団もその被害は甚大でした。500人以上いた騎士たちのうち400名が戦死、島民も含めた戦死者は1万に達し、その復興にはかなりの時間を要する事になったからです。

この聖ヨハネ騎士団の勝利は、裏でオスマン帝国によるこれ以上の地中海侵攻を阻止したいスペインの思惑と援助もあって実現したものでしたが、それまでオスマン帝国の攻勢に対して圧される一方であったヨーロッパ諸国、とりわけ当時新興海洋王国として興隆著しかったスペイン王国に大きく自信を持たせる事になりました。なぜならいかにオスマン帝国が強大であろうとも、あくまでそれは陸上での事であり、はるかヨーロッパの西の端に位置するイベリア半島のスペインまで彼らが手を出す事は物理的に無理な事がこの戦いで実証されたからです。

そしてそれは同時に、オスマン帝国が拡大発展の限界点に達しつつあった事も露呈する事になりました。このマルタ島の戦いは、オスマン帝国という超大国が、それまでの拡大発展の曲がり角に立った最初の分水嶺ともいうべき事件でもあったのです。

次回に続きます。
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