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アレクサンドロス大王の戦い 5

みなさんこんにちは。

イッソスの戦いに勝利し、フェニキア地方をも制圧したアレクサンドロスは海岸沿いにさらに南下し、シナイ半島を経てエジプトに侵攻します。その前に彼は、見せしめと威嚇のために手前の都市ガザを総攻撃し、駐留ペルシア軍を徹底的に根絶やしにします。その知らせに恐れをなしたペルシアのエジプト駐留軍は、もともとペルシア本国に対する忠誠心が薄かったせいかあっけなく彼に降伏します。

さてこの時なぜ彼は、東のペルシア本国ではなく西のエジプトを目指したのでしょうか?


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その理由は兵糧、つまり食糧の確保と今後の安定供給でした。先のイッソスの戦いで、アレクサンドロスはダレイオス3世の置いていった莫大な金銀を手に入れ、当面の戦費を心配する必要は無くなったのですが、いくらその額が莫大でも所詮使ってしまえばいずれは無くなります。武器、兵士たちへの報酬、そして何より食糧を手に入れるのに金はいくらあっても足りる事はありません。さらにこれから攻めていくペルシア本国は、何も作物が実らない灼熱の乾燥地帯が広がります。

実はアレクサンドロスの故郷であるマケドニアを含むギリシア一帯は、意外にも食糧の自給率が低いのです。特に日々の生活に欠かせぬ糧であるパンの原料である小麦などの穀物は、ほとんど交易によって手に入れていました。そしてその大きな供給先がエジプトだったのです。

エジプトというと、恐らく上の画像の様にピラミッドと砂漠をイメージされる方が多いと思いますが、学校時代に歴史の授業で「エジプトはナイルの賜物」と教わった様に、ナイル川沿岸と地中海に注ぐ広大なナイルデルタはとても肥沃な土地なのです。

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上の画像をご覧ください。ナイル川沿いに緑あふれる農地が広がっているのがお分かり頂けるでしょう。これこそがエジプト数千年の繁栄を支えた源なのです。そしてこの尽きる事の無い豊かな実りをもたらすこれらの穀倉地帯を手に入れる事が、アレクサンドロスのエジプト侵攻の目的でした。

紀元前332年エジプトを占領したアレクサンドロスは、この地でペルシア支配からの解放者として歓迎されます。ここで彼はエジプトの神々を尊重し、各地の神殿を訪れてそれらの前に膝を付きます。これは彼が円滑にこの地を統治出来るようにする為の一種のパフォーマンスでしたが、彼の計算は大当たりし、彼は神官たちや市民からペルシア王に代わる、エジプトの新たな「ファラオ」として迎えられました。

アレクサンドロスはこのエジプトに約半年ほど滞在してナイル川沿いに各地を訪れ、やがて紀元前331年ナイルデルタの西に自らの名を冠した「アレクサンドリア」という都市を建設します。遠征開始以来それまで「破壊」を繰り返して来た彼が、この頃から自らが君臨する新たな世界国家の構築を考え始め、それを目に見えた形で表現して見せた最初の「創造」でした。

AlexandriaMap1.jpg

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上はそのアレクサンドリアの位置と、現在の街並みの様子です。(人口は2011年時点で約430万)

彼はこの都市を始めとして、その後同様に自分の名を付けた「アレクサンドリア」を遠征で手に入れた支配地の各所に建設し、一説にはその数は70にも登ったと言われています。しかし今日まで残って現在も発展を続けているのはこのエジプトのアレクサンドリアだけです。

この都市はアレクサンドロス大王の死後、彼の後を継いでエジプトに独立王国を打ち建てたプトレマイオス1世(紀元前367~282)の王朝の首都となり、最盛期には人口100万を越える地中海世界最大の都市として繁栄しました。(このプトレマイオスはアレクサンドロスの少年時代からの最も古い学友で、将軍として彼の遠征に終始付き添って供に戦い、苦楽を供にした無二の親友でした。その気になれば別の都市を都にするとか、街の名を変える事など造作も無い事なのにそれをしなかったのは、アレクサンドロスに対する終生変わらぬ忠誠と友情、尊敬と感謝の表れだったのでしょう。)

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上がそのプトレマイオス1世とされる胸像で、現在パリのルーブル美術館に所蔵展示されています。首が太くていかにもたくましそうな人物ですね。彼はアレクサンドロスより11歳も年長であり、親友であるとともに歳の離れた兄のような存在だった様です。そしてまだ若いアレクサンドロスの年齢的に未熟な部分を見えない所で補いつつ影で支え、彼の遠征を成功させた最大の貢献者でした。

アレクサンドロスの死後、彼は先に述べた様に紀元前306年エジプトに自らの王朝を打ち建て、他の後継ライバルたちをはるかにしのぐ85歳の長寿を全うした強運の持ち主でもあります。そして彼が建てたプトレマイオス朝エジプト王国は、彼の一族を王家として代々脈々と受け継がれ、その子孫である最後の女王が紀元前30年にローマ帝国との戦いに敗れて滅亡するまで264年間も続きました。その最後の女王が、あの有名な絶世の美女と伝わるクレオパトラである事は、歴史ファンであれば良く知られていますね。

それから余談になるのですが、この「アレクサンドリア」という街、画像ではとても美しい風光明媚な所ですが、それとこれとは別で、実は都市としては大きな欠点が二つあったそうです。まず第一は市民の生活に欠かせない飲料水となる地下水が全く出ない事。海の真近なのでどこを掘っても塩水しか出ず、そのため遠く離れた水源から水を引いて来る必要がありました。(この問題は現在も変わらず、この街ではすぐに給水制限がされるそうです。)

それから第二に、海に面した湾の入り口が広すぎて湾の水深も浅く、沖合いの潮の流れが湾に入り込んでしまうため、湾内の船がみんなそれに流されてしまうという事です。(古来どこの国でも港町というものは、湾の入り口が狭い場所を選んで造られていますね。これは潮流が湾内に流れ込んで停泊中の船が流されてしまうのを防ぐ為です。)そのため湾内に、大護岸工事を施して新たな港を造らなければなりませんでした。つまり、この場所は港湾都市とするには全く不向きな土地だったのです。

以上の事から、アレクサンドロスはあまり都市の立地条件というものを考えずに、ここに街を建設してしまった事がうかがえます。(こういう点も、まだ24歳だったアレクサンドロスの若さゆえの未熟さというか、経験不足が感じられます。)結局これらの欠点は後の人々の努力で克服されていき、やがて大都市として繁栄を謳歌しますが、当時の人々の苦労が偲ばれますね。

さてエジプト征服を完了し、兵に休養を取らせて充分に戦力を蓄えたアレクサンドロスは紀元前331年春、東征を再開し、敵王ダレイオス3世との最後の戦いに出発します。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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