花開くオスマン文化 ・ 超大国の光と影

みなさんこんにちは。

オスマン帝国歴代皇帝のうち、他の誰よりも最も優れた名君であった10代皇帝スレイマン1世が君臨していた1560年代は、それまで軍事では最強を誇っても、文化の程度は他国の模倣の域を出なかったオスマン帝国が、学問、美術、工芸、建築の諸分野で、他国に引けを取らない独自の発展と進歩を積み重ね、そしてそれが一気に花開いた黄金時代の始まりでもありました。

この時代、帝国の領土と支配地はかつてのビザンツ帝国(東ローマ帝国)最盛期の領土に匹敵するほどに拡大し、西ヨーロッパ諸国を除くその他の地域には、オスマン帝国に対抗出来るだけの力を持った国家は一つもなく、今や帝国はユーラシア最大最強の超大国として頂点を極めようとしていたのです。


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上がオスマン帝国最盛期の第10代皇帝スレイマン1世の肖像と、彼が亡くなる直前の帝国領土の地図です。(1494~1566)年を取り、恰幅の良くなった晩年の姿で描かれていますが、もともと彼は若い頃は面長で細身の美青年で、上の絵でもそれが感じられます。 もちろん彼はそうした外見だけではなく、政治、軍事両面に優れた手腕を発揮した歴代最高の名君であり、また学問と芸術、詩を愛した高い教養を持つ文化人でもありました。そうした彼の姿勢が、それまで軍事征服国家としての印象が強烈だったオスマン帝国に、成熟した独自のオスマン文化を花開かせる大きな原動力になっていったのです。

中でもスレイマン帝がその発展に最も力を入れたのが建築の分野であり、その彼の意向を受けて、実際に多くの優れた壮大な建物を造り上げた実行責任者が建築家のミマル・シナンです。


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上がそのミマル・シナンの銅像です。(1489~1588)彼はトルコ人なら誰でも知っている最高の建築家であり、彼の名のミマルとはそのまま「建築家」という意味なのだそうです。 また彼は100歳近く生きた大変長命な人物で、その長命のおかげで数多くの建築作品を残すことが出来、それが彼を本国トルコの誇る偉人にしました。

彼はもともとはオスマン皇帝の親衛隊であるイェニチェリ出身でしたが、実際に戦う戦闘部隊ではなく「工兵隊」に所属し、スレイマン帝の数々の遠征に従軍して遠征軍のための橋梁の建設に従事しました。そうした影の支えがあって皇帝の遠征は実現出来たのであり、その彼の見えない手柄を高く称賛したスレイマンは、1538年にシナンを帝室造営局長に抜擢し、その後彼はスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の3代の皇帝に仕え、1588年に亡くなるまで50年に亘って宮廷建築家として作品を造り続けました。

彼が手がけた建築物はなんと分かっているだけでも470を数え、その中で最も数多いのがイスラム教の祈りの場所であるモスクです。


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上が彼の代表作である主君スレイマン1世のための霊廟として捧げられた「スレイマニエ・モスク」とその内部の様子です。1枚目の写真をご覧ください。大きなドームを中心とし、その周囲の四隅にミナレットと呼ばれる高い尖塔を建てる独特のスタイルで設計されています。(このミナレットとは、この塔の上から礼拝の集合を告げる「エザーン」を流すためのものです。)この様式は後のオスマン帝国のモスク建築の典型となり、多くのモスクがこれを模倣したスタイルで造られていきます。

また2枚目と3枚目の内部のドームの写真をご覧ください。イスラムの教えにより偶像崇拝が禁じられている制約(つまりアッラーの神はもちろん人や動物を描いてはならない、神を描くのは問題外、また人や動物は個人崇拝や異教を生み出す元となる。)から、内部の装飾はイスラム独特の幾何学模様で彩られています。


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もちろん彼はこうしたモスクだけではなく、もっと実際的な建築物も数多く残しています。上はその一つで、時の大宰相ソコルル・パシャの注文で1576年に造られたボスニアのドリア川の橋です。川が増水した場合に橋梁にかかる水の抵抗を左右に分散させるため、橋梁の側面が尖った設計です。

ミマル・シナンの活躍で帝都イスタンブールには多くの壮麗な建築物が次々と建設され、それらの建築ブームによってイスタンブールは空前の好景気に沸き、周辺各国からも多くの人々が帝都に集まり、この頃イスタンブールは人口50万を超える大都市として繁栄を謳歌しました。つまりこれはスレイマン1世の経済活性政策の一環でもあったのです。

一方こうした帝国の光の部分とは対照的に、オスマン帝国の頂点に君臨するオスマン皇帝家では、恒例の後継者争いがまたも芽を吹き出し、さらにこれまでにない新たな不安要素が加わるという陰の部分の存在が大きくなろうとしていました。

その新たな不安要素とは、いつの時代も多くの権力者を惑わしてきた「女性」という存在です。

「英雄色を好む。」

とは古今東西言われてきた事ですが、このオスマン帝国最高の皇帝とされる名君スレイマン1世もその一人でした。彼もその絶大な権力で帝国内外からあらゆる美女たちをトプカプ宮殿に集め、後宮に住まわせていました。これは後に「ハレム」と呼ばれ、わが国の徳川将軍家における江戸城内の大奥と同じ機能を持つ事になりますが、そのハレムの女たちの間では、皇帝の寵愛を得ようと熾烈な争いが繰り広げられていく様になっていったからです。

スレイマン帝もそのハレムの中で愛人と戯れ、最初に愛したマヒデブランという女性との間に1515年、最初の後継者である皇子ムスタファを授かります。 このマヒデブランはスレイマンの母であり、姑であるハフサ・ハトゥンにも気に入られていたのですが、その後ハレムにオスマン帝国を大きく揺さぶる一人の女性が連れて来られます。その名は「ロクセラーナ」またの名を「ヒュッレム」とも呼ばれます。


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上がそのロクセラーナです。(1506~1558)彼女はポーランド系ロシア人で、10代半ばでイスタンブールに連れて来られたそうです。後に彼女はスレイマン帝の正式な皇后となって自らが産んだ皇子たちを次の皇帝とすべく魔女の様に暗躍していきます。

彼女は他の美女たちに比べて決して並外れた美貌ではなかった様ですが、彼女を一目見たスレイマンは彼女に一目ぼれしてしまい、以後は第1夫人のマヒデブランはおろか、他の女たちの傍にも寄り付かなくなるほど彼女にのぼせ上がってしまいます。そしてロクセラーナはスレイマン帝との間に次々と4人の皇子たちを産み、事実上の第1夫人として上り詰めてしまうのです。

この事態に皇帝の母や最初の妻であるマヒデブランが面白いはずはありません。ロクセラーナとマヒデブランの対立は日ごとに激化していきましたが、マヒデブランの後ろ盾であった皇帝の母ハフサが1534年に亡くなると、目の上のこぶが取れたロクセラーナはマヒデブランを追い落とすために、いかにも女性らしい作戦に打って出ます。なんと彼女は自らの顔に引っかき傷を作り、それをマヒデブランの仕打ちと皇帝に告げ口したのです。

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上はオスマン皇帝の居城であるトプカプ宮殿です。

すでにマヒデブランを遠ざけて久しいスレイマン帝は、マヒデブランを宮殿から追放してしまい、彼女は息子ムスタファの下に送られてしまいました。こうしてロクセラーナは、宮廷内における最大の敵を排除する事に成功したのです。

ロクセラーナの次なる敵は、マヒデブランの産んだ第1皇子ムスタファでした。彼は立派な軍人として有能な人物であり、皇帝の親衛隊であるイェニチェリをはじめ、帝国軍部に高い人気を誇っていました。

このムスタファに対抗するには彼女の産んだ4人の皇子たちはいずれも弱い人物でした。なんといってもムスタファは長男の第1皇子であり、父スレイマン1世の武人としての資質を最も良く受け継いだ人物だったからです。(もし、彼が皇帝となっていれば、オスマン帝国は別の歴史が開けていたかも知れません。)

ロクセラーナはこのムスタファ追い落としのためにあらゆる知恵を絞ります。しかし、相手は女性が生理的に最も苦手とする「軍事」に秀でた人物です。彼の周囲は強力な軍団によって厳重に警護され、暗殺や毒殺もそう簡単には行きません。そこで彼女はムスタファの軍人としての有能さを逆手に取り、これを謀略の道具に利用します。

「陛下。ムスタファ殿下は陛下の留守中に謀反を起こして父君の貴方を幽閉し、帝国を我がものにせんと遠大な計画を立てておられるご様子でございます。なにとぞお気をつけあそばされますように。」

彼女はスレイマンにこう耳打ちし、さらにあたかもムスタファが謀反を企てているかの様に宮廷内に噂を振りまいたのです。振り返ればオスマン家の歴史は親子兄弟骨肉争う後継者争いの繰り返しでした。たまたまスレイマン1世は男子の兄弟がなく、そういう悲哀を味あわずに即位出来た事はすでに述べましたが、その彼が自らの息子であるムスタファによって権力を追われるかも知れないという恐怖心を持った事は十分に想像出来ます。(長男ムスタファには、それが実現出来るだけの軍事的才能があり、それを最も良く知っていたのが父であるスレイマン自身だったからです。)

名君の誉れ高かったスレイマン1世も、このロクセラーナには完全にたぶらかされてしまいます。そして彼は1553年に大事な後継者である第1皇子ムスタファをロクセラーナの諌言通り謀反の疑いで捕え、処刑してしまうのです。

これにより帝国内における最大の敵を排除した彼女は、心置きなくスレイマンの寵愛を一身に受けられ、後は自らの産んだ皇子たちのうち、最も彼女が次の皇帝に望ましいと選んだバヤジット(彼女には上から順にメフメト、セリム、バヤジット、ジバンギルの4人の息子がいましたが、長男メフメトと末弟ジバンギルはすでに亡くなっていたため、残る2人のうち、優秀なバヤジットを次の皇帝に即位させるつもりだった様です。)を後継者としてスレイマンに指示させる様仕向ける事が彼女に残された仕事でした。

しかし、彼女は自分の息子が皇帝となる姿を見届ける事は出来ませんでした。1558年4月、稀代の悪女ロクセラーナは52歳でトプカプ宮殿で亡くなります。

ロクセラーナの死を、彼女を深く愛していたスレイマン1世は大変悲しみ、自分が死んだ時にそこに葬らせるために先に述べた大建築家ミマル・シナンに造らせていたスレイマニエ・モスクに埋葬させ、後に彼自身もそこに埋葬される事になります。

このロクセラーナの出現は、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するという悪しき伝統の先駆けとなりました。そしてそれは、長い時間をかけて慣習化され、ゆっくりとオスマン帝国自体を蝕んでいく化け物として肥大化していく事になるのです

次回に続きます。
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