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レパントの海戦 ・ ヨーロッパ連合艦隊の勝利

みなさんこんにちは。

1558年、ハレムの女奴隷から、オスマン帝国を影で操る事実上の皇后にまで登り詰めたロクセラーナが亡くなると、オスマン皇帝家では次の帝位をめぐって恒例の後継者争いが表面化してしまいます。 この時のオスマン帝国の支配者は、歴代最高の名君で、後に「大帝」とまで称される10代皇帝スレイマン1世でしたが、亡きロクセラーナを盲目的なまでに溺愛していた彼は彼女の死を深く悲しみ、同時にその彼女が残していった「置き土産」ともいうべき2人の皇子の後継者争いに悩まされていました。

オスマン帝国自体は、スレイマン帝の行った周辺国に対する数々の軍事遠征の成功と、彼の優れた政治外交手腕に加え、皇帝自身が能力を認めた大宰相や優秀な官僚たちによる堅実な国家運営の確立、さらにこの時期に花開いた独特のオリジナリティーあふれるオスマン文化によって繁栄の絶頂期を迎えていましたが、その繁栄の頂点に君臨し、この世において手に入らないものは無い絶対的権力者であるはずのスレイマン1世自身の晩年は、先に述べた身内の不幸と周囲への猜疑心、自らの死後の帝国の行く末に対するとめどない不安にさいなまれる不幸なものだったのです。

事の起こりは彼の最愛の妻ロクセラーナが亡くなる前から火種がくすぶりだしていました。このロクセラーナについては、権謀術数渦巻くハレムの中で台頭し、スレイマンとの間に4人もの皇子に恵まれ、皇帝の寵愛を背景にオスマン帝国を動かしていた事は前回もお話しましたが、その彼女が産んだ4人の皇子のうち、帝位継承権を持つのは早世した2人を除く残りの2人の皇子である次男のセリムと三男のバヤジットでした。


しかし兄のセリムは大酒飲みの放蕩三昧であったため、母のロクセラーナはセリムと1歳しか年の違わず、セリムよりはるかに有能な弟のバヤジットをゆくゆくは皇帝とすべく画策していましたが、結局それを果たせないまま亡くなってしまいます。

彼女の死後、両者の後継争いは互いの支持者を後ろ盾として次第に激しくなっていきました。次男セリムは皇帝の親衛隊であるオスマン軍の中核イェニチェリや、大宰相ソコルル・パシャら帝国中央政府が支持し、一見セリムが有利に見えました。しかし三男バヤジットも地方の地主や農民の圧倒的な支持を得ており、数的にはバヤジットの方が多数派を押さえていたために侮れない力を持っていました。


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上が当時の帝国大宰相ソコルル・パシャです。(1506~1579)彼がセリム皇子を支持したのは、父スレイマンに似て有能なバヤジットよりも、国政に関心を持たないセリムの方が、実際の国政を預かる彼にとって都合が良いからでした。

そこでセリム派はバヤジット追い落としのために謀略をめぐらします。その首謀者はセリムの家庭教師を務めたララ・ムスタファ・パシャでした。(この人は前々回のマルタ島の戦いで島の攻略に失敗した人物です。)彼はロクセラーナ亡き後失意と悲しみに暮れる老いたスレイマン帝にバヤジットを貶める偽の手紙を見せ、それをすっかり信じ込んでしまったスレイマン帝からバヤジット更迭命令を引き出す事に成功したのです。(スレイマン帝がムスタファ・パシャの嘘を信じ込んでしまったのは、ムスタファ・パシャがロクセラーナの信任が厚かったからです。それほどまでにスレイマンは、盲目的にロクセラーナを愛していたのでしょう。)

一方いち早くセリム派の動きを察知したバヤジットは、自分の支持者からなる2万の軍勢で挙兵し、対決姿勢をあらわにしました。

こうして両者は戦闘を開始します。しかし、戦いは父スレイマン帝の圧倒的軍事支援を得ていたセリムの勝利に終わり、敗れたバヤジットは妻子とともに隣国ペルシアのサファヴィー朝に亡命を余儀なくされてしまいました。(その後、彼らはオスマン帝国との関係を悪くしたくないペルシア側の意向によりオスマン側に送還され、反逆者として処刑されてしまいます。)

こうして次の皇帝には、スレイマンの5人の皇子たちのうち、最も出来の悪いセリムが決定したのです。(それにしても、名君であったスレイマンの後継者が、最も出来の悪いセリムであったのは皮肉な事ですね。)

最晩年のスレイマン帝は1566年、この様な身内の争いを忘れようとでもするかの様に、かつて自らが最も情熱を傾けた軍事遠征に再び出発します。目的地はハプスブルク家との小競り合いが絶えないハンガリーでしたが、この時すでに彼は老いと病が進行しており、長い遠征の旅は、彼に相当な負担をかけてしまいました。そして同年9月、ハンガリー遠征の途上の陣中において、オスマン帝国最盛期の黄金時代を築いた歴代最高の皇帝スレイマン1世は71年の生涯を閉じます。

本来ならスレイマンの死をもって後継者争いが始まるところですが、すでに次の皇帝には上で述べたセリムしかいない事から、彼はなんの障害もなく即位する事が出来ました。


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上がオスマン帝国11代皇帝セリム2世(1524~1574)で、皇帝となった後にトルコの画家によって描かれたものです。彼は先に述べた様に大酒飲みの遊び好きで、肖像画でも過度の飲酒で真っ赤になった顔と肥満した身体が良く表現されていますね。弓に興じているのか後の小姓の少年が手渡す次の矢を受け取ろうとしている場面です。

このセリム2世ですが、とにかく大変な酒好きであった事くらいしか特徴が無い人物で、即位後はもっぱら狩猟とハレムにうつつを抜かして遊び暮らしていました。しかし、帝国の実際の運営はソコルル・パシャら先帝スレイマンが見出した有能な官僚たちと、同じくスレイマンが造り上げていた官僚主導による国家システムによってつつがなく運営されていました。

そんなだらしない皇帝セリム2世が、気まぐれに珍しくも命じた事があります。それは東地中海において、未だにオスマン領になっていなかったキプロス島の攻略です。


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上がそのキプロス島の位置と、首都ニコシアの街並み(人口31万)です。(現在はキプロス共和国で人口は80万)

この島は当時地中海最大の海洋都市国家ヴェネツィア共和国の領土でした。セリム2世はその島の攻略を命じたのです。では一体なぜ彼はキプロス攻略を命じたのでしょうか? その理由はなんとキプロスがワインの名産地であるからという呆れたものでした。

皇帝の無茶な命令に、国政を預かる大宰相ソコルル・パシャは、セリムを諌めてキプロス攻略を止めさせようとしますが、皇帝は聞き入れません。(ソコルル・パシャがキプロス攻略に反対した理由は、彼がオスマン帝国でも穏健派の筆頭であり、先帝スレイマンの時代の度重なる遠征により逼迫した国家財政の建て直しを図りたかったからです。またヴェネツィア側も、このキプロス島維持のために毎年多額の貢納金をオスマン帝国に支払っており、この貢納金はオスマン帝国が実際にキプロス島を統治して得られる収入を上回るものだったため、現実主義の政治家である彼はこのままヴァネツィアに「賃貸料」を支払わせていた方が良いと判断していたからでした。)

しかし、飲んだくれのセリム帝にそんな深慮遠謀などありはしません。オスマン帝国は皇帝の一存が全てを決する専制君主国家なのです。それにこれは軍部の後押しもありました。結局セリムの命によりキプロス攻略は実施され、島はオスマン帝国の10万の大軍によって占領されてしまいます。

当時キプロスには、ヴェネツィアの駐留軍と、キプロス島民を合わせて1万の防衛軍がいました。しかし彼らは、「降伏すれば身の安全は保障する。」というオスマン軍の申し入れを信じて降伏したところ、その全員が無残に虐殺されてしまったそうです。この事実は後に述べるヨーロッパ連合艦隊の将兵に、「卑怯な騙まし討ち」をしたオスマン軍への強烈な復讐心を駆り立てる事になり、それが不協和音で決して仲が良いわけではなかった混成部隊の彼らを一つにまとめる大きな力になりました。

さて、このオスマン軍のキプロス侵略に最も困ったのが元の持ち主のヴェネツィアです。このキプロス島はヴェネツィアの東地中海における海洋交易の一大拠点であり、ここを失うとその損失は計り知れないものがありました。しかし、相手は強大な専制軍事国家オスマン帝国です。本国の総人口が20万に満たない都市国家のヴェネツィアが独力で立ち向かえる相手ではありません。

海洋国家のヴェネツィアは戦時には100隻以上から成る強力な海軍を保有し、この海軍だけはその全てがヴェネツィア人で編成されていましたが、陸軍はその人口の少なさから常備軍を持つ事は出来ず、陸戦においてはその都度傭兵を金で雇うしか方法がありませんでした。今回のキプロス島奪還においても、上陸して占領しているオスマン軍と戦うには「最低でも」3万以上の陸軍が必要で、周辺各国から傭兵を大量に雇ってかき集めたとしても、せいぜい8千が関の山だったからです。

そこで彼らはヨーロッパキリスト教国にキプロス島奪還のための救援要請を呼びかけ、得意の外交戦略でオスマン帝国の脅威を言葉巧みに各国に誇大に伝えて危機感を煽り立てます。

「このままオスマン帝国を野放しにすれば、いずれ彼らは全地中海を手に入れてしまうだろう。今や我らキリスト教国家は互いの恩讐を捨て、一致団結して異教徒の侵略に立ち向かうべきである。」

とりわけヴェネツィアが頼みとしたのは、新大陸に広大な植民地を保有し、「日の沈まない帝国」を形成していたスペイン王国でした。当時のスペイン国王フェリペ2世はこれ以上のオスマン帝国の地中海進出を阻止するため、異母弟のドン・ファン・デ・アウストリアを総司令官とする大艦隊を差し向ける事を約束します。


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上が当時のスペイン王フェリペ2世です。(1527~1598)彼の時代、スペイン王国は最盛期を迎えており、同じく全盛時代のオスマン帝国との対決は歴史上の必然でした。また彼は父である神聖ローマ皇帝カール5世から継承した地上における「キリスト教の守護者」としての務めを忠実に果たそうとした狂信的なまでのカトリックであり、それはやがてイギリスとの熾烈な海洋戦争に発展していく事になります。(いずれその辺りも別の機会に新たなテーマを設けてお話したいと思います。)

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そして上がフェリペ2世の弟であるドン・ファン・デ・アウストリアです。(1547~1578)彼はフェリペの父である神聖ローマ皇帝カール5世が、ドイツの女性に産ませたいわば「私生児」でした。母親は自堕落な性格で、彼を案じた父カールによって忠実な家臣に預けられて大切に育てられ、真面目な性格の兄フェリペも彼を弟と認めて正式に王室の一員に加えています。やがて彼は軍人としての才能を発揮し、フェリペはその弟を対オスマン艦隊の総司令官に任命します。(しかし、フェリペ2世が彼を総司令官に任じたのは、この腹違いの弟を信用していたからではなく、政治より軍事を好むこの弟が宮廷近くにいては争乱の元になる事を憂慮し、なるべくスペイン本国から遠ざけて置きたかったのが目的の様です。)

ヴェネツィアが味方に取り込んだ同盟国はスペインだけではありません。かつては彼らの最大のライバルであったジェノヴァやトスカーナ、サヴォイア、ウルビーノなどのイタリア都市国家群、それにマルタの戦いでオスマン軍を撃退したマルタ騎士団、もちろんローマ教皇国も含まれており、それらの同盟国全ての艦隊を合計した戦力は兵員2万2千、艦艇は300隻を越える大艦隊でした。(兵力は純粋に戦う兵力のみであり、船を操る乗組員を含めると、実際の人数は3倍程度に膨らみます。オスマン側も同様です。)

彼ら同盟国はイタリアに集結して一大連合艦隊を結成し、一路キプロス奪還のためギリシャ沿岸を目指します。

一方ヨーロッパ連合艦隊来襲の報に接したオスマン帝国も、ほぼ同数の大艦隊と兵員2万6千を動員して迎撃態勢を整えていました。こうして1571年10月、両軍はギリシャ西岸のコリント湾のレパント沖で激突します。「レパントの海戦」の始まりです。


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上がレパントの海戦の舞台となったコリント湾と海戦の様子を描いた絵です。かつてこの沖合いで600隻を越える大艦隊同士の決戦が繰り広げられたのです。そして3枚目の画像は当時の一般的なガレー軍船です。艦橋は布地を張った屋根を設けただけの簡素なものですが、これが標準的なものだった様です。

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このレパントの海戦について詳しくお知りになりたい方は、上の塩野七生さんの本が良書です。ページ数は270ページ余りで、艦隊の細かい編成が詳細に書かれている所は戦史戦力研究の資料として貴重です。

海戦は双方の艦艇の多さから激烈を極めましたが、大型艦艇を多く動員したヨーロッパ連合艦隊が、小型艦が主力のオスマン艦隊を次々に撃破し、海戦はヨーロッパ連合艦隊の大勝利に終わりました。オスマン側は参加艦艇のうち25隻が沈み、実に210隻もの艦艇が包囲されて降伏、残存艦艇は逃走してしまい、戦死5千と2万以上のオスマン兵が捕虜になってしまいます。これに対してヨーロッパ側の損害は戦死こそ7千余りとオスマン軍を上回ったものの、艦艇の喪失はわずか12隻で、それをはるかに越える大量の軍船を敵から奪い取る事に成功しました。(これらの艦艇は、後に勝利したヨーロッパ各国で分配されました。)

この海戦におけるオスマン軍大敗の原因はなんでしょうか? それは先に述べた様にオスマン艦隊がヨーロッパ艦隊に比べて小型艦が多く、大型艦が主力のヨーロッパ艦隊に蹴散らされたのが1つの理由ですが、もう1つ大きな要因があります。それはヨーロッパ軍は船の漕ぎ手に金で雇った自由民を使っていたのに、オスマン軍ではガレー船の漕ぎ手にキリスト教徒を奴隷として酷使していたという点です。彼らはオスマン軍がヨーロッパ軍と互いの船同士に乗り移り、海の上で大乱戦となっている最中にヨーロッパ軍によって手足の鎖を解かれ、自由になると、今度はこれまで奴隷として酷使してきたオスマン軍への復讐とばかりに次々とオスマン兵に襲い掛かったのです。

しかし、この戦いにおけるヨーロッパ連合軍(というよりヴェネツィア)の目的であったキプロス島奪還は果たせず、キプロスはそのままオスマン領になってしまいます。ヴェネツィア政府首脳のがっかりした姿が目に浮かびますね。(笑)

この海戦の勝利は、長くオスマン帝国の脅威に怯えていたヨーロッパの人々を大きく喜ばせました。思い起こせば1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略によってキリスト教国家ビザンツ帝国が滅亡して以来、120年近くに亘って敗退を続けてきたヨーロッパ諸国は、

「オスマン帝国には勝てない。とても敵わない。」

という気弱な固定観念がすっかり定着してしまっていました。しかし、その常識が今回初めて覆されたのです。これはヨーロッパの人々に、オスマン帝国といえども完璧ではなく、弱点もあるのだという事を現実として認識させる最初のターニングポイントとなり、ただただ恐ろしい敵とだけ思っていたオスマン帝国に対して、断固たる決意で協力して立ち向かえば勝つ事も出来るのだと気付かせる記念的大勝利ともなりました。

しかし、いかに大勝利とはいえたった一度の事でその後の歴史が変わるほど、現実はヨーロッパ諸国にすぐには有利に運びませんでした。なぜなら敗れたオスマン帝国もさるものです。帝国は大宰相ソコルル・パシャ主導の下で、海戦の翌年の1572年には海軍の再建に取り掛かり、同年中にもう250隻もの大艦隊を海に浮かべていたからです。

一般的な歴史では、このレパントの海戦の敗北からオスマン帝国の衰退が始まったかの様な考察が行われていますが、実際に帝国が衰退していくのはまだ100年以上先の事であり、その後もヨーロッパはじめ地中海周辺国へのオスマン帝国が及ぼす影響力は強大であり続けました。

最後にもう一つお話しておきましょう。今回のそもそもの発端であるキプロス攻略を命じた張本人の皇帝セリム2世ですが、彼は1574年12月、ワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付け、意識不明のまま10日後に崩御してしまいました。その彼が最後に飲んだのは、他ならぬキプロスのワインだったそうです。

次回に続きます。
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