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堕落するオスマン帝国 ・ 堕ちて行く皇帝たち

みなさんこんにちは。

1571年10月にギリシャ西岸部で行われたヨーロッパ連合艦隊と、オスマン帝国艦隊との大海戦、いわゆる「レパントの海戦」は、ヨーロッパ連合艦隊の大勝利に終わりました。

この海戦のきっかけとなったそもそもの発端は、前回もお話した様に時のオスマン帝国11代皇帝セリム2世の命による、オスマン軍のヴェネツィア領キプロス島への侵攻でしたが、強大なオスマン帝国軍に対して人口の少ない海洋都市国家に過ぎないヴェネツィア共和国では一国でオスマン帝国からキプロス島を奪還出来ない事から、ヴェネツィアは得意の外交戦略によってヨーロッパ諸国に救援を求め、当時最盛期を迎えていたスペインを主力とする一大連合艦隊を結成してオスマン帝国の大艦隊と激戦を繰り広げ、見事な大勝利を収めたのです。

しかし、海戦には勝利したものの、ヴェネツィアが最も期待した本来の目的であるキプロス奪還は果たせず、多数の敵船を拿捕して参加国で分配し、奴隷として酷使されていた多勢のキリスト教徒たちの解放に成功したというだけで、ヴェネツィアにとっては物理的には見返りの少ない、それどころか莫大な臨時戦費と人的損失による大きなマイナスという結果に終わってしまいます。(ただしそれは一時的なもので、この戦いの後にヴェネツィアとオスマン帝国は講和条約を結び、1644年に再び両国が開戦するまで73年間に亘る長期の平和を得る事が出来ました。そしてその間にオスマン帝国との通商を再開したヴェネツィアは大きな利益を上げ続け、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」の繁栄を続けていくのです。)

ただこの海戦の歴史上の意義はそれだけではありませんでした。なぜならオスマン帝国の興隆以来、拡大し続けた彼らに対して幾度と無く敗北と敗退を重ね、防戦一方であったヨーロッパ諸国が、この戦いにおいて「史上初めて」と言えるほどの完膚なきまでの大勝を収めたからです。この海戦の勝利のニュースはたちまち全ヨーロッパに知れ渡り、各国でそれぞれ戦勝を祝う式典が催され、遠くはオスマン帝国の脅威とは距離的にあり得ないはずのイギリスの人々まで狂喜させるほど、ヨーロッパの人々に与えたその心理的効果は絶大なものがありました。

それに対して敗れたオスマン帝国にとっては、この敗北はたしかに不快なものではありましたが、すでにアジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる広大な領域国家に拡大していた帝国にとっては、あくまで局地的な敗北という認識しか持ち合わせていませんでした。

「我らはヒゲを切り落とされたに過ぎない。だがヒゲはすぐにまた伸びてくる。」

これは当時オスマン帝国の大宰相であったソコルル・パシャの発言です。優れた政治家であった彼は一見ユーモアのあるものの言い方をしていますが、「こちらはまたいつでも、いくらでも戦い続ける事が出来るのだぞ。」という意味が強く含まれていますね。


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上はこの頃のオスマン帝国の領域図です。

そんな彼の自信とは裏腹に、当の帝国はそれまでとは違う方向へ向かう大きな転換点の時期にさしかかっていました。それはこれまで当ブログでお話してきた今回のテーマであるオスマン帝国の興亡の歴史において、それまで帝国を主導してきた歴代皇帝たちの質が、この時期を境に急速に堕ちていくのです。そしてそれはオスマン帝国を、それまでの強大な軍事征服国家から、「図体が大きいだけで規律も統制も無い」異質なものへと変貌させていくきっかけとなりました。

まず先に述べたキプロス攻略を命じてヨーロッパ諸国との無用な先端を開いてしまった11代皇帝セリム2世(1524~1574)ですが、彼は前回もお話した様に大酒飲みの遊び好きで、国政を先の大宰相ソコルル・パシャらに任せて遊び惚け、皇帝として何らの業績もほとんど残さず、挙句には酔って風呂で転倒し、頭を打ってそのまま亡くなるといういささかマヌケな最後を迎えた無能な人物でした。

オスマン皇帝家では、帝祖であるオスマン1世以来代々の皇帝たちは程度の差はあれ、それぞれに文武両道に優れた人物が続き、国を拡大させていったのですが、その家系の伝統もセリムの父である10代皇帝スレイマン1世を最後に途絶えてしまい、その息子であるセリム2世の代から、オスマン家では彼に代表される無能で怠惰な君主による帝位継承が繰り返されていく事になります。

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12代皇帝ムラト3世(1546~1595)

セリム2世の子、父セリム2世の死により28歳で即位、父と同じく国政に関心を示さず、ハレムで美女たちとの享楽に溺れ、それによる性病感染により崩御。

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13代皇帝メフメト3世(1566~1603)

ムラト3世の子、29歳で即位、暴飲暴食により38歳で崩御。

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14代皇帝アフメト1世(1590~1617)

メフメト3世の子、父帝が早死にしたため13歳で即位、彼自身は語学に堪能な詩を愛する文化人で、さらに人柄も温厚で周囲にも慕われ、それまで歴代オスマン家では恒例であった帝位継承の際の他の兄弟の処刑を廃し、「黄金の鳥かご」と呼ばれた宮殿内の一画への幽閉(「幽閉」といっても、その一画を出られないというだけで、それ以外の生活は何不自由の無い豪勢なものだった様です。)に留め、後の帝位継承の際の内乱を宮廷内だけに抑える事に成功し、オスマン家では久しぶりの名君誕生かと期待されましたが、残念ながらチフスによって27歳の若さで崩御。

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15代皇帝ムスタファ1世(1592~1639)

14代皇帝アフメト1世の弟、幼少時から精神病を患い、その弟を不憫に思った兄帝アフメト1世によって先の「黄金の鳥かご」が作られました。しかし保護者であったその兄帝の死後一旦は帝位を継承するものの、そもそも社会的生活が出来ない障害者であり、退位と復位を繰り返させられた挙句47歳で崩御。(病的なまでの女性嫌いで当然子孫はなし。)

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16代皇帝オスマン2世(1604~1622)

14代皇帝アフメト1世の子、14歳で即位、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」の改革を試みようとした最初の皇帝でしたが、その若さゆえに支持が得られず、逆にそれを阻止ししようとしたイェニチェリの将校らによって暗殺。

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17代皇帝ムラト4世(1612~1640)

同じくアフメト1世の子でオスマン2世の弟、オスマン家では久しぶりに軍事に秀でた勇敢な人物で、隣国サファヴィー朝ペルシア王国との戦いで自ら陣頭指揮に立つ。しかしその反面残忍な部分もあり、27歳の若さで病死。(彼は酒とタバコとコーヒーを極度に嫌い、特にタバコは彼の在位中3万人もの逮捕者を出したそうです。)

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18代皇帝イブラヒム(1615~1648)

同じくアフメト1世の子、「狂人皇帝」ともあだ名される人物。宮殿内の帝位継承の際の陰謀により兄弟たちが死んでいく様を見て育つうちに精神を病み、即位当初は慈悲深く貧しい人々を助ける事に努めましたが、皇帝に力を持たせたくない宰相らの抵抗で挫折すると、次第に常軌を逸した奇行に走る様になり、ハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行いました。これによって彼は人心を完全に失い、廃位の後暗殺。(彼の名はオスマン家でも忌まわしい人物として記憶され、そのため後に皇帝となる皇子たちに、彼の名「イブラヒム」が名付けられる事は無かったそうです。)

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19代皇帝メフメト4世(1642~1693)

先帝イブラヒムの子、大変な狩猟好きだった以外に特徴がありませんが、彼の在位中に大宰相カラ・ムスタファ・パシャによる15万の大軍を動員した154年ぶりとなる第2回目のウィーン包囲戦が行われています。しかしウィーン防衛軍の頑強な抵抗と救援に駆けつけてきたヨーロッパ各国の連合軍による奇襲で作戦は失敗。その後オスマン帝国に対して攻勢を開始したハプスブルク家のオーストリアに対して敗退を重ね、やがて退位の後幽閉先で崩御。

以上駆け足でセリム2世以後、途中まで歴代皇帝たちの経歴を述べてきましたが、14代皇帝アフメト1世を除いては、凡人や怠惰な人物、性急な改革による失敗者、精神を病んだ無能な君主などが続いた事がお分かりいただけることでしょう。

しかし、オスマン帝国の国家としての運営自体は、この様な皇帝たちが続いてもつつがなく成されていました。なぜなら帝国は、大宰相と有能な官僚たちによる国家行政システムがすでに確立されており、彼らにしてみれば、無能な皇帝でも玉座に座っていてくれれば誰でも良かったのです。

つまり、この時期のオスマン帝国は、それまでの皇帝個人の裁量による専制的な国のあり方から、大宰相らをはじめとする政治官僚たちが国を動かす「官僚国家」へと変貌していった時期でもありました。

また、帝国内で強大な勢力に発展していたある2つの集団が勢力を拡大し、それらが長い時間をかけて徐々に帝国を蝕んでいく存在となっていった事も見逃せないでしょう。

その2つの存在とは、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」軍団と、皇帝の後宮である「ハレム」の女たちです。


Estambul_Dolmabahce_Parada.jpg

上は現在トルコのイスタンブールで観光用に再現されているかつてのイェニチェリ軍団の軍楽隊です。

このイェニチェリは、これまで何度も述べて来た様に、元はキリスト教徒の奴隷少年たちをイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝個人にその命を捧げ、皇帝を警護すると共に、皇帝が直接遠征する場合にはその先頭に立って戦うオスマン帝国軍でも中核となる最強部隊でしたが、先に述べた様に無能な皇帝たちが続き、戦よりも国家の安定を図ろうとする大宰相ら官僚たちの帝国中央政府の政策によって対外戦争が減ると、活躍の場をなくした彼らは次第に自分たちの利益を追求する利己的集団へと変化していきます。

それはイェニチェリが常に皇帝のそばにいる事を良い事に、自分たちに都合の良い皇帝を即位させて帝国を動かし、その皇帝が役立たずか、逆にイェニチェリを抑え込む行為に及べば、直ちにクーデターを起こしてこれを挿げ替え、新帝を擁立してしまうというものでした。

このイェニチェリは常備1万程度であったものが、1600年代前半の最盛期には最大3万7千あまりにまで膨れ上がり、これには皇帝はもちろん大宰相ら帝国政府の官僚たちも、うかつに手を出せない巨大な存在となってしまいます。(「飼い犬に手をかまれる」とはまさにこの事ですね。)

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2つ目の存在であるハレムは、元は皇帝の憩いと肉体的快楽の場として造られたものである事はこれまで述べてきましたが、このハレムは当然ながら帝位継承者を造り出す場所でもありました。とにかく皇帝の子を産めば、やがてその子が皇帝となり、その皇帝の母として宮廷内で絶大な権力を握れるのです。そのためハレムの女たちは熾烈な女の戦いを繰り広げていき、念願叶って皇帝の寵愛を受け、その子を産んでも、その子が確実に帝位を継げる様に、宰相ら政府要人や、イェニチェリの将校らと結託して暗殺、謀殺、毒殺、贈賄など数々の謀略を図っていく様になるのです。

そして、オスマン帝国がこうした内向きの国内問題で徐々に弱体化と内部腐敗が進んでいくうちに、世界の情勢もめまぐるしく変わっていきます。すでに暗黒の中世は終わり、ルネサンスと大航海時代の到来を経て、ヨーロッパ諸国は自ら船団を世界中に送ってその活動範囲を世界中に広げ、もはや世界の中心は西ヨーロッパ諸国に移っていました。そしてそれは、長く世界の中心であり続けてきた地中海が、単なる一地域に成り下がり、その地中海をまたがる形で君臨していたオスマン帝国も、単なる地域大国としての存在でしかなくなってしまう過渡期でもありました。

次回に続きます。
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