縮小するオスマン帝国 ・ 奪い返されていく領土

みなさんこんにちは。

時は西暦1680年代、オスマン帝国の領土と支配地は、その歴史において史上最大のピークに達していました。この時代、帝国の領域は北はオーストリアのウィーンに迫り、ポーランドと国境を接し、西はリビア、チュニジア、アルジェリア、南はエジプトのナイル川中流と紅海の南端エリトリアとイエメン、東はカスピ海からイラクのバグダッドを経てペルシャ湾沿いにまで至り、外から見れば、この時点のオスマン帝国は紛れも無く世界一の超大国でした。

しかし内側から見れば、すでに帝国は衰退の兆しがはっきりと見えるほど腐敗し始めていました。その原因は前回もお話した様に一つではなく、このオスマン帝国という国家の極めてユニークないくつかの要因が重なったものであり、それらの複合的要因が帝国を内側から蝕み、弱体化を促進していく事になっていったのです。


ottoman.jpg

上がオスマン帝国の最大版図です。(帝国の拡大していった様子が年代ごとに色分けしてあるので分かりやすいです。)

このオスマン帝国の弱体化と内部腐敗が進んだ要因は、前回お話したオスマン皇帝の堕落、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」軍団の専横、そして皇帝の後宮である「ハレム」の女性たちの宮廷への影響が挙げられますが、とりわけそれが顕著だったのは、帝国の支配者であるオスマン皇帝家そのものでした。

オスマン帝国が史上最大の領土を支配していたこの時代、帝国は19代皇帝メフメト4世(1642~1693)の治世下にありましたが、彼は趣味の狩猟に熱中するだけで、国政を自らが任じた有能な大宰相たちに任せきりにしていました。しかし、意外にも彼は自らがそうでない代償のゆえか、有能な人物を見極める目だけは持っていた様で、彼に登用された大宰相たちは帝国拡大のために辣腕を発揮し、それが帝国に最大の版図をもたらす事になりました。

この時にメフメト4世が大宰相に起用したのは「キョプリュリュ家」といういささか舌を噛んでしまいそうな変わった名の一族で、父親のメフメト・パシャ、その息子のアフメト・パシャ、さらにその娘婿であるカラ・ムスタファ・パシャと、メフメト4世の在位中に3代40年に亘って彼らキョプリュリュ一族が帝国の軍事と国政を担い、そのためキョプリュリュ家はその後も、さながらわが国の朝廷における藤原摂関家の様に、オスマン帝国の大宰相職を世襲で受け継いでいく名門になります。

さて、キョプリュリュ家の活躍により史上最大の領土を得たオスマン帝国でしたが、先に述べたカラ・ムスタファ・パシャが周囲の反対を押し切って推し進めた15万の大軍による1683年の第2次ウィーン攻略作戦が失敗し、反撃に転じたオーストリア・ハプスブルク家との16年に及ぶバルカン半島での戦争、いわゆる「大トルコ戦争」に敗れ続けてしまいます。皇帝メフメト4世は敗北の責めを問われて1687年に退位、帝位はその後10年余りの間に弟のスレイマン2世、さらにその弟アフメト2世、そしてその甥のムスタファ2世が継承しますが、いずれも4年足らずの短命で、1699年のカルロヴィッツ条約で、ついにオーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを割譲(「割譲」とは、戦争に敗れた結果、領土を「割き譲る」という意味です。)するという屈辱を味わう事態に陥ってしまいます。

オスマン帝国にとって、戦いに敗れる事はまれにあったものの、これほど広範囲の領土を他国に奪われるという経験は、1402年のティムールによるアナトリア侵攻以来実に300年ぶりの事でした。さらにオスマン帝国にとって「新たな敵」が北に現れます。ロシア帝国の出現です。

1280px-RussianEmpire1700.png

Peter_der-Grosse_1838.jpg

上がその新たな敵であるロシア帝国の領域図と当時のロシア皇帝ピョートル1世(1672~1725)です。彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝5代皇帝で、彼の強力かつ優れた指導力によって、それまでヨーロッパの最果ての凍てつく辺境の一国に過ぎなかったロシアは、上の地図で見られる様な広大な領土を有する大国へと成長し、次なる領土的野心を南の黒海周辺に向け始めます。

時は18世紀に入り、国際情勢は急速に変転していました。特にヨーロッパ諸国の台頭は著しく、この様な事態に対し、もはやオスマン帝国は守勢と防戦に徹するのが精一杯の状態でした。この18世紀初頭にオスマン皇帝に即位したのがアフメト3世という人物です。

tumblr_lgr4qhzrEH1qzl88to1_500.jpg

上がオスマン帝国23代皇帝アフメト3世(1673~1730)です。彼は先帝である兄ムスタファ2世の退位によって、皇帝の親衛隊であるイェニチェリ軍団に擁立された人物で、帝国を取り巻く危機的状態を上手く切り抜け、短命皇帝が続いたオスマン家において久しぶりに27年もの長期在位を維持しました。

アフメト3世は即位してからすぐに、ロシア、オーストリアなどのヨーロッパ諸国と戦い続ける事になります。しかし、この戦いはこれまでオスマン帝国が慣れ親しんだ「征服戦争」ではなく、他国の侵入からの純然たる「防衛戦争」でした。この今まで帝国が経験したことの無い状況の中で、彼は未知の苦悩に悩まされる事になります。

アフメト3世が即位する3年前から、ヨーロッパ北方では先に述べたピョートル1世率いるロシアと、彼の生涯のライバルであるカール12世率いる北方の強国スウェーデンが、バルト海の覇権をめぐって激しく争う「大北方戦争」(1700~1721)の最中にありました。当然ロシアはこの戦争の間はスウェーデンとの戦いに傾注せざるを得ないため、黒海周辺のオスマン領に兵を向ける余裕は無く、アフメト3世はそれを良い事に当初中立を宣言し、付かず離れずどちらかといえばスウェーデン寄りに徹します。

karl1700.jpg

上がそのスウェーデン王カール12世(1682~1718)です。彼はスウェーデン第2王朝プファルツ朝3代国王で、若くして軍事的才能を発揮し、「北方のアレクサンドロス」の異名を持つ王様でした。(ご本人にとっては最高の賛辞だった事でしょうね。)

そのスウェーデン王カール12世はロシアとの戦いを有利に進めるため、しきりにオスマン帝国に同盟の打診を促します。理由は単純です。つまり、北はスウェーデン、南はオスマン帝国でロシアを挟み撃ちにしようという事です。また帝国内の主戦派も、スウェーデンと同盟してロシアをけん制すべきだという意見が多かったのですが、(これも理由は簡単です。いくらスウェーデンが強くても、国境を接するロシアと違って距離的にオスマン帝国と戦争になる危険は無いからです。)それでもアフメト3世は中立の姿勢を貫きます。

しかし状況は思わぬ事態から一変します。1709年にウクライナまで侵攻していたカール12世がロシアとの戦いに敗れ、なんとオスマン帝国に亡命してきたのです。カールとそのスウェーデン軍残存部隊はウクライナと接するオスマン領のモルダヴィアに逃げ込み、帝都イスタンブールに招かれたカールは再びアフメト帝に同盟を催促してきます。

entity_5162.jpg

上の水色で示されたポーランド王国と、オスマン帝国との間に挟まれた明るい緑の枠で囲まれた地域がモルダヴィアです。(分かりにくくて申し訳ありません。汗)

さて、この大問題にアフメト3世は悩みました。

「このまま彼をわが国に居させればロシアは必ずわが領土に攻め寄せて来よう。といってスウェーデン王であるカールを国外追放すれば、スウェーデンを敵に回してしまう。いずれはロシアとの戦いは避けられぬのだから、ここは一戦してカールに恩を売っておいた方が先々何かと良かろう。」

カール12世より9歳も年長の彼はしたたかに計算し、それまでの方針を転換してスウェーデンとの同盟を決意します。一方オスマン帝国がスウェーデンと同盟した事を知ったロシアのピョートル1世は、1711年に攻撃の矛先をアフメト3世の予想通りモルダヴィアに向け、8万の軍を南下させます。これに対しオスマン帝国もロシアに宣戦を布告、10万の大軍でこれを迎え撃ちます。「プルート川の戦い」の始まりです。

戦闘は当時今だ精強を誇っていたオスマン帝国軍の精鋭部隊イェニチェリの活躍と、7月という季節に行われたために夏の暑さに不慣れなロシア軍将兵の士気の低下によって、オスマン軍の勝利に終わりました。(損害はオスマン軍約9千に対し、ロシア軍4800だったそうです。)

この戦い以後両国は講和条約を結び、オスマン帝国は「当面の間」ロシアとの戦争を回避する事に成功したのですが、これに不満だったのがスウェーデン王カール12世本人です。彼曰く、「もっと追撃してロシア軍を徹底的に叩くべきだった。」というのです。

カールは自分のスウェーデンへの帰国と本国のスウェーデン軍の建て直しが済むまでオスマン帝国とロシアを戦わせ、なるべくロシアを疲弊させておくつもりでいたのです。そんな彼の思惑を見抜いていたアフメト3世は、「良い様に利用されてなるものか。」といわんばかりに、この高貴ではあるが厄介な「お客人」とのこれ以上の関わりを避け、彼を丁重に宮廷から遠ざけてしまいます。結局カールは1714年に本国に帰国し、その4年後にノルウェーでの戦闘中流れ弾に当たって36歳の若さで戦死してしまいます。

一方ロシア問題を片付けて一息ついたアフメト3世のオスマン帝国は、態勢を立て直すために1714年に領土奪還の動きを見せます。それは先に述べた「大トルコ戦争」の敗北によりオーストリアその他の国と結ばされた1699年のカルロヴィッツ条約で、ヴェネツィアに奪われたギリシャのペロポネソス半島の奪還です。(上に載せた地図のギリシャ西岸の青い部分です。)

ヴェネツィアといえば、オスマン帝国にとっては小国ながらも巧みな外交戦略と強力な海軍力でオスマン帝国を向こうに回し、長く戦ってきた馴染みの宿敵でしたが、このヴェネツィア一国程度ならば、オスマン帝国の大軍で簡単に追い出せるはずであったからです。(理由はヴェネツィアが人口の少ない都市国家であり、終始一貫して陸軍が弱い事を知っていたからです。)

これに対しヴェネツィアも反撃に出ます。彼らはオスマン帝国によるペロポネソス半島再侵攻を受けると、しばらく防戦して時間を稼ぎ、その間に隣国オーストリアに救援を要請したのです。この要請を受けたオーストリアは1716年に再びオスマン帝国に宣戦を布告し、ここに「墺土戦争」(おうとせんそう、つまりオーストリア・トルコ戦争)が開戦します。

この墺土戦争は、オーストリア軍の名将オイゲン公の活躍によってオスマン軍はまたも敗退を重ねてしまいます。結局2年後の1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約で、オスマン帝国はボスニア北部、セルビア北部、ワラキア北部をまたもオーストリアに割譲する屈辱の敗北を喫してしまうのです。(しかし、オスマン帝国も当初の目的であったペロポネソス半島をヴェネツィアから奪い返す事に成功します。これはオーストリア軍がここまで侵攻して来なかったからです。結局この戦争で最も得をしたのはハプスブルク家のオーストリアでした。)

ここに至って、もはや誰の目にもかつて誰もが恐れた無敵のオスマン帝国が衰退期に入った事が明らかとなりました。そしてオスマン帝国の度重なる敗退は、西ヨーロッパ諸国、とりわけスペインに代わって大海洋王国へと急成長していたイギリスや、それに追いつけ追い越せと猛追するフランスにアフリカ、中東への領土的野心を芽生えさせる事になり、その後、オスマン帝国はこれらの敵とも長い戦いを強いられる事になっていくのです。

次回に続きます。

スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR