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チューリップと皇帝 ・ かよわき花が一国を狂わせた

みなさんこんにちは。

18世紀初頭、東と西の大陸にまたがり、イスラム世界の覇者を自認していたオスマン帝国は、長くその脅威に怯えてきたヨーロッパ諸国、とりわけハプスブルク家のオーストリアの反撃と、凍てつく北の大地に興隆した新たな敵であるロマノフ朝ロシア帝国の出現により、軍事的敗退と領土の喪失が相次いでいました。

このオスマン帝国の度重なる敗北は、これらヨーロッパ諸国が剣と甲冑姿に代表されるそれまでの中世騎士道的な軍事編成から脱却し、身軽な軍装と大砲、銃火器を主要装備とする近代的軍隊編成に移行して、軍事力を質的に格段に強化させた事が大きな要因でしたが、一方でいち早くそれらを取り入れ、その集中活用による強大な武力で領土を拡大させていったオスマン帝国の方は、今や同等か、それ以上の軍事力を保有するに至ったこれらヨーロッパ諸国に対して、今後どの様に対応していくかが緊急の課題になっていました。


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上はバルカン地域のイベントなどで再現されているオスマン帝国軍の最精鋭であり、オスマン皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」の兵士たちの一斉射撃の様子です。

この軍事的パワーバランスの逆転は、その後のオスマン帝国の衰退をさらに深刻化させていく事になります。かつてオスマン帝国は、先に述べた様に周辺国がとても太刀打ち出来ない大量の大砲、銃火器をもって軍事遠征を繰り返し、周辺地域を手中に収めてきました。それに対し、それまでのヨーロッパ諸国などは、「軍」といっても王侯貴族の私兵や傭兵がその主力であり、当然軍隊の編成もバラバラで、大砲、銃火器も個別にそれらを持ち寄るという統一性を欠いたものでした。つまり、オスマン帝国の様に組織的に銃火器を集中運用してはいなかったのです。

しかし、今や時代は流れ、ヨーロッパ諸国は力を付け始めていました。これらの国々は幾多の戦いで経験を重ね、軍制を改革して装備も進歩させていったのです。そのため戦闘では必然的に互角の勝負になり、後は兵力の大小、兵の士気、指揮官の作戦指導力、食糧、武器弾薬の補給能力といったソフト面の差が戦闘を大きく左右し、これまで無敵を誇ってきたオスマン軍も敗北を重ねる事が多くなってしまったのです。

この時期に皇帝として君臨していたのはアフメト3世という人物でしたが、彼はこうした事態を踏まえ、軍はもちろん帝国の近代化のために西欧文化を積極的に取り入れていくよう奨励します。


Sultan ahmed III Levni

上がオスマン帝国23代皇帝アフメト3世です。(1673~1736)彼は1703年に即位してから十数年に亘ってロシア、オーストリアと戦い続けましたが、いずれも敗退が相次ぎ、帝国軍の力の限界を悟った彼は、バルカン半島の領土を大きく犠牲にしても両国と講和して共存していく道を選び、以後は平和外交政策に力を注いでいく様になります。

17世紀後半から18世紀初めまで30年近く続いたロシア、オーストリアとの戦争は、オスマン帝国を大きく疲弊させていました。とりわけ国家財政の悪化は著しく、アフメト3世はこの傾いた帝国の財政を早急に立て直す必要がありました。そのためには最も金のかかる戦争は極力避けなければなりません。彼が平和外交政策に転換したのは「お金」のためでもあったのです。


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上はトプカプ宮殿で外国からの使節団を謁見する皇帝アフメト3世です。(三角帽をかぶった西洋人はフランス、オーストリアなどの使節団です。)

アフメト3世は彼と同じ考えを持っていたイブラヒム・パシャを大宰相に起用し、その補佐を受けてヨーロッパ諸国の文化を積極的に取り入れていきます。特に皇帝が熱心だったのは西欧建築の分野でした。そこで皇帝の命を受けた大宰相イブラヒム・パシャはフランスに使節を派遣し、使節が持ち帰った建築資料を基に、それら西欧建築とイスラム様式を融合させた多くの建物が帝都イスタンブールに建設されていきました。


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上はこの時代に造られた「アフメト3世の泉亭」(せんてい)です。オスマン皇帝の居城であるトプカプ宮殿の正門前にある公共の水飲み場で、市民が誰でも自由に利用出来ました。外観は当時ヨーロッパで流行していた「ロココ様式」に、細かい彫刻とアラベスク模様のイスラム様式の装飾が施された見事なものです。

帝都イスタンブールは海の近くに築かれた街であるため、市民の生活に欠かせない飲料水は遠く離れた水源から引いて来るしかありませんでした。そのためこの街では、旧ビザンツ帝国の時代から市内の各所に巨大な貯水槽を設けていたのですが、オスマン帝国の時代になり、人口が増えるにしたがってそれらでは賄いきれなくなっていました。そこでアフメト帝は新たな水路と上の様な泉を各所に増設してこの問題を解決させました。

さらに画期的なのは、アフメト3世の時代にオスマン帝国で初めて「活版印刷」が始まった事です。それまで帝国では、皇帝や宰相らが決済する公的文書はもちろん、普通の書物まですべてアラビア文字による手書きでした。当然その書写には大変な手間と時間がかかり、そのため本は一部の裕福な特権階級の人々のみが所有出来る大変高価な貴重品でした。

しかし、これではもっと多くの一般の民衆に西欧文化や知識の普及を促す事は出来ません。そこでアフメト3世は、イスラム教に関する書物を除くそれ以外の書物の活版印刷を許可し、さらに印刷された書物の保管のために多くの図書館を建設させたのです。これにより大量の書物が帝国の一般の人々にも手に入り、オスマン帝国の人々の知識の普及と西欧化が促進されていく様になりました。

彼は治世の途中から周辺国との戦争を停止したので、軍事支出が大幅に減り、それまで逼迫していた帝国の国家財政は好転して黒字に転換、先の水路や図書館建設などの公共事業による建築ブームで帝国の経済は好景気となり、トプカプ宮殿では連日の様にアフメト3世主催の宴が盛大に催され、華やかな宮廷文化に人々は酔いしれました。


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上は当時のオスマン宮廷の晩餐会の様子です。皇帝を上座に招待された人々が、皇帝から振舞われるあり余るほどの酒と豪華な料理に舌鼓を打っているところです。(みんなムシャムシャおいしそうに食べてる姿が良く表現されていますね。笑)そしてその下が、当時のオスマン朝宮廷料理を再現したものです。この時代はヨーロッパの王侯貴族の宮廷においても銀の食器が多く使われていたので、招待客に配膳する給仕の人たちはきっと一皿一皿が腕にズシリと重たかったでしょうね。

この時、トプカプ宮殿の庭には、皇帝が好んで大量に植えさせていたある「花」が見事な大輪の花を咲かせ、訪れた人々の目を楽しませていました。その花とはみなさんも良くご存知の「チューリップ」です。


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このチューリップは、もともとオスマン帝国興隆の源であるアナトリア地方が原産で、人や動物を描いてはならないというイスラム教の教えによる制約から、その代償としてチューリップのデザインがモスクに多用され、皇帝や宰相以下帝国の支配階級の人々の衣服の模様にも使われるなど、トルコの人々にとっては馴染みの花でした。

やがて16世紀になり、オスマン帝国の勢力がヨーロッパ内陸部にまで達すると、それに付いて行くかの様に、このチューリップの花もヨーロッパに伝わります。(史実では、オーストリアのある外交官がオスマン帝国との和平交渉の際に持ち帰り、その形がトルコ人たちが頭に巻いていた大きなターバン(チュールバン)に似ていた事から、いつしかそれが転じてチューリップの名が付いたそうです。)

このチューリップはその後ヨーロッパ中の花愛好家に広まり、次第にその価値が上がってチューリップの球根が高値で取引きされる様になっていきます。そしてついに1637年、オランダで歴史上初めてという前代未聞の事態を引き起こします。世界最初のバブルといわれる「チューリップ・バブル事件」です。

事の起こりはその3年ほど前の1634年から始まります。当時オランダはスペインからの独立を果たしてネーデルランド共和国として独立、すでに海洋王国として世界の海に乗り出していたイギリスと並ぶ新興海洋国家として繁栄の絶頂期にありました。オランダでは海洋貿易で資産を築いた人々の間でも、富裕のステイタスシンボルとしてチューリップがもてはやされ、それに目を付けた一部の相場師たちが球根を買い占めて値を吊り上げ、素早く他者に転売する事で大儲けし、中には球根1個と豪邸一軒を交換した者までいたほどでした。

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上は大海に乗り出してゆく当時のオランダ艦隊です。

しかし、たかが一輪の花にこんな無茶な取引がいつまでも続くはずがありません。3年後の1637年に、オランダではチューリップの球根の価格が原価の100倍にまで高騰し、ついに買い手がつかなくなってしまいます。誰も買わない(というより高すぎて買えない)のですから、持っていても転売する事が出来ません。ほとんどの人々は借金をしてそれを元手に球根を売り買いしていたため、このままではその借金の返済期限が来てしまいます。

売れなければ当然その借金を返済する事は出来ません。そこで彼らは大慌てで球根を売り払おうと損失覚悟で一斉に安値で大量の売り注文を出し、チューリップの価格は暴落してしまいます。バブル崩壊です。(これは一度でも株式投資で損をされた事がある方ならば、痛いほど良く理解出来るのではないでしょうか? 笑)

この大騒動で3千人以上の人々が債務不履行に陥り、オランダ国内各都市は大混乱に陥ってしまいました。結局この騒動は、オランダ政府の介入によって大半の人々が債務帳消しとなったために終息して行きましたが、この小さなかわいい花が一国の人々を狂わせ、大混乱に陥らせた事は事実です。

このチューリップ・バブルはアフメト3世の時代からおよそ90年も前の事であり、オランダと違ってチューリップの供給国であったオスマン帝国では、この様な事態は起きませんでしたが、皇帝以下当時のオスマン帝国の人々は、つい近年までバルカン半島や黒海で負け戦が続き、領土を奪われた憂さを晴らすかの様に、宮殿の庭一面に咲き乱れるこの可愛らしい魔性の花を眺めながら「この繁栄がいつまでも続いて欲しい。」と願っていた事でしょう。

アフメト3世の治世の最後の10年間は、オスマン帝国が一時的に繁栄を取り戻した中興の時期であり、アフメト3世の時代は彼が愛したチューリップの花にちなんで「チューリップ時代」と呼ばれています。しかし皇帝が願った帝国の繁栄は、チューリップの花が咲き、そして枯れるのと同じくらいに短く儚い夢で終わりつつあったのです。

次回に続きます。
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