スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

苦悩するオスマン帝国 ・ 露土戦争と黒海争奪戦

みなさんこんにちは。

時は1730年、およそ12年余り続いたオスマン帝国の束の間の「チューリップの繁栄」は終わりを迎えようとしていました。当時のオスマン帝国皇帝アフメト3世は西欧文化を積極的に取り入れ、軍事費を削減して度重なる戦争で逼迫していた帝国の財政を一時的に立て直し、浮いたお金を図書館、学校、水路などの公共建築物の建設に費やして帝国内の経済を大いに活性化させたのですが、皇帝のこうした政策が、一部の厳格なイスラム保守層には「浪費」と捉えられ、そうした保守グループによって密かに反乱が企てられていました。

やがて同年、ついに恐れていた事態が発生してしまいます。皇帝の親衛隊であるイェニチェリの元将校パトロナ・ハリルがクーデターを決行、彼に率いられた反乱軍は帝都イスタンブールを占領、皇帝の右腕であった大宰相イブラヒム・パシャを捕えて処刑し、皇帝アフメト3世に退位を迫ったのです。

皇帝は事態の沈静化のために彼に従い、退位してトプカプ宮殿の一画に幽閉されてしまいます。(その後、彼は幽閉されたまま6年後の1736年に亡くなります。)代わって新たな皇帝として反乱グループに擁立されたのは、先帝の甥に当たるマフムト1世という人物でした。


Mahmud_I_by_John_Young.jpg

上がオスマン帝国24代皇帝マフムト1世です。(1696~1754)彼は先帝アフメト3世の兄で、第22代皇帝ムスタファ2世の子であり、本来帝位は彼が継承するのが順当でしたが、父帝が崩御した時にまだわずか7歳の子供であったため、当時ロシアとの戦争が続いていた帝国の現状を考慮し、皇帝の親衛隊であるイェニチェリら帝国軍部は、叔父であるアフメト3世を皇帝に据えたという経緯がありました。

それまでオスマン宮廷でも忘れられた存在で、それを良い事に宮殿内でのんびり暮らしていたのに、思いもよらず帝位の「お鉢」が回って来たマフムト1世は、慌てて帝位を継承すると、当初は彼を擁立した反乱軍の首謀者パトロナ・ハリルらの好きにさせていましたが、実は以外にもしたたかな人物でした。

彼はしばらくの間は反乱グループの言いなりになる「傀儡皇帝」のふりをして油断させ、その裏で密かにかつての「チューリップ時代」を懐かしむ賛同者たちを集め、彼らを重用する事を条件に反乱鎮圧の機会をうかがっていたのです。そして翌1731年にその極秘計画が実行に移されます。彼らのたくらみは見事に成功し、寝込みを襲われたパトロナ・ハリルら反乱首謀者たちは捕えられ、処刑されてしまいます。こうして反乱を鎮圧したマフムト1世は、今度は名実共に完全に帝国の実権を握ったのです。

実権を握ったマフムト帝は、叔父の先帝が推進してきた西欧化と改革を継承し、特に西欧諸国に比べてその遅れが顕著になりつつあった軍事面での改革に取り組み、フランスから有能な将軍クロード・ボンヌヴァルを迎え入れると、彼を教育総監としてフランス式軍事教練を取り入れました。

その矢先の1735年、早くも戦雲が帝国に迫って来ます。オスマン帝国とロシア・オーストリアとの間で、再び戦争が勃発したのです。この戦争は1739年まで4年間続きましたが、オスマン軍は先の西欧式軍事改革が功を奏してかロシア・オーストリア軍を撃退し、オーストリアに対しては逆に奪われたベオグラードを奪還するなどの成功を収めました。

これ以後、彼は戦争を控え、ひたすら国力の回復に努めるのですが、帝国の現状は深刻なまでに悪化していました。皇帝の親衛隊であるイェニチェリの腐敗は進み、(具体的には、金欲しさに戦死したイェニチェリの兵士を生存扱いにして、その「幽霊兵士」の給料を着服するなど。)さらに度重なるクーデターの度に中央政府の統制が緩んだ隙に、地方の有力者たちが、自立した独自の支配権を確立していくなど、帝国の弱体化が進んでいきました。

皇帝マフムト1世は、こうした帝国の現状を憂いつつ1754年に心臓発作で崩御。帝位は弟のオスマン3世が継承しますが、その彼もわずか3年で亡くなり、オスマン帝国は漂流し続けていきます。

一方そんなオスマン帝国を尻目に勢力拡大を続ける北の大国がありました。ロマノフ朝ロシア帝国です。当時ロシアは長くオスマン帝国の支配下にあった黒海への野心をあらわにし、幾度となく戦いを仕掛けてオスマン帝国を悩ませていました。そしてこの時期に、そのロシア帝国の支配者であったのが女帝エカテリーナ2世です。


972bb2a149det.jpg

上がそのエカテリーナ2世です。(1729~1796)彼女はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝8代皇帝で、元は7代皇帝ピョートル3世の皇妃でしたが、その彼の頼りなさに愛想を尽かし、夫を廃位して自ら皇帝となった男勝りの女性です。

エカテリーナ2世率いるロシア帝国は、それまでにウクライナを支配下に置き、冬にも凍らない港、いわゆる「不凍港」を求めて黒海に南下する「南下政策」を進めたという話は、歴史好きの方であればよく知られた話でもあると思います。しかし、そのためにそれまで黒海の支配者であったオスマン帝国との間で、1568年の最初の両国の開戦から、1918年の第一次大戦終結までの350年間に、なんと通算12回も戦争をしている事はあまり知られていません。

この宿敵ロシアとの戦いは、先に述べた様に黒海周辺で行われ、オスマン帝国歴代皇帝たちを大変悩ませました。なぜならその歴史は、オスマン帝国にとって敗退の連続と、少しずつロシアに領土を奪われていく屈辱の歴史であったからです。

その因縁深いロシアとオスマン・トルコとの間で1768年、再び戦争が勃発します。第6次露土戦争と呼ばれるものです。事の起こりはロシアから追われたポーランド人たちがオスマン領内に逃げ込み、それを追ってロシア軍の追跡隊が無断でオスマン領に攻め込んだ事がきっかけでした。

しかし、この戦争でロシアのエカテリーナ2世が差し向けた軍勢は最大2万程度と、これまでの数ある戦いの中ではさほどの大軍でもないのに、その3倍以上の兵力を動員したオスマン軍はまたしても敗れてしまいます。戦争は膠着したまま6年が過ぎますが、1774年にわずか8千のロシア軍が、4万を越えるオスマン軍を撃破すると、それ以上のロシアの南下を押しとどめるため、時の26代オスマン皇帝ムスタファ3世はロシアとの講和条約を調印せざるを得なくなってしまいました。


Treaty_of_Küçük_Kaynarca_svg

上がその時の条約でオスマン帝国がロシアに割譲した地域です。(赤と緑のストライプの地域)さらにこの敗北で、オスマン帝国は長くその属国としていたクリミア・ハン国(緑と黄色のストライプの地域)の支配権を放棄させられ、事実上クリミア地域を失ってしまいます。一方ロシアは念願の黒海進出を果たし、「黒海艦隊」の新設と、オスマン帝国の帝都イスタンブールの眼下に広がるボスポラス海峡の通行権を得て、その先の地中海進出を目論むほどの見返りを手にする事に成功します。

これに味を占めたロシアのエカテリーナ女帝は、この地域におけるロシアの支配をさらに強めるため、彼女の愛人であったグリゴリー・ポチョムキンを黒海沿岸の総督に任命し、ポチョムキンは女帝の許可を得て、1775年にクリミアに軍を差し向け、これを力ずくで併合してしまいます。


800px-Sevastopol004.jpg

o0800050812868966264.jpg

上がクリミアのセヴァストポリの現在の様子とその位置です。(人口36万)現在2014年時点において、この地域はロシアとウクライナでその帰属を巡って激しい応酬(というより戦闘)が繰り広げられているのは、海外ニュースでみなさんも良くご存知と思います。

Princepotemkin.jpg

そして上がロシア帝国黒海方面軍司令官にしてクリミア総督のグリゴリー・ポチョムキン公爵です。(1739~1791)彼は先に述べた様に、女帝エカテリーナ2世と公然と愛人関係にあった人物で、女帝の寵愛を後ろ盾にとんとん拍子に出世していきます。彼の主導により、クリミアを含む黒海沿岸の地域のロシア化が進められ、黒海沿岸の豊かな産物とウクライナ穀倉地帯の膨大な小麦が、ロシア帝国の大きな財源となるのです。

余談ですが、現ロシア連邦のプーチン大統領のクリミア併合宣言も、狙いはこれらの豊かな資源の獲得が大きな目的でしょう。ロシアという国は、国民に日々の糧をもたらす産業といえば、農林漁業と鉱業すなわち原油・天然ガスの採掘といった一次産業が圧倒的に多く、また近年アメリカで大々的に商業生産が開始された「シェールオイル」が市場に出回りだしたために、これまでロシアにとって最大の稼ぎ頭だった原油が売れなくなり、それはすぐにロシア国民に「失業」という形で痛い影響を与えるからです。失業者が増えれば国民の不満は当然指導者であるプーチン大統領に向けられ、次の大統領選で彼は落選してしまうでしょう。プーチン大統領としては、ロシア国民を食べさせて自らの政権を維持していくためにどんな手段を使ってもこのクリミア周辺地域を手に入れ、黒海周辺の豊かな産物と、それらを得るための労働力として国内の失業者をこの地域に振り向けたかったのでしょうが、どうもそのやり方は、まるでかつての満州事変におけるわが関東軍の様ですね。

putin20is20james20bond20ajajjaa.jpg

f28ef019.jpg

プーチン大統領は柔道の有段者(なんでも8段とか。彼が実演した柔道の動画があるほどです。)で、大変な親日家である事から、日ロ両国の戦後70年来の懸案である「北方領土問題」の進展がわが国にとって最大の関心事ですね。上の写真はプーチン大統領と安倍首相です。秋田県の佐竹知事から東日本大震災の支援のお礼として、犬好きのプーチン大統領に贈られた秋田犬のメス犬「ゆめ」が安倍首相を出迎えています。日ロ両国の関係は彼女にかかっているのでしょうか?(笑)

さて、このロシアの勝手な黒海政策に対し、怒ったのは元の支配者である我らがオスマン帝国です。先の講和条約で、オスマン帝国はクリミアの支配権を放棄したものの、ロシアにクリミアをくれてやるとは一言も書いていないからです。

「これは明らかに講和条約違反だ!」

オスマン帝国内部ではロシアに対する強硬派が激怒し、時の27代皇帝アブデュルハミト1世は1787年、彼ら強硬派に押される形でロシアに対し宣戦を布告します。第7次露土戦争の開戦です。

この戦争において両国が動員した兵力は双方それぞれ10万程度とほぼ拮抗していましたが、残念ながらオスマン軍はせっかく西欧式の訓練を受けた兵士たちが奮闘しても、上層部の将軍たちの無能かつ無謀な作戦指導により、またもロシア軍に敗れてしまいました。

4年後の1791年12月末、ブルガリアのヤッシーにおいて、ロシア・トルコ両国の間で講和条約が結ばれ、オスマン帝国はクリミアのロシア併合を認めさせられ、さらに新たな領土をロシアに奪われてしまいます。(ヤッシー条約)

この2度の露土戦争は、それまで拮抗していたロシア帝国とオスマン帝国の力関係を大きく逆転させる事になりました。ロシアは一連の勝利で得た黒海沿岸の新領土から得られる多くの農産物によって、国内の食糧自給を十分に満たし、それでもあり余るこれらの農産物を西ヨーロッパ諸国に輸出して莫大な外貨を獲得する事が出来るようになり、ロマノフ王朝は世界屈指の財力を持つ王家へと急成長を遂げて行きます。黒海沿岸にはこれらの農産物を積み出すための港湾都市が次々に建設され、帝国を支えていく様になります。

それに引き換え敗れたオスマン帝国の凋落振りは目を覆うものがありました。一連の敗北でオスマン帝国は黒海の制海権を完全に失い、事実上黒海そのものをロシアに奪われたも同然だったからです。

このロシアとオスマン帝国の因縁の対決はその後も120年以上続き、両国の黒海争奪戦はさらに5回も行われるのですが、結果はその多くがオスマン帝国の敗北に終わっています。もはやヨーロッパ列強諸国は、かつてあれほど恐れたオスマン帝国に対して微塵の脅威も抱かなくなっていました。そしてその事実は、フランスからやってきたある一人の「英雄」の登場によって、リアルに現実のものとなってオスマン帝国を脅かしていく様になるのです。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。