ナイルの海戦 ・ ナポレオンのエジプト遠征

みなさんこんにちは。


18世紀末、世紀を通して行われたロシアとの黒海を巡る戦争は、オスマン帝国を大きく疲弊させていました。度重なる敗北で、トルコは黒海周辺の領土とそこから上がる豊かな資源をロシアに奪い取られ、かつて最強を誇ったその軍事力は、ヨーロッパ列強諸国にとってもはや恐るるに足りない時代遅れのものとなりつつあったのです。

この様な状況の最中の1789年、はるか西のフランスで全ヨーロッパを震撼させる大事件が起こります。「フランス革命」の勃発です。貧しい国民を無視し、国家財政の悪化にもかかわらず贅沢三昧に暮らす国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを頂点とするブルボン王朝に対し、フランス民衆が一斉蜂起した事件です。(といわれていますが、実際にはフランスの国家財政を悪化させたのは先代、先々代の王であるルイ14世とルイ15世で、ルイ16世は彼らの膨大な負債を相続したにすぎず、彼はこの国家財政の建て直しのために、革命の起こる6年以上前から様々な改革を行おうとしていましたが、長く王家を支え、さらに絢爛豪華で贅沢な暮らしに慣れてしまった保守派貴族の抵抗に遭って実現出来なかった様です。)


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上がフランス国王ルイ16世です。(1754~1793)彼はフランス第5王朝であるブルボン朝5代国王です。肖像画では老けて見えますが、実際は処刑された時にまだ39歳の若さでした。

4年後の1793年、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは民衆の目前でギロチンによって処刑されますが、その知らせはヨーロッパ中の王候君主たちを恐怖に陥れました。

「このままフランスを野放しにしておけば、わが民衆にもそれが及んで我らもルイ16世の様に処刑されてしまうかも知れない。」

恐怖に駆られた王候たちは、フランス革命政府を叩き潰すために同盟して一斉にフランスに戦争を仕掛け、フランスは窮地に陥ります。その最中、フランスに「救国の英雄」となる一人の若い将軍が現れ、これらの敵を次々に撃破してフランスの危機を救います。それはみなさんもご存知のナポレオン・ボナパルトです。


Napoléon20Bonaparte20Consul-françois20Gérard©RMN_0

上が若き日のナポレオンです。(1769~1821)彼はフランス革命勃発当時まだ20歳の青年士官でしたが、その後武勲を重ねて昇進し、1795年には若干26歳の若さで将軍となり、フランス国内軍司令官、イタリア派遣軍司令官などを歴任して、フランスに侵攻しようとするオーストリア、プロイセン、スペインなどの列強諸国に対し連戦連勝を重ね、フランス国民から熱狂的な支持を得ます。

しかし、無敵を誇る若き将軍ナポレオンが、どうしても勝てない強力な敵が海の向こうにひかえていました。それはイギリスです。強力な海軍を擁するイギリスは地中海の制海権を握っており、陸軍出身であるナポレオンは専門外の分野である海戦で、なかなかイギリスに打ち勝つ事が出来なかったのです。

そこで彼はイギリスに打撃を与えるため、独特の奇抜な作戦を当時のフランス総裁政府に進言し、これを認められます。その奇抜な作戦とは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとイギリス本国との連携を遮断するため、なんとオスマン帝国の領土であるエジプトを攻略占領してしまおうというものです。

当時イギリスは、インドから得た豊かな産物を最短ルートである紅海経由で、エジプトのカイロやアレクサンドリアに集め、ここから海路イギリス本国へ運んでいました。もちろんエジプトの支配者であるオスマン帝国には、イギリスから関税や入港税、港湾使用料などの莫大な金が得られるので、オスマン側にとってイギリスは「良いお客さん」であり、利害の一致した両国の関係は極めて良好なものでした。

ナポレオンの作戦は、エジプトを占領する事でイギリスとオスマン帝国との間に楔を打ち込み、その連携を遮断するとともに、イギリスのインド植民地政策を大きく妨害してイギリス経済に大打撃を与えるのが目的でした。(実際にはフランスにエジプトを取られても、イギリスはアフリカ周りでインドとの通商は可能ですが、アフリカ大陸を大きく迂回する最も遠回りのルートになってしまい、それによる時間とコストの差を考えれば、イギリスにとってエジプトの重要性は計り知れないものでした。)

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上はラクダにまたがって進軍するナポレオン軍です。

1798年7月、ナポレオンは5万のフランス軍を率いてエジプト攻略作戦を開始し、これを200隻もの輸送船に乗せてアレクサンドリアに上陸します。一方オスマン帝国でも、フランス軍のエジプト侵攻の知らせは帝都イスタンブールに届いていました。この時のオスマン帝国の皇帝はセリム3世という人物でしたが、帝国は1792年の第7次露土戦争でロシアに敗れてからまだ6年足らずであり、財政と軍の建て直しの最中で、すぐにはこれを迎撃出来る状況にはありませんでした。


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上がオスマン帝国28代皇帝セリム3世です。(1761~1808)彼は度重なるロシアとの戦争で疲弊した国力を立て直すために帝国の近代化を促進し、最も厄介な相手である皇帝の親衛隊イェニチェリの廃止と、西洋式に統一された全く新しい帝国軍を創設しようとしますが、それが明るみになると自分たちの既得権益の消滅を恐れたイェニチェリによって廃位され、後に暗殺されてしまいます。

このナポレオンのエジプト侵攻作戦は、オスマン帝国にとってまさに突然の「奇襲攻撃」でした。そのため迎え撃つにも軍の動員がとても間に合いません。そこでセリム3世は帝国政府と図り、軍の動員が完了するまでエジプト在地のマムルークたちに迎撃命令を下して時間を稼ごうとします。

このマムルークというのは、イスラムの奴隷出身の軍人の事であり、かつてエジプトを支配していましたが、この時代から280年も前の1517年に、オスマン帝国によってその王朝が滅ぼされていました。


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上がマムルークの騎兵です。

しかし、王朝が滅びても、マムルークそのものも消滅したわけではありませんでした。1517年のマムルーク朝エジプト王国滅亡の際に最後の王と運命を共にしたのは、ごく少数の忠実な者たちだけであり、大半のマムルークたちは、王朝崩壊が近いと見るや早々にオスマン帝国に寝返り、やがてエジプトが完全にトルコの手に落ちると、当地の状況をよく知る彼らはオスマン帝国の地方総督や代官として召し抱えられて統治に参加し、したたかに生き延びていたのです。

実は、オスマン帝国は帝都イスタンブールの中央政府の直接統治下にあったのは、現トルコ本国のあるアナトリア地方がせいぜいで、それ以外の広大な領土の大半は、この様に征服した国の有力者たちを帝国の臣下として取り込み、彼らを通して間接的に支配する「間接統治」の方式を取っていました。

ここエジプトにおいても、オスマン帝国は全土を24の地方に分け、それぞれに任命したマムルークに統治させていました。それらマムルークたちはオスマン帝国の「官吏」としてエジプトの支配階級を形成して富を蓄え、次第に帝国が衰退していくに連れて、蓄えた財力を背景にそれぞれ独自の「私兵」を持つ様になり、18世紀前半にはエジプト中にそんなマムルーク領主が乱立して抗争を繰り広げる様になっていました。やがてそんなマムルーク領主の中でさらに大きな力を持つ者が「ベイ」(候)の称号を得て(というより勝手に名乗って。)エジプトの事実上の実権を握ります。それがムラード・ベイという人物です。


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上がそのムラード・ベイです。(1750~1801)彼は当時のエジプトのマムルーク領主の中でも最大の勢力を持っていましたが、なんと読み書きは全く出来なかったそうです。

ナポレオン率いるフランス軍がアレクサンドリアに上陸した知らせを受けた彼は、配下の軍勢2万余を率いて出陣します。しかし、彼の軍勢はその大半が昔ながらの騎兵6千と、剣と弓矢の歩兵1万5千が主力で、銃火器はごくわずかしかありませんでした。一方フランス軍はアレクサンドリアの守備に3万を残してカイロに進軍を開始、兵力はムラード軍とほぼ同数の2万でしたが、当時最新の装備を備えた近代的な軍隊であり、さらにその指揮官はあのナポレオンです。最初から勝負は見えていました。

1798年7月、両軍はカイロ郊外ギザの3大ピラミッドのすぐ近くで戦闘を開始します。ピラミッドのすぐ近くで行われたため「ピラミッドの戦い」と呼ばれるものです。


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上がピラミッドの戦いの様子を描いた絵と、当時のフランス軍の軍装です。

ムラード・ベイ率いるマムルーク軍はときの声を上げて一斉にフランス軍陣地目掛けて突撃していきます。しかし、その勢いは最初だけでした。待ち構えるフランス軍の大砲と無数の小銃の一斉射撃を浴びて、ムラード軍はひとたまりもなく壊滅、全軍の8割以上の損害を出して、ムラード・ベイはわずかな兵とともに命からがらエジプト南部へと敗走してしまいました。それに対し、フランス軍の損害は戦死30名に負傷260名というわずかなものでした。ナポレオンの大勝利です。

この勝利で勢いに乗ったフランス軍はカイロに入城、これを占領します。

「わが兵士諸君。4千年の歴史が諸君を見下ろしている。」

ナポレオンはピラミッドを見上げながらこう言って兵士たちを激励し、フランス軍将兵の士気は大いに盛り上がりました。(実際に彼がこう言ったのかは定かではありませんが、長く語り継がれているナポレオンの名セリフの一つです。)

しかし、この大勝利も束の間、彼らの喜びはナポレオンが最も恐れる強力な敵によって、いとも簡単に粉砕されてしまいます。この勝利からわずか10日後に、エジプト奪還の命を受けた名将ネルソン提督率いるイギリス艦隊14隻が、アレクサンドリア近郊のアブキール湾に停泊中のフランスのエジプト派遣艦隊17隻と海戦、1隻の損害も出さずにフランス艦隊を壊滅させて大勝利を得たのです。これを「アブキール湾の戦い」または「ナイルの海戦」と呼びます。


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上が「アブキール湾の戦い」の様子とイギリス海軍の名将ホレイショ・ネルソン提督です。(1758~1805)彼はナポレオンを最も悩ませた「ライバル」として有名ですね。

この海戦でフランスは戦艦4隻を失い、9隻をイギリスに鹵獲され、残存艦艇は上陸しているナポレオンの陸軍部隊を残してフランス本国に逃走してしまうという大敗を喫してしまいます。この時遠征軍を乗せてきた輸送船団は大半が本国に戻っており、護衛艦隊は全滅、つまり、ナポレオン軍はエジプトに置き去りにされてしまったのです。(ナポレオンの激怒する顔が目に浮かびますね。)

そこにやっとオスマン帝国の正規軍の動員が終了します。オスマン軍はエジプト奪還のためにシリアへと南下、これを阻止しようとするフランス軍と一進一退の激しい戦闘になります。そうこうしている内にフランス本国では緊急事態が発生していました。1799年、ナポレオンが留守の間にオーストリア軍が北イタリアに侵攻、フランス軍を撃破して国境に迫る勢いを見せていたのです。この事態にフランス本国の総裁政府は全く無力でした。ナポレオンは大いに焦ります。もはやエジプトどころではありません。

ナポレオンの決断はとても早いものでした。彼は知らせを受けるとなんとエジプト遠征軍をそのままにして、わずかな側近と共に直ちにフランス本国に帰国してしまうのです。その後彼は素早く反撃してオーストリア軍を撃退し、国民から歓呼の声で迎えられて自らを統領とする統領政府を興し、事実上フランスの全権を握り、やがて皇帝へと登り詰めていきますが、不幸なのはエジプトに残されたフランス遠征軍です。彼らは補給を絶たれ、灼熱の砂漠で疫病に悩まされながら、それでもオスマン軍やイギリス軍との苦しい消耗戦を2年間に亘って繰り広げました。

しかし、その彼らもついに武器弾薬が底を突き、1801年にフランス軍残存部隊1万5千はオスマン帝国とイギリス軍に降伏、足かけ3年続いたエジプト戦役は終結します。この戦いで、オスマン帝国は独力ではありませんでしたが、イギリスなどと協力してナポレオンという強大な敵をなんとか撃退する事に成功したのです。

結局ナポレオンのエジプト遠征は敵味方双方に大きな犠牲を出しただけで、戦略的には完全な失敗でした。しかし、考古学と文化の面で世界に大きな業績を残した事は、歴史好きな方であれば良く知られていますね。ナポレオンは遠征の際、160名以上の科学者や技術者からなる当時としては最大の学術調査団を同行させ、エジプトの地勢や物産の調査の他、古代遺跡の調査に当たらせています。このフランス調査団はこれらを詳細に調査し、その後のエジプト考古学研究を大きく進展させる数々の貴重な遺物を発見していきます。そしてその中で世紀の発見といわれる最大のものが、「ロゼッタ・ストーン」です。


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上がその「ロゼッタ・ストーン」の実物で、現在ロンドンの大英博物館に展示されています。大きさは縦114センチ、横72センチ、厚さ28センチ、重さ760キロもある花崗岩の一種の石柱の一部で、上から順に古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)で書かれた碑文、さらにそれを文書体にしたデモティック、そしてそれを訳したものが3段目のギリシア文字で刻まれています。

この石は、その名の通りエジプトの港湾都市ロゼッタで当時のフランス軍の一大尉が発見し、(彼の指揮下の兵士が、「洗たく板」にちょうど良いと駐屯地に持って帰るために引きずっていたところを、その大尉が取り上げたという話も伝わっていますが、定かではありません。笑)明らかに違う3種類の文字が刻まれたその石版の重要性に気付いた彼は調査団にこれを委ねます。

当時ヒエログリフは全く解読不能の謎の文字であったため、この発見は直ちにヨーロッパ全土の考古学者たちの胸を躍らせました。その後フランス軍の降伏によってロゼッタ・ストーンの実物自体はイギリス軍に接収され、大英博物館に収められますが、書かれていた碑文は写し取ったものが広くヨーロッパ中の学者たちに出回り、その中の一人フランスの言語学者にして考古学者のジャン・シャンポリオンによって、1822年についに謎の文字ヒエログリフが解読されます。


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上がそのジャン・シャンポリオンです。(1790~1832)彼は語学の天才で、20歳になるまでになんと11ヶ国語を習得していたそうです。ヒエログリフを解読したのは31歳の時で、長命ならもっと多くの業績を残したでしょうが、残念ながら彼は短命で、41歳の若さでコレラで亡くなります。

このナポレオンのエジプト遠征は、先に述べた様に惨憺たる失敗に終わりましたが、ヨーロッパがあれほど恐れたオスマン帝国の領土であるエジプトに、そのヨーロッパの一国フランスが遠征したという事自体が、当時すでに西欧諸国にとってオスマン帝国の存在が、かつての畏怖すべき大帝国から、辺境の遅れた一国という程度のものになってしまった事を如実に表す事件でした。その後、ナポレオン亡き後もフランスはイギリスと競ってアフリカにおけるオスマン帝国の領土に遠征し、次々にこれを奪い取っていきます。

しかし、オスマン帝国にはもはやこれを防ぐ力はありませんでした。そしてこれを機に、帝国は周辺国の侵食と国内の独立派の台頭がますます進み、さながら海辺の砂浜の上に築いた山が、波に洗われて崩れていく様に、少しづつ縮小から崩壊への長く緩慢な道を歩む事になっていくのです。

次回に続きます。
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