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ギリシャ独立戦争 ・ ビザンツ帝国復活の夢

みなさんこんにちは。


19世紀初頭、「英雄」ナポレオンのエジプト侵攻をなんとか撃退した(というよりイギリスに撃退してもらった)オスマン帝国でしたが、かねてから当ブログで述べて来た様に、もはや帝国の凋落ぶりは目を覆うものがありました。そして、そのナポレオンが「フランス皇帝」となって自らの王朝を開き、スペイン、ポルトガル、オランダ、イタリア半島を支配下に収め、ドイツ神聖ローマ帝国を崩壊させ、プロイセン、オーストリア、ローマ教皇庁をも屈服せしめ、果てはロシアにまで大遠征を行うなど、全ヨーロッパを縦横無尽に暴れ回っていたその時期、オスマン帝国はその激動の歴史の流れから取り残されたかの様に、相変わらず国内において帝国を長く蝕んできたある「怪物」の存在によって、改革と近代化が遅々として進まずにもがいていました。

オスマン帝国を長く蝕んできたその「怪物」とは一体何でしょうか? それは帝国の頂点に君臨する皇帝の傍にあって、その皇帝を護る「親衛隊」であり、「近衛師団」ともいうべき存在であったイェニチェリです。彼らはこれまで述べてきた様に、元はキリスト教徒の少年奴隷たちをイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝に生涯絶対忠誠を誓う皇帝直属の精鋭部隊として、帝国の拡大発展に大きく寄与した帝国軍の中核でしたが、この時代より200年前の16世紀に、帝国の領土的拡大が限界点に達し、それ以上の軍事的拡大が不可能になるとその役割を失い、戦いのない平和な時代が続くと、すでに総勢3万を越えるまでに肥大化していた彼らは、今度はその武力を背景に自分たちの利益追求のみを欲する巨大集団と化してオスマン帝国を動かす様になっていったのです。

歴代の皇帝はこのイェニチェリが擁立したあまり才の無い人物が即位し、当然それらの皇帝たちはイェニチェリの支持がなければ宮廷を維持する事が出来ず、そうしたイェニチェリを抑えて改革しようとする有能な皇帝が出て来ると、イェニチェリは自分たちの存在と既得権益を守るために直ちにクーデターを起こし、自分たちに都合の良い新帝を擁立して先帝を廃位、その多くを密かに暗殺してしまうという悪循環が200年以上も続いていたのです。

しかし、時は19世紀に入り、オスマン帝国を取り囲む内外の情勢は危機的状態にありました。帝国は台頭著しいヨーロッパ諸国との戦争で、すでに100年前の18世紀から敗退が相次ぎ、次々と周辺国に領土を奪われていきます。そしてついには今回のナポレオンの様に、帝国領域のど真ん中ともいうべきエジプトにまで他国の侵攻を許してしまうまでに帝国が弱体化してしまったのです。この衝撃的事実が帝国に及ぼした心理的影響は甚大で、皇帝以下末端の市民に至るまで、早急な抜本的改革を切望する様になっていました。


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この時期にオスマン帝国の皇帝になったのが、上に載せた第30代皇帝マフムト2世です。(1785~1839)彼自身もイェニチェリによって1808年に擁立された皇帝でしたが、帝国にとって幸いな事に、彼はこの巨大な怪物イェニチェリを「退治」する事に成功し、それに代わる最初の西洋式近代化軍隊の創設と、数々の改革を成功させた名君としてその名を刻む事になります。

マフムト2世が即位した時期、ヨーロッパはナポレオンがその権力の絶頂期にありましたが、その彼がロシア遠征の失敗によるつまづきから失脚すると、戦後のヨーロッパ世界の再構築を話し合うウィーン会議に使節を派遣し、帝国領土の現状維持を西欧諸国に認めさせる事に成功します。ナポレオンによる長い戦争によって、ヨーロッパ諸国が疲弊していた事実を見越していたマフムト2世は、当分彼らが帝国領土に手を出す事は無いと判断し、10年以上の時間をかけてイェニチェリとは別の西洋式軍隊を創設、イェニチェリの反発を買わないよう彼らに高い報酬を与えてうまく手なずけつつ巧妙に根回しをして、徐々にその規模を拡大させていきます。そして1826年にいよいよかねてから密かに計画していた極秘作戦を実行に移しました。

彼は同年6月、突如としてイェニチェリの廃止を宣言し、自らが創り上げていた新軍を動員してイェニチェリを挑発します。これに対し、当然イェニチェリは存亡をかけて反乱を起こします。しかし、彼らの手の内を良く研究していた皇帝にとってこれは予定通りのシナリオでした。皇帝軍は最新の大砲と銃火器の完全装備で旧式のイェニチェリ軍を圧倒、反乱はたった1日で鎮圧され、反乱軍は徹底的に逮捕、投獄、処刑されました。こうしてオスマン帝国建国以来、500年に亘って帝国を支え、さらに200年以上もの間影の支配者として君臨してきた皇帝親衛隊イェニチェリは、皇帝自身によって粛清され、消滅したのです。

イェニチェリの粛清に成功したマフムト2世は、早くも反乱鎮圧の翌日に自らの新軍を「ムハンマド常勝軍」と命名し、これを中核とする一元的に統一された新たな帝国軍を創設しました。以後オスマン軍は、軍服をはじめそれまでの古いイスラム様式のスタイルから、ヨーロッパの軍隊に引けを取らない同じスタイルで構成されていきます。(この時点では、まだ国民に兵役を課した徴兵制ではありませんでしたが、それでも軍制改革としては大きな前進でした。)


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上がマフムト2世の創設したオスマン帝国初の西洋式軍隊である「ムハンマド常勝軍」です。(近代的軍隊らしくなってきましたね。)

マフムト2世の改革は軍隊だけではありませんでした。イェニチェリの粛清によって誰にも脅かされる事なく改革に専念出来るようになった皇帝は、帝国政府のあり方も大きく見直します。それまで大宰相全てに国政のほとんどを任せていた点を改め、外交を司る外務大臣、警察と治安維持を担当する内務大臣、財政と法律をそれぞれ専門とする財務、司法大臣などの大臣職を置き、大宰相の職名も「首相」に変更、帝国政府はこれらの閣僚の閣議によって国政を遂行し、「首相」はそれらを取りまとめる議長職的な役割に権限を縮小され、いわゆる西欧式近代内閣制度に近い新たなスタイルに生まれ変わります。

また帝国の次世代を担う若者たちのため学校教育の近代化も推し進められました。医学校、士官学校、音楽学校、法律学校などが次々に創設され、入学した若者たちのうちで優秀な者は西欧諸国に留学生として派遣し、オスマン帝国の未来のエリート官僚として養成されて行く事になったのです。(まさにわが日本の明治維新後の近代化を見ている様ですね。トルコはわが国よりも50年も早くこれらに着手していた偉大なる大先輩なのです。)

マフムト2世の時代に帝国に取り入れられた画期的なものがもう一つあります。それは「洋服」の普及です。人は他者のそれを真似る時、大抵は手っ取り早く「形」から入っていくものです。それまでオスマン帝国では、皇帝以下国民の末端に至るまで伝統的なトルコ風の服装が一般的でした。しかし皇帝は「目に見えた形」で人々にあまねく改革を意識させるため、上の肖像の様に歴代皇帝として初めて自ら西洋式の軍服を身に付け、人々に洋装化を奨励していきました。(マフムト2世はわが国に例えれば、まさに明治天皇と同じ存在であったといえるでしょう。わが明治帝もいち早くまげをご断髪あそばされ、古い朝廷の束帯姿から、サーベルを提げた西洋の大礼軍装をお召しになったそのりりしい若き日のお姿を写真に残されています。)

こうしてオスマン帝国の国内における近代化は大きく前進していったのですが、同時にそれは帝国内部において、長くトルコ民族の支配化に甘んじてきた多くの民族に自主独立を促す起爆剤となっていきました。

その最初の火花が散ったのはなんと帝都イスタンブールのすぐ近くのギリシャでした。これもそもそもの起こりはフランス革命による旧体制の打破と、その後のナポレオンの遠征によってその思想が真っ先にギリシャに流れ込んだ事が発端です。1797年イタリア半島に侵攻したナポレオンは、千年続いたオスマン帝国の宿敵ヴェネツィア共和国を滅亡させ、その旧領であったキリシャの西岸部に位置する7つの島から成るイオニア諸島をフランス領としてしまいます。ナポレオンはこの7つの島をもって「イオニア七島連邦国」なる傀儡国家を樹立させ、極めて限定的ながら島民であるギリシャ人たちに自治を任せました。


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上がそのイオニア諸島の7つの島の位置です。

このイオニア七島連邦国は、その後の情勢の変化によってたった10年で消滅してしまいますが、オスマン帝国の興隆以来真っ先に征服され、最も長くその支配に耐え忍んできたギリシャ人たちにとってこれは千載一遇のチャンスでした。なぜなら彼らギリシャ人は、ローマ教皇に代表されるカトリックやプロテスタントよりはるか以前にキリスト教の正統派であった正教徒であり、イスラムのオスマン帝国の支配下にあってもその信仰だけは絶対に捨てず、その彼らをして失っていた自分たちの国を再建するという大きな夢を抱かせる最初の出来事がこの事件だったからです。

ギリシャ人たちの心に火をつけたこの熱い思いは、瞬くうちにギリシャ全土に広がっていきます。各地でギリシャ独立を唱える秘密結社が創設され、やがて1820年に同じ正教徒のロシアの支援を受けた大規模な反乱が勃発し、鎮圧に出動したオスマン軍とギリシャ各地で激しい戦闘を繰り広げます。戦いはヨーロッパ諸国のこの地域への思惑と介入もあって長期化しますが、ギリシャ人たちの粘り強い抵抗とヨーロッパ諸国の支援もあってオスマン軍に勝利、その余勢を駆って1827年ついにギリシャに共和政府が樹立され、初代大統領にイオニアス・カポディストリアスが選出されます。


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上がそのギリシャ初代大統領イオニアス・カポディストリアスです。(1776~1831)彼はその名の通りイオニア諸島の裕福な貴族出身で、イタリアに留学して医者となり、上のイオニア連邦国の時代にはなんと25歳の若さで国務大臣に就任していました。その後彼は独立戦争の変転を経て頭角を現し、国民会議で初代大統領に任命されます。ただし、この時点ではオスマン帝国はギリシャの独立を認めておらず、完全な独立は1832年まで待つ事になります。

しかし、このギリシャ共和国の成立は当時のヨーロッパ列強諸国にとっては受け入れがたいものでした。なぜなら当時の列強諸国はその全てが帝国、または王国などの君主制国家であり、共和制のギリシャの出現は自国の民衆にそれが波及する恐れがあったからです。そこで列強はギリシャを君主制国家として独立させる事を画策します。この様な状況の最中の1831年10月、ギリシャ初の大統領カポディストリアスは彼の政策に反対する政敵らによって暗殺され、ギリシャは再び内乱状態に陥ってしまいます。

ヨーロッパ列強諸国はこの混乱を良い事に、この機に乗じてギリシャを王国として独立させる事で一致し、1832年にバイエルン王国のヴィッテルスバッハ王家の王子オットーを初代ギリシャ国王として擁立、オットーはギリシャ名「オソン1世」として即位しました。ギリシャ王国の誕生です。


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上がギリシャ王国初代国王に即位したオソン1世(1815~1867)と、彼ら一行がギリシャに上陸した時の様子です。彼はこの時まだ18歳だったため、父のバイエルン王ルートヴィッヒ1世はまだ若くて未熟な息子を心配し、多くの廷臣たちを同行させていました。またこの時、ドイツの名門王家出身の彼が、一見何のつながりも無いギリシャの国王に擁立されたのは、彼の王家ヴィッテルスバッハ家が、その女系を辿ればかつてオスマン帝国に滅ぼされた旧ビザンツ帝国の皇帝家の血を引いていたからです。

La_expansión_territorial_de_Grecia_(1832-1947)

そして上がこの時に成立したギリシャ王国の最初の領域図です。(濃い青色の部分が最初の国土、やがて徐々に領土を拡大していきます。)

一方この事態に、かつての支配者オスマン帝国は何をしていたのでしょうか? 実はこの時帝国は、ロシアとの間で再び勃発した戦争に苦しんでいました。(第9次露土戦争1828~1829)この戦いはロシアの勝利に終わり、オスマン帝国はまたも黒海周辺の東側に残る領土をロシアに奪われ、多額の賠償金を課されてしまいます。そこで皇帝マフムト2世はこの賠償金の捻出のために思い切った手段に出ます。なんと彼はそれまでの方針を転換し、イギリスなどが進めていたギリシャの王制による独立を承認、その見返りとして多額の償金を要求したのです。

イギリスを筆頭とする西欧列強はこの要求を受け入れ、ここにギリシャはオスマン帝国からも認められた完全な独立国家としての道を歩みだす事になりました。(つまり、マフムト2世はギリシャを金で売ったのです。)しかし、この独立は決してギリシャ人の自由意志で決められたものではなく、あくまでも列強諸国の思惑と都合によって強制されたものでした。そのため、その象徴である国王オソン1世に対するギリシャ国民の目は厳しく、(いくら遠い先祖がビザンツ皇帝につながるとはいえ、全く見ず知らずのドイツ人である彼を、いきなり自分たちの君主とするのは無理がありますからね。笑)その事を最も良く体感していたオソン1世は、生まれたばかりのギリシャを、自らを頂点とする王国として国民を一つにまとめるために大きなスローガンを掲げました。それが「大ギリシャ主義」「メガリ・イデア」と呼ばれるものです。

この思想はオソン1世のオリジナルではなく、もともと独立戦争の最中から唱えられていたものですが、国王はこの思想をさらに拡大させ、かつてギリシャがその中心として地中海に千年の繁栄を誇ったキリスト教国家ビザンツ帝国の復活を目指そうと呼びかけたのです。

「ギリシャ人が住む所、その全てがギリシャである。我々は祖先が築いた栄光あるビザンツ帝国を再びこの地に蘇らせるのだ。」

これはギリシャ国民に夢を持たせ、まだ生まれたばかりで決して一枚岩とは言えなかったギリシャを一致団結させるため(同時に国民の国王政府への不満をそらせる「ガス抜き」として)に立ち上げた壮大なプロジェクトでした。

オソン1世がどれだけ本気でそれを考えていたかは定かではありませんが、彼が掲げた大ギリシャ主義の考えはその後多くのギリシャ人たちに深く浸透し、やがてオスマン帝国の衰退と呼応して次第に少しづつ領土を拡大させていく事になります。かつてオスマン帝国は、キリスト教を信ずるギリシャ人たちの帝国であったビザンツ帝国を取り囲み、滅亡へと追いやりました。そしてその流れは、400年の時を越えて逆流し、ビザンツの子孫であるギリシャが、今度はイスラム教国家オスマン帝国を侵食しようとしていたのです。この様な事態を当時誰が想像し得たでしょうか? まさに「盛者必衰の理をあらわす。」ですね。

このギリシャ独立戦争は、オスマン帝国にとってそれまでの様に周辺国との戦いに敗れて領土を奪われたのではなく、帝国内の支配下にある民族が帝国から離反した最初の例となりました。そしてギリシャの独立は、帝国内の他の民族にも徐々に波及していき、同じイスラムでありながら中東のアラブ世界の人々にも自主独立の気運が高まっていきます。そしてこの未知の状況下において、帝国は内と外の2正面の圧迫に苦しむ様になっていくのです。

次回に続きます。
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