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瀕死のオスマン帝国 ・ 皇帝たちの努力

みなさんこんにちは。

1821年から1831年まで、およそ10年に亘って断続的に続いたギリシャ独立戦争は、同じキリスト教国家を復活させてこの地域への影響力を確保しておきたいイギリス、フランス、ロシアなどの列強諸国の介入によって、1832年にギリシャ王国を誕生させる事になりました。このギリシャ王国は前回お話した様に、君主としてかつてギリシャ人の帝国であった旧ビザンツ帝国皇帝家の血を引くドイツのバイエルン王家から国王を迎え入れるという、形の上ではギリシャに配慮したものでしたが、それは世界初の民主共和制を誕生させた古代ギリシャに倣い、当然の事ながら当初は共和制を選択したギリシャ国民の自由意志で成立したものではありませんでした。

しかし、何はともあれ1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落と、それに伴うビザンツ帝国滅亡によって、実におよそ400年もの長い間オスマン帝国の支配下にあったギリシャ国民は、小さいながらも悲願であった自分たちの国家の再建を大いに喜び、新国家の発展と、さらなる拡大のために力強く前に進み出したのです。

一方このギリシャ独立は、本テーマの主役であるオスマン帝国の弱体化をさらに大きく進行させて行く事になりました。なぜならこの1830年代に、帝国はそれまでの対外戦争で失った地域をはるかに上回る広大な領土をさらに失う事になったからです。この時期を境に、オスマン帝国はもう弱体化という表現を超えて、まさに「瀕死の状態」に陥ろうとしていました。


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上がオスマン帝国の年代ごとの領土失陥の変遷を表した地図です。

オスマン帝国がかつての勢いを失い、近代化を着実に進めて力関係が逆転したヨーロッパ諸国との度重なる戦争による敗北で次々に領土を失っていった経緯は、これまで何度か当ブログでもお話して来ましたが、それは大半が帝国北部のバルカン地域、すなわちもともとヨーロッパの一部であったものを取り返されたものでした。

しかしこの時期、ついに同じイスラム圏であるはずの帝国南部、中東・北アフリカ地域が次々と帝国から離脱していく様になります。すでに19世紀に入ってから、ヨーロッパ列強諸国のオスマン帝国に対する政治・軍事的干渉は年を追うごとに遠慮が無くなって行ったのですが、帝国建国以来の独特の専制国家体制による幾重にも折り重なった複合的な弊害によって近代化の波に乗れず、西欧列強に100年の遅れを取ってしまっていた当時のオスマン帝国には、それら列強の干渉を跳ね返し、はるか辺境のこれらの地域を維持するために差し向けられるほどの軍事力はありませんでした。

そうしたオスマン帝国を尻目に、ヨーロッパ諸国によるオスマン領の侵食はじわじわと進んでいきます。1830年にはフランスが帝国最西端のアルジェリアを占領。やがて徐々に東のチュニジア、リビアへとその手を伸ばしていきます。またその隣のエジプトには、インドから得た様々な産物を本国に運ぶ最短ルートとして重視していたイギリスが、隙あらば自国の植民地の一つとしてしまうべく、虎視眈々と狙っていました。

この時期にオスマン帝国の皇帝であったのが、第30代皇帝マフムト2世という人です。彼はオスマン帝国にとって長く影の支配者として帝国を迷走させ、最大の「内なる敵」であった皇帝親衛隊イェニチェリを粛清する事に成功し、西欧諸国に倣った近代的軍隊の創設と、それまでの皇帝たちが成し得なかった数々の近代化政策を断行したオスマン家でも久しぶりの名君でしたが、北の宿敵ロシアとの相次ぐ戦争と、ギリシャ、エジプトの帝国からの離脱に大いに悩まされていました。


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上がオスマン帝国第30代皇帝マフムト2世です。(1785~1839)彼は歴代皇帝で初めて「洋服」を身に付け、強力なリーダシップを発揮して帝国の改革に着手し、西欧を参考に新たな時代の君主のあり方を模索した啓蒙君主でもありました。(同じ様なターバン姿でどの皇帝が何代目なのか区別が付かないそれまでの皇帝たちの肖像画と全く違い、自ら大きく前を指し示した姿で描かれています。きっと彼は、自らの改革への熱意をあまねく人々に知らしめるために、この様に大きくデフォルメして描かせたのでしょう。)

マフムト2世が始めた帝国近代化政策は、これまでの皇帝たちが行ってきた局所的で行き当たりばったりなものではなく、それまでの帝国のあり方を抜本的に改め、新たな時代に即した西欧列強と肩を並べる近代国家を目指そうという非常に先進的なものでした。(これも、明治維新後のわが国の掲げた目標と同じですね。)彼の主導により、帝国は立ち遅れていた近代化が大きく進んでいきます。

しかし、マフムト帝がこうした改革を進めていた矢先、今度はエジプトが帝国から離脱のため動き出していました。事の起こりは1798年のナポレオンのエジプト遠征に始まります。イギリス撃滅を企図してエジプトに侵攻したナポレオンのフランス軍撃破のためにオスマン帝国が差し向けたエジプト派遣軍の中に、マケドニア出身のムハンマド・アリーという男がいました。この男は300人から成る一部隊の指揮官に過ぎませんでしたが、フランス軍との戦いで昇進を重ね、やがて6千の大部隊の司令官にまで出世し、その武力をもってフランス軍降伏後のエジプトにおける激しい権力闘争を制し、1805年に「エジプト総督」となり、エジプトの全権を掌握します。


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上がそのエジプト総督ムハンマド・アリーです。(1759?~1849)彼は後にオスマン帝国に対して「独立戦争」を挑み、自らの王朝を築く事になります。

やがて時が流れて1821年、ギリシャ独立戦争が勃発します。彼は形の上ではオスマン帝国の「総督」という身分であったため、マフムト2世の求めに応じて配下の軍勢をギリシャに派兵、その見返りとしてシリアの支配権を要求しますが、ギリシャが独立してしまったため、皇帝はこの要求を拒否してしまいます。

「約束通り兵を提供し、長い戦いで大勢の兵を失ったのに、これでは我らはタダ働きではないか。皇帝め、私を騙して道具に使いおったな!」

怒ったムハンマド・アリーは独力でシリアをもぎ取るべく、1831年シリアに兵を差し向け、オスマン帝国に宣戦、ここに10年に及ぶ「エジプト・トルコ戦争」が始まります。このムハンマド・アリーの反逆は、当然皇帝マフムト2世を激怒させました。

「素性も知れぬ卑しい成り上がり者が、誰のおかげで今の地位を得たと思っておるのか!余の馬前にあの者の首を持って参れ!」

マフムト帝は自分が創設した新鋭の帝国軍8万を動員、同じくシリアに差し向けます。両軍はシリアで激戦を展開し、ロシア、イギリス、フランスなどを巻き込んで戦争は長期化していきました。しかし、その長い戦いもついに終わりの時を迎えます。戦いは戦術的には西欧列強諸国に有利な条件を餌として味方に付けたマフムト2世率いるオスマン帝国の勝利に終わり、1841年6月にイギリスの仲介の下で講和条約が締結されました。


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上がその時の様子です。中央の大きな赤いソファの左側にムハンマド・アリー、右側にイギリス代表らがいます。これにより最盛期15万以上の大軍を擁したムハンマド・アリーは、その常備軍を2万以下にまで減らされ、海軍の保有禁止や治外法権、低率の関税など多くの不平等条約を結ばされてしまいます。しかし、エジプトとその南のスーダンにおける総督職は彼の子孫による世襲が認められ、形の上ではオスマン帝国の統治下という建前でしたが、実際は帝国中央政府から完全に自立した行政権を認められた独立国としてほぼ認められました。つまり、戦略的にはムハンマド・アリーの望み通り、エジプトを彼の王国として独立させる事に成功したのです。こうしてエジプトに、1517年のマムルーク朝エジプト王国滅亡以来324年ぶりに自立した新王朝が誕生する事になりました。(彼が築いたこのムハンマド・アリー朝エジプト王国は、その後第2次大戦後の1953年まで11代112年続く事になります。)

こうしてやっとの思いでギリシャ、エジプトの戦役を終結させた皇帝マフムト2世でしたが、彼はなぜギリシャとエジプトの独立を許してしまったのでしょうか? これは自分の勝手な想像ですが、恐らく彼は帝国の改革のためにこれらの地域を「切り捨てた」のではないかと思います。とにかく今のオスマン帝国の力では、これらの問題を軍事的に解決させる事は出来ないのです。そこで彼は、自分の代においてまずは帝国本国の改革と近代化を最優先し、再び西欧列強に立ち向かえるだけの国力を回復させてから、後事は後の世代に託す事を道を選んだのではないでしょうか。しかし帝国を取り巻く内外の長年の重大問題は、この優れた皇帝の健康を大きく蝕み、彼はこの時重い結核で余命いくばくも無い状態でした。そしてもはや自分の生涯が終わりに近い事を察した彼は、改革の完遂を息子に託し、1839年に53歳でこの世を去ります。

皇帝崩御を受けて新たに皇帝として即位したのは、先帝の長男アブデュルメジト1世でした。彼は父帝の遺志を受け継ぎ、オスマン帝国の近代化のために改革の続行を推し進めていきます。


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上がオスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世です。(1823~1861)彼は即位当時まだ16歳の少年でしたが、帝国に次から次へと降りかかる内外の苦難に立ち向かいつつ、断固改革を進める父の姿を見て育ち、父を手本として帝国を再び盛り立て、かつての繁栄を取り戻す事を自らの使命として帝位に着きました。

しかし、若き新帝は改革への熱意は高かったものの、いかんせんまだ10代後半の少年でした。つまり政治経験などありません。そのため有能な宰相を補佐役に選ぶ必要がありました。そこで彼は先帝の下で外務大臣を務め、西欧列強諸国との外交交渉を巧みにこなしてきたレシト・パシャ(1800~1858)を帝国宰相に任命、熟練の彼の補佐を得て次の様な勅令を発します。

「わがオスマン帝国の全臣民は、法の下に全て平等であり、帝国全臣民の生命・名誉・財産は、これを全て保障する。」

これは明らかに、フランス革命で有名な「フランス人権宣言」の内容そのままですね。同時にこれは建国以来、長く専制君主国家であったオスマン帝国が、その国家体制を全面的に改めた歴史的瞬間でもありました。そして皇帝はこの勅令と並行して、行政・軍事・文化・財政・司法・教育といった国家の根幹となるあらゆる分野の全面的な刷新を宣言したのです。

皇帝はそのために、かねてから父帝とは違う思い切った計画を考えていました。その思い切った計画とは、帝国の古い体質の巨大な象徴として、およそ400年に亘って帝都イスタンブールにその威容を誇ってきたオスマン皇帝の居城トプカプ宮殿を捨て、新たに造営した西洋式の宮殿に宮廷を移す事です。


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上がオスマン帝国の中心であったトプカプ宮殿の現在の様子です。(現在は博物館として一般公開されています。)この宮殿は、かつてビザンツ帝国を滅ぼし、ここイスタンブールを帝国の都と定めた第7代皇帝メフメト2世によって造営され、その後、歴代皇帝たちが増改築を繰り返した結果、上の様に「迷宮」といっても良い複雑で住みにくいものになっていました。

アブデュルメジト1世は即位4年目の1843年に巨額の費用を投じて新宮殿の造営に取り掛かり、彼の偉大な祖先であり、トプカプ宮殿を造ったメフメト2世が同じく離宮として別の場所に建設した海沿いの木造の宮殿を取り壊し、その跡地に13年の歳月をかけて壮麗な新宮殿を建造させました。


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上が1856年に完成した「ドルマバフチェ宮殿」とその内部の様子です。(この「ドルマバフチェ」とは、トルコ語で「埋め立てた庭」という意味だそうです。もっと宮殿の壮麗さにふさわしい名前にすれば良かったのではと思いますが、そのままですね。トルコの人はこれほどの壮麗な宮殿を造りながら、肝心のネーミングにはあまり興味が無いのでしょうか? 笑)この新宮殿は部屋数285、ホールが46もあり、現在はトルコ共和国の迎賓館として使われ、もちろん一般公開もされています。

オスマン帝国において皇帝がその宮殿を移すなど、1453年のコンスタンティノープル占領によって、皇帝の宮殿がイスタンブールに定まって以来、実におよそ400年ぶりの事でした。(わが国に例えれば、京都御所におられた明治天皇が、明治維新によって江戸城を「東京城」と改め、居をお移りになられたのと同じ状況でしょうか。あの時は桓武天皇の平安遷都以来1072年ぶりでしたが。)アブデュルメジト1世は、人々により目に見えた形で帝国の近代化の新たなる象徴となるようこの巨大な新宮殿を建設させたのです。着々と建設が進む宮殿の完成を待ちわびながら、若い皇帝はどんな気持ちだったのでしょうか?

瀕死の帝国を救わんとする皇帝たちのこうした懸命の努力によって、オスマン帝国は生まれ変わるために必死に過去の古い体質から脱皮しようとしていました。そしてその成果は着実に帝国を大きく変えつつあり、そのまま平和な時代が続けば、これらの改革が実を結んで帝国は再び強国として復活する可能性は十分にありました。しかし、オスマン帝国の近代化は、すでに「植民地帝国主義」の時代に移行していたヨーロッパ列強諸国にとって許すべからざるものでした。

彼ら列強諸国にとって、彼らのレースにオスマン帝国が新たな走者として参加してもらっては困るのです。そして彼ら列強は、帝国をそのレースから追い落とすために再び戦争という最悪の「病気」を伝染させます。そしてそれは、この必死に生き延びようと努力し、回復しかけていた「病み上がりの病人」を、再び「瀕死の病人」に逆戻りさせてしまう事になるのです。

次回に続きます。
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