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クリミア戦争(前編)・ ロシア皇帝の野望

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、皇帝の主導の下で近代化と改革を進めていた1850年代、それを快く思わない北の大国が不穏な動きを見せていました。その大国とは、オスマン帝国の仇敵ロマノフ朝ロシア帝国です。

ロシアはこの時代よりさかのぼる事およそ40年前、ナポレオンの70万からなるロシア侵攻軍を、その広大な国土を生かした徹底的な焦土作戦(敵軍を自国領土内に引き込み、巧みに後退しながら利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、敵軍に食料の現地調達と、占領確保を困難にする戦法です。)と、何よりも猛烈な冬の寒さ、いわゆる「冬将軍」によって、ほぼ全滅に近い状態にまで追いやり、見事撃退したものの、それに伴う国土の荒廃が著しく、今だにその後遺症から抜け切れていませんでした。

そのため国力の低下が常態化し、この時期ロシアはイギリス、フランス、プロイセンなどの列強諸国に国力、とりわけ軍事力の面で大きな遅れを取る様になっていました。(理由は単純です。軍備の近代化には莫大なお金がかかるからです。)この時期におけるロシアの君主はニコライ1世という人でしたが、彼は帝国の国力回復とロシアの勢力圏拡大のために、新たな方面に活路を見出そうとします。その方面とはバルカン半島です。


Nikolai I

上がそのニコライ1世です。(1796~1855)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、皇帝直属の秘密警察を創設して帝国内外のあらゆる自由主義革命勢力を徹底弾圧し、自らを「ヨーロッパの憲兵」と称する最後の強権専制君主とも呼べる人でした。今回のお話では、失礼ながらそんな彼に「悪役」になってもらいます。(笑)

先に述べた通り、ロシアの近代化には国力の回復が不可欠でした。国力を回復させるには何と言っても「お金」が必要です。そのお金を得るためには、他の国を奪うのが最も手っ取り早い方法です。これまでロシアは黒海周辺のオスマン帝国の領土を次々に奪い、南下して領土を広げ、新たに得たこれらの地から上がる富から国力を蓄えていきました。しかし、その彼らの南下政策ももはや限界に達していました。なぜならその先はオスマン帝国をはじめとするイスラム圏であり、キリスト教の一派である正教を国教とするロシアがこれ以上進むのは宗教的な面で困難だったからです。

さらにイギリス、フランスなどの西ヨーロッパ諸国が、ロシアによるこれ以上の南下と地中海への進出を阻止するため、それを防ぐ「防波堤」として、事あるごとにオスマン帝国に味方していた事も大きな要因でした。そこでニコライ1世は、今後のロシアの進出方面を、同じスラヴ民族で正教を信ずる人々が多く住むバルカン半島に切り替えたのです。

彼は全スラヴ民族の連帯と統一を理想とする「汎スラヴ主義」を掲げ、バルカン半島にロシアを盟主とする「共栄圏」を創ろうと遠大な作戦を計画します。(もちろんこれは「建て前」で、実際は思想的影響力によりバルカン地域をロシア化し、機会があればロシア領土として編入してしまおうというものでした。)

ニコライ1世はバルカン進出の手始めとして、1852年にオスマン帝国の領土であったモルダヴィアとワラキアに兵を差し向けます。表向きはこの地域の正教徒の保護という名目でしたが、実際は彼らを煽って反乱を引き起こし、オスマン帝国からの離反を促す謀略でした。ロシアのこの動きに対し、当然オスマン帝国は反撃のため北部に軍を送ります。

1850s.gif

上がそのモルダヴィアとワラキアの位置です。現在のモルドヴァ共和国とルーマニアの北部地域です。

両軍は当地で交戦を繰り広げ、戦闘は長期化してしまいます。しかし、この時点では極めて局地的な小戦闘であり、両国とも本格的な戦争を避けるため(とにかく戦争はお金がかかるからです。)西欧諸国の仲介の下に外交交渉が続けられていました。

この交渉はイギリス、フランス、オーストリア、プロイセンといった当時の名だたる列強が、複雑にその利害を絡めて暗躍し、またロシアがあまりに過大な要求を主張していたために非常に難航し、結局交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。そして最終的にこれ以上の交渉継続は時間の無駄と見たロシア皇帝ニコライ1世は、開戦準備のために陸軍の大部隊を国境沿いに集結させ、さらにそれを海から支援するため、クリミア半島南端の軍港セヴァストポリに駐留する黒海艦隊に出動命令を下します。事ここに至り、1853年3月、ロシアとオスマン帝国は開戦します。第10次露土戦争、いわゆる「クリミア戦争」の勃発です。(この1853年に、わが国ではアメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が来航、長い鎖国から開国へと動き出した節目の年ですね。)

このクリミア戦争ですが、これまで述べて来た様に本来の戦場はバルカン方面でした。オスマン帝国は当初、侵攻して来たロシア軍をドナウ川を防衛線として食い止めていましたが、ロシアの謀略によって扇動されたバルカン各地の対オスマン反乱勢力がオスマン軍の背後からゲリラ戦を仕掛け、オスマン軍は挟み撃ちに遭って窮地に陥ってしまいます。

さらに海上での戦いでも、オスマン軍は大敗を喫してしまいます。1853年11月、黒海沿岸のオスマン艦隊の軍港シノープにおいて、停泊していたオスマン艦隊12隻が、ロシア黒海艦隊10隻の奇襲攻撃を受けて全滅してしまったのです。


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上がシノープの位置と、「シノープの海戦」の様子を描いた絵です。ご覧の様にロシア艦隊の基地セヴァストポリの対岸にあって黒海におけるオスマン海軍の根拠地でした。しかし、オスマン艦隊は古い木造帆船であったのに対し、ロシア艦隊はすでに自走出来る蒸気船であったため、オスマン艦隊は成すすべもなく撃沈されてしまい、黒海の制海権はロシアの手に落ちてしまいます。

この戦争はそもそもロシアとオスマン帝国2国間のものであり、当初イギリスもフランスも参戦していませんでした。しかし、このままではオスマン帝国の敗北は時間の問題です。もし、これを放置すれば、オスマン帝国は今度こそ崩壊してしまい、ロシアは益々バルカン方面に進出してしまうでしょう。それはつまり、ロシア艦隊が地中海に出てくるという事です。イギリス、フランス両国にとって、それは悪夢以外のなにものでもありません。

イギリスもフランスも、ロシアが地中海に出て来られては困るのです。海外植民地政策を進める彼らは、ロシアをはるか東の辺境にいつまでも封じ込めておきたいのです。そのためには、先に述べたロシア封じ込めの「防波堤」であるオスマン帝国に何としても勝ってもらわなくてはなりません。そこで両国は協力してオスマン帝国に味方し、1854年3月、ついにロシアに宣戦を布告して参戦しました。(イギリスもフランスも、オスマン帝国をロシアに対する壁として「倒れない程度に」生かしておく必要がありました。かつて恐れられたオスマン帝国は、もはや列強諸国にその程度の存在としてしか見られていなかったのです。)

イギリスとフランスという強力な味方が付いたオスマン帝国はようやく反撃に転じます。イギリス・フランス・トルコ連合軍はロシア軍の裏をかくため、黒海におけるロシアの最重要基地であるクリミア半島のセヴァストポリ攻略を目指し、クリミア半島に上陸します。このセヴァストポリをめぐる戦いにおける両軍の戦力は、英仏土連合軍17万に対し、ロシア軍は陸軍の大半をバルカン方面に差し向けていたため、黒海艦隊などの海軍部隊を主力とするおよそ8万5千というものでした。

兵力だけ見れば、連合軍はロシア軍の2倍の戦力でしたが、このセヴァストポリは先に述べたロシア黒海艦隊の基地であり、街そのものが難攻不落の堅固な要塞都市となっていました。そのためロシア軍は要塞の守りに集中するために駐留艦隊を湾内の奥深くに係留し、それらの軍艦の艦砲を全て陸揚げして要塞砲に転用、さらに艦隊の水兵たちを要塞守備隊に回して防衛体制を整えていました。


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Crimean War (5)

上がクリミア戦争当時のセヴァストポリ軍港内の様子を撮影した貴重な写真です。以下の写真も全て当時のものです。

1854年9月、両軍の猛烈な砲撃の応酬によって、セヴァストポリ要塞攻略戦の火蓋が切って落とされます。しかし、攻撃する連合軍はロシア軍の築いた堅固な要塞の前に苦戦を強いられて容易に要塞に近寄れず、やむなく塹壕を掘って少しづつ攻めて行くより方法がありませんでした。一方ロシア軍の方も、元々の要塞守備隊と艦隊の水兵からなる混成部隊であったために指揮統率が乱れ、要塞にこもっている間はともかく、いざ要塞から反撃に出てみても、本来陸軍でない彼らは攻勢を維持出来ずに苦もなく連合軍に押し返され、結局要塞内に逃げ込んでしまうという展開が続き、戦闘は長期化していきました。


Crimean War (21)

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上の2枚はセヴァストポリ郊外で野営する連合軍部隊です。イギリス軍かフランス軍か判然としませんが、たくさんのテントが印象的です。3枚目はセヴァストポリの街の遠景です。

Crimean War (3)

Crimean War (14)

Crimean War (19)

Crimean War (13)

上の4枚はいずれも連合軍将兵たちです。これらの写真は1855年ごろ撮影されたものです。160年前の人々の生き生きとした表情や、当時の服装などが驚くほど鮮明に写っていますね。ちなみにこの写真というものは、1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787~1851)という長い名前の人物が発明した銀板写真(彼の名を冠して「ダゲレオ・タイプ」と呼ばれています。)というものが最初の実用的なものとして知られ、最初は撮影するのに10分以上もかかるものでしたが、徐々に改良されて撮影時間は短くなっていきました。(しかし、それでも数十秒か1分程度はかかっていた様です。撮影時間が長いためか、こうした古写真に写る人たちは顔や体を横や斜めに向けていたりする人が多いですね。)

このクリミア戦争は、イギリス、フランスと、ロシアとの技術力と工業力の進歩の差が顕著に現れた戦争でもありました。この戦争における各国の動員兵力は、イギリス25万、フランス40万、オスマン30万、ロシアに至ってはなんと200万以上というものでしたが、兵力の点で見れば、ロシア軍の方が圧倒的な大軍です。しかし、ロシア軍の装備は40年前のナポレオン戦争当時と変わらない時代遅れなもので、特に大砲の射程距離は連合軍の半分しか届きませんでした。またロシア軍の一般兵士は、農奴(封建領主に従属する最も底辺の農民)が強制的に徴兵されて嫌々来ていたために士気は最低でした。(彼らにとっては戦争の勝ち負けなどどうでも良く、早く終わって家族の待つ家に無事に帰りたいだけでした。)

さらにロシア軍は戦場に武器、弾薬、食糧、兵員を輸送するのに荷馬車を使っていました。(それらの作業人夫も強制徴用された農奴たちです。)しかし、舗装された道路など皆無だったので、雨でも降ればすぐに道はぬかるんで馬車は進めません。そのため物資の補給が追いつかず、数だけは200万の大軍でも、実際の戦闘可能な戦力はその4割程度で(それでも大軍ですが。)思うように迅速な作戦行動が取れませんでした。

それに引き換えイギリス、フランス軍の方は、蒸気船で本国からどんどん物資を輸送し、さらに港から戦場まで鉄道を敷設して前線に武器、弾薬を運び、部隊の駐屯地には水道も設けていたほどでした。すでに産業革命を成功させていた両国と今だ途上国のロシアとの間には、こうした工業力の違いがはっきりと出たのです。本国から遠いイギリス、フランス軍の方が、輸送が円滑で兵士への補給は順調に行われていました。

しかし、戦争というものは所詮は人間同士の殺し合いです。戦争が長引けば当然負傷者が多く出ます。そうした負傷者は作戦上足手まといになる事から、後方に移送されて「野戦病院」に収容されていましたが、それらの野戦病院における負傷兵の惨状は見るも無残なものでした。なぜならこれらは「野戦病院」とは名ばかりで、実際は負傷兵をろくな治療もせずに一ヶ所に集めて放置しただけに過ぎなかったからです。(この時代はまだ封建的身分制が色濃く残っており、一般の兵士は社会の底辺の人々が多く、身分の高い貴族出身の将軍たちをはじめとする現地軍司令部にとって兵士は使い捨ての道具であり、そうした彼らに対する手厚い看護は不要と考えていたからです。)

重傷者は受けた傷が腐って感染症により次々に死んで行き、さらにそれが周囲に蔓延してたちまち遠征軍全体に広がり、兵士たちはばたばたと倒れていきました。このクリミア戦争における死者は両軍合わせて20万にも及びますが、実際の戦闘での戦死者よりも、こうした感染症の蔓延による病死の方がはるかに多かったのです。

クリミア戦線におけるこうした野戦病院の劣悪な惨状は、発明されて間もない電信を通して本国に伝えられ、新聞記事に大々的に掲載されて大いに人々の関心をさらいます。やがてそれを読んだある一人のイギリス女性が大きな決意を胸に、その後の世界の歴史に大きく名を残す偉業を成し遂げるために、クリミアの地に旅立つ事になるのです。

次回に続きます。
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