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アレクサンドロス大王の戦い 6

みなさんこんにちは。

アレクサンドロスがエジプトにいた頃、イッソスの戦いに敗れて都ペルセポリスに敗走したダレイオス3世はどうしていたのでしょうか?

実はアレクサンドロスがエジプトに入る前、まだフェニキア地方(現在のシリア沿岸)を南下していた頃、ダレイオスはアレクサンドロスに対して使者を送り、ユーフラテス川より西方の領土割譲と、和平条約の締結を打診していたそうです。

一見すると、アレクサンドロスの強さに恐れをなしたダレイオスが、弱気になって懐柔策に出た様に見えますが、これは彼にとって単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。というのはイッソスの敗戦の後、彼は都ペルセポリスに戻ると直ちに軍を立て直し、帝国全土に動員令を発して再び軍勢の集結を命じていたからです。

つまりここは一旦和睦してアレクサンドロスを油断させ、彼が兵を引いたその隙を突いて条約を破り、再びユーフラテス川を押し渡って奪われた領土を奪還するつもりだったのです。条約を破るのは卑怯ですが、もともと全てペルシアの領土なのですから「侵略者アレクサンドロスを倒して奪われた領土を取り返す」という大儀名文はいくらでも立てられます。しかし軍隊の動員はそう容易く出来るものではありません。戦支度には時間がかかります。ダレイオスにはそのための時間が必要でした。

Cappadocia.jpg

さらにイッソスの戦いで敗走したペルシア軍の残存兵力が、あの奇岩で有名なトルコのカッパドキア周辺に潜伏しているのを知ると彼らとも連絡を取り合い、いざその時はダレイオスの主力部隊と呼応してアレクサンドロス軍を挟み撃ちにする手筈を整えていました。(上がそのカッパドキア。ここなら天然の要塞として守りやすく攻めにくいですね。)


それだけではありません。ダレイオスはアレクサンドロスの本拠地ギリシア本国にも謀略の手を回し、コリント同盟に参加していなかった軍事都市国家スパルタの王をそそのかして紀元前331年に反乱を起こさせます。この反乱は首謀者であるそのスパルタ王の名からアギス戦争、又はメガロポリスの戦いと呼ばれていますが、アレクサンドロスの父フィリッポスの代から仕え、彼が留守中のギリシア本国を任せていた忠実かつ有能な家臣アンティパトロス(紀元前397~319)の活躍によって鎮圧され、失敗に終わります。(それにしても前回お話したプトレマイオスを始め、アレクサンドロスは本当に部下に恵まれていますね。)

Sparta_territory.jpg

上がその時の主戦場であるメガロポリスとスパルタの位置と勢力範囲です。

こうして見ると、ダレイオスもなかなかどうしてしたたかに様々な反撃の手を打っていますね。勝手な想像ですがこの人は戦いよりも、こうした外交や謀略の方が得意だったのだと思います。結局アレクサンドロスはペルシア本国ではなくエジプトに向かったので、ダレイオスはその間に戦力を増強してアレクサンドロスを迎え撃つための準備をする時間を得る事が出来ました。しかしアレクサンドロスは、ダレイオスのそんな企みを見抜いていたのでしょう。彼はダレイオスの提案を拒否して進撃を続けました。

さてエジプト征服後東征を再開したアレクサンドロスは、ペルシアが整備した「王の道」を通り一路ペルシアの都ペルセポリスを目指して破竹の勢いで進撃し、紀元前331年9月にはユーフラテス川を渡河、さらにその先のティグリス川も妨害を受ける事無く渡り、かつてメソポタミアと呼ばれた大平原に軍を進めます。その時すでに大軍を準備して待ちうけていたダレイオスもこの近くに軍勢を布陣させていました。

紀元前331年10月、ここに両者の最終決戦となるガウガメラの戦いの火蓋が切って落とされました。両軍の兵力はアレクサンドロス軍4万7千に対し、ダレイオス3世のペルシア軍は帝国各地から集めた何と総勢20万を超える大軍でした。(「絶対に負けるわけにはいかない。今度こそアレクサンドロスを叩き潰すのだ」というダレイオスの強い決意がこの数字から伝わってきますね。)

しかし、勝利の女神はまたもアレクサンドロスに微笑みました。5万に満たないアレクサンドロス軍は自慢の長槍部隊と騎兵を上手く活用、4倍以上のペルシア軍を打ち破り、ダレイオスはわずかな護衛とともに命からがら逃亡しました。損害はアレクサンドロス軍の死傷者最大4千に対しペルシア軍は10倍の4万に達しました。

963px-The_battle_at_Arbela_(Gaugamela)_between_Alexander_and_Darius,_who_is_in_flight_(1696)

上はこの戦いに敗れてマケドニア兵に追われる戦車に乗ったダレイオス3世と、逃げ惑うペルシア兵の姿を描いた絵です。恐らく近世に描かれたものと思われます。

どうして20万以上の圧倒的な大軍であったダレイオスのペルシア軍は、5万に満たないアレクサンドロス軍に敗れたのでしょうか?その最大の原因はペルシア軍が多民族の大混成部隊であったという点にあります。帝国全土からやみくもに兵を集めたためにそれぞれの部隊同士で言葉が通じず、(もちろん通訳はいたでしょうが。)ダレイオスの作戦や指揮命令が全軍の末端にまで伝わりませんでした。(言葉が通じないので各部隊はどこでどう戦って良いのか分からず、各隊が互いの顔を見合っている姿が目に浮かぶようです。)

多民族の混成軍という点では、アレクサンドロスの軍も同じでしたが、彼の兵はみなギリシア語で統一されており、言葉が通じないという心配は要りませんでした。さらに決戦の数日前から、ダレイオスがアレクサンドロスの夜襲を警戒し、全軍に交代で夜通し非常警戒態勢を取らせていた事も大きなミスでした。(つまり寝不足で戦わされたのですから当然ですね。)

この戦いの敗北以後、ダレイオス3世は二度と勢力を盛り返す事は出来ませんでした。そして勝ったアレクサンドロスはダレイオスを追ってバビロンへと進軍します。

次回に続きます。
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