クリミア戦争(後編) ・ 戦場に降りた天使

みなさんこんにちは。

バルカン半島進出を目論むロシアと、それを阻止せんとするオスマン帝国との間で1853年3月に勃発した第10次露土戦争は、その後ロシアの南下を嫌ったイギリス、フランスなどがオスマン帝国に味方して参戦し、1854年3月、その戦場を黒海におけるロシアの最重要基地クリミア半島の南端セヴァストポリに移して激戦が繰り広げられていました。

両軍の兵力は、攻撃するイギリス、フランス、オスマン連合軍17万と、防衛するロシア軍8万5千余りで、その戦闘の様子は前回お話した様に双方それぞれの軍事的な理由により一進一退の長期戦に陥り、それが敵味方合わせて25万を越える前線の将兵たちに大きな負担と犠牲を強いる様になっていきました。

そのため負傷兵が続出していましたが、現地軍司令部首脳は「使い捨ての道具」に過ぎない一般兵士の犠牲を顧みずに、ロシア軍の築き上げた堅固な大要塞セヴァストポリの正面攻略に固執し、それによって負傷した兵士たちは「役立たずの足手まとい」として後方に移送され、ろくな手当てもされずに放置されて次々に死んでいったのです。


Crimean War 1855 punishment

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上は前線で作戦指導に当たる連合軍司令部の人々です。みなさんサーベルをさげたほとんど汚れていない立派な軍装姿から、身分の高い貴族出身の連隊長か師団長クラスとその参謀たちでしょうか。

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上は一般の兵士たちです。司令部の指揮官たちと違って身なりはお世辞にも良いとはいえませんね。前回もお話しましたが、市民社会がすでに根付いていたイギリスやフランスにおいても、当時はまだ封建的身分制が人々の間に色濃く残っており、当然それは軍隊においてもこうして目に見えた形で表れていました。

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上はセヴァストポリ要塞攻防戦の様子をロシア側から描いた絵と、クリミア戦争当時のセヴァストポリ要塞周辺図です。このセヴァストポリは街全体が小高い台地になっており、街全体が天然の要塞になっていました。「要塞」というと、思い浮かべるのは堅固な城壁に備え付けられた巨大な大砲群を思い浮かべますが、実際は上の絵の様に頑丈な城壁は主要な部分に限定されて築かれ、それらをつなぐ様にいわゆる土塁と塹壕がびっしりと設けられ、その各所に無数の火砲が備え付けられていました。

そのため、連合軍がいくら大砲で砲撃しても、山の斜面の土砂を吹き飛ばすだけで要塞そのものには大した効果はなく、砲撃後に突撃する連合軍将兵は、要塞からのロシア軍による狙い撃ちの集中射撃を受けていたずらに犠牲と損害を出し、全く身動きが取れずに退却を繰り返して戦線がこう着状態に陥っていました。(この様な構築法は、後の日露戦争における旅順要塞にも応用され、わが日本軍が同じ愚を冒しておびただしい死傷者を出した事は、歴史ファンなら良く知られていると思います。)


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上がセヴァストポリ近郊で野営する連合軍陣地と、現在のセヴァストポリの様子です。当然の事ながら白黒写真なので、荒涼とした風景に見えてしまいますが、3枚目の写真の現在の姿をご覧になればお分かりの様に、もともと高い樹木が少なく岩肌がむき出した乾燥性の地中海性気候の様ですね。

さて、要塞がなかなか攻略出来ずに戦闘が長引くに連れ、前線の将兵の負傷者は増大の一途を辿り、その様子は各国の新聞社が派遣した特派員によって、当時最新の電信によって直ちに本国に伝えられる様になり、人々は連日の戦況に大きな関心を抱いていました。そしてその中の一人、ロンドンタイムスの記者が書いた前線の負傷兵たちの扱いが極めて悲惨な状況である記事が新聞に載ると、それらの将兵を送り出していた一般の民衆たちが、政府に対して早急な対応を迫る様になっていきます。

この様な中、一人の高貴なイギリス女性がこの地獄の戦場へ旅立つ事を決意します。彼女の名はフロ-レンス・ナイチンゲール。みなさんも良くご存知の「看護婦さん」の始祖となる人です。(わが国においては、2002年の法改正によって「看護師」と呼ぶようになりましたが、長らく女性らしいネーミングであるこの呼び方で呼ばれてきた事から、このテーマにおいては「看護婦」と呼ばせていただきます。)


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上がフローレンス・ナイチンゲールです。(1820~1910)彼女はイギリスの裕福な地方地主(「ジェントリ」と呼ばれ、貴族ではないが、それに順ずる階級の人々を指すそうです。ここから紳士を表す「ジェントルマン」という語が生まれたのは容易に想像出来るでしょう。つまりナイチンゲール家は、日本で言えば庄屋とか名主を務めた「豪農」階級でしょうか。また「ナイチンゲール」という変わった家名は、小鳥の一種である小夜啼鳥「さよなきどり、英語名でナイチンゲール」が同家の紋章であった事に由来しています。)であった両親が新婚旅行中に滞在していたイタリアのフィレンツェで生まれ、そのフィレンツェの英語名を取って、「フローレンス」と名付けられました。(彼女の両親はなんと新婚旅行だけで2年間もヨーロッパ中を旅していたそうですから、その裕福さが分かりますね。)

帰国後、彼女の両親はフローレンスをいずれはふさわしい良家(出来れば貴族など)に嫁に出せるよう、金に糸目を付けずに贅の限りを尽くした教育を施し、もともと知能の高かったフローレンスは語学(フランス、イタリア、ギリシャ、ラテン語)哲学、経済学、心理学、歴史、地理、美術などの高い教養を身に付けた才女へと成長して行きます。

この時代は欧米においても女性がこれほどの高等教育を受ける事は、彼女の家の様に裕福な家や、王侯貴族などの身分の高い人々に限定されていました。しかし、せっかくそうした高い教養を身に付けても、残念ながら当時の大学などの高等教育機関では女性を入学させる所はありませんでした。

この時代は欧米でも、女性は

「早く結婚して子供をたくさん産み、夫を支えてよい母親になるのが女性のあるべき姿である。だから女性は学問などしなくて良いし、しても意味が無いのだ。」

という男性的固定観念が支配的であり、当然フローレンスもこれほどの高い教養の持ち主でありながら、実際は無学歴でした。(仕方がありません。この時代は女性を入学させる大学など皆無に近かったのですから。欧米において、大学などの高等教育機関が女性に対してもその門戸を開いたのは20世紀になってからで、あのキュリー夫人ですら大学に入るのは大変だったそうです。)しかし、この時に身に付けた高度な知識が、後に彼女を大きく助ける事になります。

やがてフローレンスは成長するに連れ、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、何不自由の無い自分の暮らしとそれらを比較して大変なショックを受け、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考える様になっていきます。そしてそれは「看護婦」という形で彼女の中に結実し、1851年に当時数少ない看護教育を行っていたドイツの看護学校に留学します。そして帰国後、フローレンスはロンドンの病院で働き始めました。(働くといっても、なんと無給だったそうで、実際はボランティアですね。)

しかし彼女のこうした考えは、母フランシスの激しい反対に遭います。なぜなら当時「看護婦」などという仕事は、身分の低い卑しい者が行うものとされており、やはり同じ良家のお嬢さん出身で気位が高く、苦労を知らずに育ったためにいささかわがままな欠点があった母フランシスは、よりにもよってそんな職に就きたがる娘の考えが全く理解出来ず、この母娘は終生理解し合えなかった様です。

しかし、父親のウィリアムはフローレンスの気持ちを理解し、無給だったフローレンスの生活費などを金銭的に援助したのは父ウィリアムでした。そして彼女がそこで働き始めてから3年後の1854年にクリミア戦争が勃発し、運命の歯車が大きく動き出します。連日の戦況を伝える新聞、そして彼女の目に飛び込んだ野戦病院の悲惨な状況を伝える記事。すでに数少ない看護の専門家として知られていたフローレンスは自ら従軍看護婦として現地に赴く事を政府に希望し、当時のイギリス戦時大臣シドニー・ハーバート男爵は正式に彼女に戦地への従軍を依頼したのです。


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上がナイチンゲールに戦地への従軍看護を依頼したシドニー・ハーバート戦時大臣です。(1810~1861)彼が彼女に従軍を依頼した背景には、負傷兵の扱いに対する市民の政府への批判をかわそうとする政治家としての思惑がありました。

ナイチンゲールは修道女(シスター)24名と、彼女が教育した職業看護婦14名の計38名の女性たちからなる当時としては異例の大看護団を編成し、負傷兵が収容されているイスタンブール郊外の野戦病院へと赴きます。しかし、そこで彼女たちを待っていたのは、想像を絶する過酷な状況でした。とにかく野戦病院などとは名ばかりで、ただ建物内に傷病兵が横たえられて放置されていただけであり、病院内の衛生状態は最悪だったからです。

さらに現地でこれらを取り仕切るホール軍医長官らは、意地とメンツからナイチンゲールらの受け入れを拒否。病院内への立ち入りを禁止してしまいます。

「素人女どもごときに何が出来る。戦場からはいくらでも負傷兵が運ばれてくるのだ。もう死にそうな連中の看護のために、あんな女どもに大事な医薬品を任せられるか。」

ホール長官ら現地軍の後方医療部隊首脳らのナイチンゲール看護団に対する態度は、こうした信じられないほどの無理解なものだったのです。

このままでは病院に入る事が出来ません。といって何もせずに本国に引き返せば、今まで重ねて来た苦労が水の泡です。しかし、ナイチンゲールはこの程度の事であっさりと諦めてしまう様な意志の弱い女性ではありませんでした。そこで彼女は別の方法を思いつきます。それは病院内の便所の担当がどこの部署でもなかったのに目を付け(便所の担当など誰でも嫌がりますからね。笑)まず便所掃除から始めたのです。この作戦は大成功でした。ホール長官らにとって最もやりたくない仕事をナイチンゲールたちがやると言っているのです。部下から報告を受けた長官は、

「便所掃除ならやらせて良かろう。物好きな女どもに好きにさせておけ。そのうち嫌になって逃げ帰ってしまうだろう。」

そう言って病院内にナイチンゲールたちが入る事を許可します。こうして看護団は病院内に居場所を設けたのです。しかし、これはナイチンゲールの巧妙な作戦の一つに過ぎませんでした。そもそも彼女らの本来の仕事は負傷兵の看護です。そのために苦労してはるばるこの地へやって来たのです。そこでナイチンゲールは看護団にその権限をもらうため、とっておきの「強力な味方」に応援を頼みます。その「強力な味方」とは、誰あろうヴィクトリア女王でした。


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上が大英帝国女王ヴィクトリアです。(1819~1901)彼女が在位した60年余の治世は、イギリスが最も繁栄した栄光の時代であったのは良く知られていますね。ナイチンゲールはこのヴィクトリア女王に現地の深刻な状況を手紙で報告し、同じ女性として共感した女王は政府に野戦病院の改善を命じます。(女王命令。まさに「最強の味方」ですね。これには現地軍幹部も手も足も出ないでしょう。ホール長官の苦虫を噛み潰す顔が目に浮かびますね。笑)

女王の命により現地軍幹部らの抵抗はなくなり、ナイチンゲールは晴れて病院看護の総責任者として辣腕を振るう事になるのです。それからの彼女は水を得た魚の様に仕事に没頭していきます。まずは最悪だった病院内をきれいにするために徹底して病室を洗浄し、放置されるままの負傷兵たちをシーツを敷いたベッドに寝かせ、十分な医薬品と清潔な包帯で傷を手当し、負傷兵たちの痛みを分かち合うために優しく声をかけ、夜になってもランプを片手に毎日の夜回りを欠かしませんでした。


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上はそのイメージです。一般に看護婦さんを表す代名詞として良く使われる「白衣の天使」というのは、看護婦の白い制服に由来しますが、実際のナイチンゲールは上の様に黒衣に白いエプロンを着けた姿だった様です。

ナイチンゲールの一連の病院改善策により、それまでなんと42%にも上っていた野戦病院の死亡率は5%以下にまで下がり、劇的な改善を遂げました。(このひどい死亡率の原因は負傷によるものではなく、病院内の不衛生による感染症の蔓延が原因でした。ナイチンゲールが最初に始めた「便所掃除」は、決して病院に入り込むための口実というためだけではなかったのです。)

そして何より、それまで劣悪な環境に放置され、絶望していた傷病兵たちにとって、ほのかで暖かいランプの明かりを片手に毎夜欠かさず夜回りをして自分たちを優しく見守る彼女の姿は、この世の人とは思えない「戦場に降りた天使」に見えた事でしょう。

そして月日は流れ、ナイチンゲールがイスタンブールに着任してから2年後の1856年3月、20万の戦死者を出したクリミア戦争はロシアの敗北で終わり、講和条約締結後、最後の患者の帰国を見届けたナイチンゲールは同年8月にイギリスに帰国します。

この時、すでに一連の活動によりイギリス本国で「クリミアの天使」と呼ばれて有名になっていた彼女でしたが、偽名を使ってこっそり帰国しています。(国民的英雄に祭り上げられる事を嫌がったのです。それほど無私無欲な人でした。)その後彼女はクリミア戦争での経験を生かし、イギリスに最初の専門的看護学校を設立して、現在に近い看護婦養成体制の構築に人生を捧げますが、彼女自身は裏方に徹して公の場に出る事はなくなります。

なぜなら、このクリミア戦争での2年間でナイチンゲールは精根使い果たし、帰国してから亡くなるまでのほぼ50年余りをベッドで過ごさなければならないほどになってしまったからです。


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上が晩年のナイチンゲール女史です。彼女はクリミア戦争終結後は体調を崩し、ほとんどベッドで過ごさざるを得なくなってしまいます。しかしそんな不自由な状態であっても、ナイチンゲールの看護への情熱と思い、そして明晰な頭脳はいささかも衰える事はなく、以後彼女は精力的に執筆活動に勤しんで人々へ看護の重要性を啓蒙していきます。彼女の作品の代表作として「看護覚書き」があり、これは全世界の看護婦さんが肌身離さず身に付けている看護婦のバイブルとなっています。(細身だったお若い頃に比べてすっかりやさしそうなお婆ちゃんになっていますね。笑)

1910年8月、世界の歴史に名を刻む数少ない偉大な女性の一人フローレンス・ナイチンゲールは90歳の長寿を全うして亡くなります。生涯独身でした。かつて人々に「天使」と呼ばれた偉大な女性は、今度は本物の「天使」となってこの世を去ったのです。(歴史に登場する有名な女性は、失礼ながら欲と嫉妬に満ち溢れる悪女が多いのですが、彼女に関してはそういう子供じみた次元の低い感情的な部分がない本当の「大人の女性」として、先に少し触れた「キュリー夫人」と並んでいくらでも賞賛されるべき稀有な存在でしょう。男性の目から見ても全く非難する点など見当たりませんね。)


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ナイチンゲールが創始した「近代看護制度」は現在も世界中で脈々と受け継がれ、看護学校の戴帽式では上の様に、かつて戦地で毎晩見回りを行ったナイチンゲールにあやかって、講堂でキャンドルに灯した火のやわらかい光の中で、看護師を目指す若い女性たちが「ナイチンゲール誓詞」を読み上げるのだそうです。それは次の様なものです。

・われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。

・わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさん事を

・われは全て毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いる事なく、また知りつつこれをすすめざるべし

・われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせん事をつ務むべし

・わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事の全て、わが知りえたる一家の内事の全て、われは人にもらさざるべし

・われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん

これはナイチンゲール本人の作ではなく、彼女の偉業を称えて後にアメリカの看護学校関係者によって作詞され、医者を目指す医学生が読み上げる古代ギリシャの医学者ヒポクラテスにちなんだ「ヒポクラテスの誓い」にならって伝統的儀式となったものです。こうしてナイチンゲールの思いは160年の時を越え、今も看護の道に進もうとする全世界の崇高な女性たちに受け継がれているのです。

次回に続きます。
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