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皇帝たちの失敗 ・ 昔の栄華今いずこ

みなさんこんにちは。

1853年に勃発したロシア・トルコ間の第10次露土戦争、いわゆるクリミア戦争は、3年の死闘の末双方合わせて20万以上の戦死者を出し、1856年に終結しました。この戦争はもともとロシアとオスマン帝国2国間での戦争でしたが、これ以上のロシアの南下とバルカン半島への進出を食い止めたいイギリス、フランスなどがオスマン帝国に味方して参戦し、一気に国際戦争へと発展したものでした。

このクリミア戦争は、歴史上の位置付けでは「ロシアの敗北」という事になっていますが、現実には「勝者のいない戦争」といっても過言ではありませんでした。なぜならこの戦争に参戦した4カ国は、その全てが大きく疲弊し、その挙句に物理的に得られたものは何一つ無かったからです。(クリミア戦争の戦後処理をめぐってパリで行われた講和条約では、ロシアがオスマン帝国から奪い取った領土を返還する事を各国が認めるというものでした。つまり、開戦前の状態に戻っただけで、参戦各国が莫大な戦費をかけて得られたものは、「束の間の平和」だけだったからです。)

さて、この時期に本テーマの主役であるオスマン帝国の皇帝だったのはアブデュルメジト1世という人でした。


Abdulmecidrupenmanas1.jpg

上がオスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世です。(1823~1861)彼は16歳で即位し、父の代から続く帝国の近代化を継承して、帝国の古い体質を根底から覆すために様々な改革を試みた皇帝でした。

アブデュルメジト1世は若くして即位したためか、当初は改革に非常に熱心で、実際彼の治世の最初の10年ほどは、信頼する宰相レシト・パシャの補佐を受けて改革は着実に進むかに見えました。しかし、そこへ思わぬ邪魔が入ります。オスマン帝国にとって恒例のロシアの魔の手が北から迫ってきたのです。それが「クリミア戦争」でした。もちろん皇帝は新鋭のオスマン軍を総動員してこれに立ち向かいますが、近代戦の経験の浅いオスマン軍は各地で苦戦と敗退がを重ねてしまいます。そこで彼はとにかくロシアの南下を防ぐため、イギリスとフランスに貿易上の関税特権を与えるなど、不平等を承知でなりふり構わず助けを求めたのでした。

こうして苦労してロシアを退けたアブデュルメジト帝でしたが、この戦争中に彼の改革のスピードは停滞してしまいます。その一番の理由は財政、つまり「お金」の問題です。なぜなら本来戦争が無かったなら改革に振り向ける事が出来た資金が、みな戦費に費やされてしまったからです。それに、もうこの時代オスマン帝国の国家財政はとうの昔に債務超過していました。もともとこれまで行ってきた帝国の近代化と改革のための費用も、足りない部分はオスマン帝国政府発行の公債によって、イギリスやフランスなどの列強諸国から借り入れて行っていました。(アブデュルメジト1世の改革の物理的集大成として今日に残るのが、旧トプカプ宮殿をうち捨てて新たに彼が造営した西洋式宮殿であるドルマバフチェ宮殿ですが、その莫大な建設費用も、大半はこれらの公債によってまかなわれていました。)

やっと戦争が終わっても、今度はこれらの負債がオスマン帝国に重くのしかかってきたのです。(当然それらは大幅な「増税」という形でトルコ国民に負担を強いる事になり、国民の不満は皇帝政府に向けられていきます。)さらに不幸は続きます。クリミア戦争終結から2年後の1858年、皇帝が最も信頼する宰相レシト・パシャが亡くなり、皇帝は国政を相談する相手がいなくなってしまったのです。

お金も無く、周辺の国々は敵だらけなのに、かつて世界最強を誇った軍隊は、今では三流以下で「戦えば負ける」という体たらく、そしてプライドを捨て、恥を忍んでイギリスやフランスに助けを求め、領土や特権を切り売りして必死の思いで戦争をしのいだのに、今度は増税に反対する国民がいう事を聞かず、帝国各地で暴動を起こす。どうすれば良いか誰かと対策を相談しようにも、信頼出来る経験豊かな大臣もいない。この様な状況で一人孤立した皇帝は次第に無気力になり、その孤独を紛らわす様に酒と遊びにうつつを抜かす様になってしまいます。つまり、アブデュルメジト1世はあれほど熱心だった改革を完全に投げ出してしまったのです。

何かやろうと思い立ち、勇んでプランだけは立派に立てても、あれやこれやの邪魔が入ってうまく行かず、結局嫌になって止めてしまう。こんな経験は誰しも一度はあるのではないでしょうか? かく言う自分などしょっちゅうだったので、心情的には彼の気持ちがとても良く分かります。自分の場合はだらしがないのが原因ですが。(笑)

純粋な精神と気高い理想を持った誇り高い人物ほど、その理想が現実によって挫折し、失敗した時の心身への衝撃は計り知れないほど大きいものです。彼の場合はまさにその典型でした。クリミア戦争終結から5年後の1861年、新たな帝国を夢見たロマンチスト皇帝アブデュルメジト1世は39歳の若さで崩御してしまいます。

代わって新たに帝位を継承したのは、先帝より7歳年下の弟アブデュルアジズでした。


Sultan_Abdulaziz_of_the_Ottoman_Empire.jpg

上がオスマン帝国第32代皇帝アブデュルアジズです。(1830~1876)彼はオスマン帝国歴代皇帝でも数少ない単独名の皇帝です。なぜなら彼の後に正式に皇帝として即位した人物で彼と同名の者がいないからです。また彼は歴代皇帝でも稀に見る大変な巨漢で、写真をご覧になればお分かりの様に、外見は皇帝というよりたくましいプロレスラーみたいですね。(笑)

アブデュルアジズ帝は兄帝とはまた違う方向に目を向けた皇帝でした。彼は兄や父をはじめ、歴代の皇帝たちが改革に失敗したのは、皇帝自身が帝都イスタンブールから一歩も離れず、外の世界をあまりにも知らなかったためだと考え、オスマン皇帝としては初めて「遠征」以外の目的で自ら西欧諸国への外遊を決意します。

折りしも当時の西欧諸国、とりわけ産業革命を成功させたイギリスとフランスの発展が著しく、英仏両国は何かと激しく競い合っていました。その最も目に見えた形での表れが「万国博覧会」です。


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上が1867年の第2回パリ万博の会場であったトロカデロ広場です。(現在は1937年に新たに建てられたシャイヨ宮殿となっています。パリの万博は終始この付近一帯で行われました。)この万国博覧会というものは、簡単に言えば参加各国の誇る優れた技術や文物、商品などを持ち寄り、それらを各国の割り当てのエリアで展示して訪れた多くの人々に見てもらい、経済・文化交流の促進を図ろうというもので、1851年にイギリスのロンドンで第1回万国博覧会が開かれたのを最初に、その後も主に英仏両国で20世紀初頭まで交互に盛んに行われました。

新しい物好きのアブデュルアジズ帝は即位6年目に開かれた第2回パリ万博を訪れ、そこで様々な物を見物するうち、西欧諸国の先進さと発展ぶりに大きな衝撃を受け、それと比較して全ての分野ではるかに遅れたオスマン帝国の実態を痛感させられます。


parihaku.jpg

上がパリ万博を見物して回る各国の君主や代表たちの姿を描いた絵です。アブデュルアジズ帝は左端にいます。また右から2番目の衣冠姿の小柄な人物は、わが日本の代表として訪問していた徳川昭武です。

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上がその徳川昭武公です。(1853~1910)彼はこの時まだ14歳の少年で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の弟にして、水戸徳川家最後の当主でもあります。当時フランスの支援を受けていた兄慶喜の名代として、大勢の幕臣とともに訪欧していました。しかし、翌年すぐに戊辰戦争により幕府は倒れ、役割を失った彼らも明治維新とともに帰国しますが、この時に西欧文明にすっかり魅了された彼は、いち早く窮屈な衣冠装束を脱ぎ捨てて洋服を召し、写真、時計、自転車、鉄道などの最先端の文明の利器に親しむ様になります。彼を西欧に派遣した兄慶喜とは大変仲が良く、明治維新後は華族として子爵号を賜り、同じく新しい物好きであった兄慶喜と親しく交流し、仲良く平穏な人生を歩みました。(ちなみに彼は、今上天皇陛下の弟宮である常陸宮正仁親王殿下の奥様である華子妃殿下の母方の曽祖父に当たる人です。)

さて、話をアブデュルアジズに戻しますが、この西欧外遊ではパリ万博で目にした多くのもの以外で最も皇帝の心を魅了した「あるもの」がありました。それは西欧各国が競って建造していた蒸気装甲軍艦です。


LaGloirePhotograph.jpg

上がその装甲艦です。この時代は動力は風任せで多くの帆を張ったそれまでの木造帆船型の軍艦から、蒸気機関で舷側の外輪を回して進み、同じく舷側に分厚い装甲を施したこの様な軍艦が各国で続々と就役していました。

訪問した各国の港を埋め尽くす装甲軍艦の艦隊を目の当たりにした彼は、すっかりその虜になってしまいます。思えばオスマン帝国は、その建国当初から陸軍国であり、海軍は伝統的に弱く、これまで重要視されて来ませんでした。しかし、この時皇帝は、オスマン帝国に大艦隊を創設し、イギリスの様な大海軍国となって海外に植民地を広げ、それによって新たな富を帝国にもたらし、オスマン帝国を再び栄光と繁栄に導こうという途方も無い夢を抱いたのです。

外遊から帰国した彼は、ただちに海軍力の強化に乗り出します。大量の軍艦建造のために海軍先進国イギリスから大勢の技術者とベテラン工員が招かれ、建造された軍艦の操艦にもこれらの外国人の艦長や機関長、航海長が配されます。こうして「いけいけどんどん」で多くの軍艦が建造された結果、アブデュルアジズ帝の在位末期の1875年には、オスマン帝国は大型装甲艦20隻を主力として、中、小型を合わせて合計200隻の大艦隊を保有し、艦艇の数ではイギリス、フランスに次ぐ当時世界第3位の海軍国にのし上がります。

しかし、皇帝のこの大海軍計画は、最初から無謀なものでした。なぜなら「大艦隊が欲しい。」というあまりにも単純な発想の元で事を急いだために、建造された艦艇の建造費用の多くはまたも公債で賄われ、また見た目の数を増やすために外国から中古の艦艇も買い揃えた結果、帝国の国家財政をさらに悪化させ、「破産」に近い状態に陥る事になってしまったからです。

さらにこれらの軍艦を動かす乗組員も、艦長以下多くがイギリスなどの「お雇い外国人」を高給で雇い入れ、さらに艦艇を建造するドックや工廠なども、ほとんどがこれらの人々でした。つまり、海軍や船を作るために必要な知識や技術が、ほとんどトルコ人に根付く事が無かったのです。またこの時代は軍艦の建造技術の過渡期であり、構造の全てが鋼鉄製の軍艦が登場し始めると、せっかく莫大な費用をかけてそろえた大艦隊も、すぐに旧式化してしまう事になってしまいました。

アブデュルアジズ帝は残念ながら「お金」に関しては無頓着だった様です。これはこの王家の遺伝的特徴なのですが、君主がそれで良くても、帝国を運営する大臣などの政治家たちにはたまったものではありません。ただでさえ膨大な負債で数十年先まで首が回らない上に、増税による国民の不満がいつ大暴動に発展し、帝国が崩壊してしまうか分からないからです。そこで1876年、これらの改革派政治家の代表であった宰相ミドハト・パシャを中心とするグループがついに行動を起こします。

ミドハト・パシャは皇帝を廃位し、新たに別の皇帝を立てたのです。廃位されたアブデュルアジズは幽閉され、同年失意の内に亡くなります。(彼はまだ47歳の若さであった事から、毒殺が疑われていますが、真相は定かではありません。)

こうしてマフムト2世に始まる親子兄弟3人の皇帝たちによるオスマン帝国近代化計画は、彼らが思い描いた理想とはかけ離れた姿で中途半端に頓挫してしまったのです。後にオスマン帝国に残されたものは、皇帝たちの夢の跡であるいくつかの宮殿と積もり積もった膨大な負債、そして一度も使われる事なくそのほとんどが解体される事になる「役立たずの大艦隊」だけでした。

しかし、アブデュルアジズ帝が彼なりの理想の下に夢を抱いて建造させたこれらの大艦隊のうち、ある1隻の軍艦が、後にわが日本とトルコの友好の礎として長く両国の歴史に刻まれる事になろうとは、この時誰も予想だにしませんでした。その軍艦の名は「エルトゥールル号」 やがてこの艦は遠い異国の地である日本でドラマチックな最後を迎えるのですが、それについては別の機会にお話いたしましょう。

次回に続きます。
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