エルトゥールル号遭難事件 ・ 永遠の友好を運んだ船

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、帝国に迫る内外の危機感から、19世紀の初めから70年以上の時間をかけ、3代の皇帝たちが着々と進めてきた近代国家への脱皮は、周辺国との絶え間の無い戦争や、イスラム国家独特の国内問題などが複雑に絡み合い、それを推し進めて新たな帝国を夢見た皇帝たちの理想とは大きくかけ離れた「不完全」なものに終わりました。

特に、アブデュルメジト1世、アブデュルアジズ帝の皇帝兄弟が次々に行った大宮殿の建設と、海軍力増強のための見境の無い大艦隊計画によって、帝国はイギリス、フランスなどのヨーロッパ列強諸国に膨大な債務を負ってしまい、それが帝国の国家財政を大きく圧迫し、逆に帝国をさらに弱体化させる結果となってしまったのです。

この皇帝たちの失敗は、それまで皇帝たちを信じ、皇帝家を盛り立ててオスマン帝国に再び栄光を取り戻そうと同じ夢を見て従ってきた人々を大きく失望させました。そしてその筆頭である宰相と大臣たちからなる帝国政府の改革派政治グループは、もはや皇帝を当てにせず、自分たち政治家による健全な国家運営を目指し、これまでとは全く違った方法で帝国の改革を行っていく決意を固めました。

「一連の改革の失敗は、国家の政策の全てを皇帝一人の独善によって進めるという、ほとんど専制時代と変わらないやり方で行った事が大きな原因である。国家には君主と国家が遵守する基本となる法、すなわち憲法が必要なのだ。」

こう主張したのが、アブデュルアジズ帝の下で帝国宰相を務めた改革派のミドハト・パシャでした。


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上がそのミドハト・パシャです。(1822~1884)彼は大変有能な官僚で、若い頃から地方で行政経験を積み、さらに先進国イギリス、フランスにも派遣されて両国の進んだ立憲国家のあり方を熱心に研究し、やがて皇帝に次ぐ帝国のトップである宰相に登り詰めると、オスマン帝国をヨーロッパ諸国の様な立憲君主国家とするために動き出します。

ミドハト・パシャはオスマン帝国を西欧型の立憲君主国とするため、「憲法」の制定を計画したのです。この憲法というものは、私たち一般人の感覚では国の最高法規であり、国民全てがまず守らなくてはならない全ての法律の「王様」の様に思われている場合が多いのですが(自分だけでしょうか?笑)実際は憲法と云うものは君主と国家が守るべきものなのです。

つまり、憲法というものは国民が守るものではなく、君主と国家(正確には政治を行う政治家や議員、官僚などの政府)が国を運営していく上で、憲法の条規に従って統治していかなくてはならない「縛り」のための法なのです。(そういう「縛り」が無ければ、国は君主と政府の思うまま「やりたい放題」になってしまうからです。それゆえに憲法は全ての法律の中で別格扱いになっています。)

3代のオスマン皇帝たちが帝国の改革に長い時間をかけつつ失敗したのは、ロシアなどの周辺国との戦争が続いた事もありますが、国政を皇帝個人の独断に委ねてしまうため、例えば先帝アブデュルアジズ帝が行った大海軍計画の様な無謀なものに対しても、オスマン帝国にそうした君主の無茶な政策を許さない「縛り」の仕組みが無かった事が大きな原因でした。(君主の行動を制限する法がないのですから、皇帝の「やりたい放題」になってしまうのは当然ですね。)そのため皇帝たちは理想ばかり夢見て国家財政の逼迫を顧みずに膨大な借金を作ってしまったのです。

ミドハト・パシャは1876年、この憲法の制定のために主君であるアブデュルアジズ帝を廃位し、代わってその甥であるムラト5世を即位させます。しかしこの人選は失敗でした。この人物はミドハトの立憲制には理解を示した進歩的な人でしたが、先帝アブデュルアジズ帝にそれを疎まれ、長く監視されていたためにすっかり精神を病んでいたからです。

仕方なくミドハト・パシャは彼をたった3ヶ月で退位させると、その弟アブデュルハミト2世を擁立します。


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上がオスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世です。(1842~1918)彼はこの時34歳で、叔父帝アブデュルアジズの西欧外遊にも進んで同行するなどで、宰相ミドハト・パシャから開明的な人物として皇帝に擁立されました。しかし、後にミドハトは、それが大きな間違いであった事を思い知らされてしまいます。

ミドハト・パシャはベルギーの憲法を参考に1876年ついにオスマン帝国憲法の発布にこぎつけます。これによりオスマン帝国は、それまでの皇帝専制の中途半端な体制から、皇帝を名目上の君主とし、政治は皇帝の勅撰による名門有力者からなる上院と、民選の下院からなる帝国議会の多数決によって決する立憲君主制国家となったのです。(わが日本がドイツ憲法を参考に大日本帝国憲法を制定したのが1890年ですから、トルコはわが国より14年も早く近代憲法を作っていた先輩なのです。)

しかし、この時ミドハト・パシャは大きな過ちを犯していました。それは彼が名目上の君主として即位させたアブデュルハミト2世がそれを望んでいなかったという事です。皇帝は憲法の制定を認める代わりに、憲法の条文に戒厳令の行使や「国家の危険人物は皇帝の勅命で国外追放に出来る。」などの強い権限を皇帝のものとして要求し、憲法の制定を急ぐミドハト・パシャはそれを認めてしまいます。

これが彼の失敗でした。玉座に座ってただ大臣たちの差し出す書類にサインするだけのお飾りの君主になるのを嫌った皇帝はその条文を利用し、なんと宰相ミドハト・パシャを「国家の危険人物」として解任、国外追放してしまったのです。(後に彼は先帝アブデュルアジズ帝暗殺の首謀者として逮捕、処刑されてしまいます。)こうした皇帝の勝手なやり方は当然出来たばかりの帝国議会で大きな批判を浴びます。業を煮やした皇帝は折りしも勃発していたロシアとの戦争を理由に非常事態を宣言。つまり「戒厳令」を行使して邪魔な存在である議会も解散してしまいます。こうしてミドハト・パシャが苦労して築いた立憲君主制オスマン帝国は、たった1年2ヶ月でもろくも瓦解してしまったのです。

以後オスマン帝国は、アブデュルハミト2世によって1908年まで30年間に亘る長い専制体制が続く事になります。帝国は再び古い皇帝専制の時代に逆戻りしてしまったのです。

権力を取り戻したアブデュルハミト2世がその後に行った事は、文字通り典型的な「独裁恐怖政治」でした。彼はイスタンブールのユルドゥズ宮殿に居を構えると、皇帝直属の秘密警察を創設して密告を奨励、軍隊を動員して彼の政策に反対する国民を弾圧、彼の治世に殺された者は数知れず、そのため彼はオスマン帝国歴代皇帝の中で最悪の「血まみれの皇帝」として名を刻む事になるのです。


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上がアブデュルハミト帝が玉座を置いたイスタンブールのユルドゥズ宮殿とその内部です。コンパクトながら美しい宮殿ですが、この宮殿の主アブデュルハミト帝の行った恐怖政治は、宮殿の「美しさ」とはまるで正反対の「醜い」ものでした。しかし、後にそれはやがて皇帝自身に跳ね返ってくる事になります。

そんな皇帝の元に、同じアジアの東の端に位置するはるか極東の島国が、驚異的なスピードで近代化を成し遂げつつあるという話がしきりに入って来る様になり、そのやり方はともかく帝国の近代化自体には大賛成であった皇帝は、大いにその国に対する興味を抱く様になります。その国の名は「日本」それまでオスマン帝国では聞いた事もない未知の国でした。

アブデュルハミト2世はこの未知の国日本に対し、同じ皇帝の治める帝国として、親善と友好的外交関係樹立のため、1隻の軍艦を差し向けます。その軍艦の名は「エルトゥールル号」かつて彼の叔父である先帝アブデュルアジズ帝が見境無く建造した大艦隊の中の1隻でした。


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上がその「エルトゥールル号」とその乗組員たちです。この艦は1864年に建造された全長76メートル、乗員600名ほどの中型フリゲート艦です。(この「エルトゥールル」という名は、オスマン皇帝家の帝祖である初代オスマン1世の父親の名から命名されたものです。またこの時代の船は蒸気機関でスクリューを回して進むタイプに進化していましたが、燃料である石炭の節約のため、昔ながらの帆走設備も兼ね備えていました。)1889年7月、この船は皇帝の命を受けてイスタンブールを出航、完成して間もないスエズ運河を通り、紅海からインド、東南アジアを経て、およそ1年がかりの大航海の末1890年6月に日本の横浜港に到着しました。

トルコ使節団は皇居にてわが明治天皇の謁見を賜り、アブデュルハミト帝からの親書を明治帝に奉呈、西欧列強諸国でない遠い異国からの「珍しいお客さん」という事で、当時の日本の人々から大歓迎を受けます。

しかし、同年9月になって帰国のため出航した彼らに思わぬ悲劇が降りかかります。折りしも台風の季節であったため、船は和歌山県の南端の大島村(現串本町)沿岸近くであえなく座礁沈没、多くの乗組員が荒れ狂う海に投げ出されたのです。幸い座礁地点が沖合いではなく海岸から50メートルも離れていなかったため、何とか海岸に泳ぎ着いた69名が当時の大島村の人々によって助けられましたが、587名もの死者を出す大惨事となってしまいました。

こうして付近の人々に助けられたトルコの生存者たちは、村人たちの手厚い救護を受けて神戸に送られ、翌1891年1月に日本海軍の軍艦2隻に分乗してようやく故郷のトルコに帰国出来たのです。

この時最初にトルコの生存者たちを救った大島村の人々が、台風のために漁に出られず、サツマイモや卵、にわとりなど、貧しい当時の村人たちの貴重な食糧まで差出して生存者に与えた事や、日本全国から多くの弔慰金が集められた事、当時としては極めて迅速に日本政府が対応した事に対し、オスマン帝国内では新聞などで大きく報道され、当時のトルコの人々は遠い異国の恩人である日本人に対して感謝の念と好印象を抱いたそうです。

この事件は、事故そのものは大勢の犠牲者を出した悲劇でしたが、日本とトルコが初めて出会い、厚い友情で固く結ばれるきっかけとなる最初の出来事でした。その後、両国の関係は歴史の大きなうねりの中で疎遠になってしまい、いつしか日本国内では「エルトゥールル号沈没事件」そのものが忘れ去られてしまいます。しかし、一方で日本人がどこかに置き忘れてしまった義理と人情に厚いトルコの人々は、この事件を忘れる事なく語り伝えていたのです。

そしてエルトゥールル号事件から95年の時を経た1985年(昭和60年)今度は日本がトルコに助けられる事になります。昭和世代の日本人にとっては今だ記憶に新しいイラン・イラク戦争において、当時のイラク大統領サダム・フセインは、イランとそれに味方する国々の航空機に対して無差別攻撃の宣言を行ったのです。

その時イランの首都テヘランには200名以上の在留日本人がいましたが、当時の首相中曽根康弘氏率いる日本政府は、救い様のない平和憲法の制約からこれらの救出のために自衛隊を動員出来ず、また当時の日本政府は自由に使える「政府専用機」も保有していませんでした。さらに日本航空などの民間航空会社からも

「イラン上空の安全が確保されなければ飛行機は出せない。」

としてイランへの救援機派遣を拒否されてしまいます。当時の中曽根内閣は八方塞で手の打ちようがありませんでした。


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上は当時の中曽根首相です。忌々しい現行憲法ではこの様な事態は全く想定されていなかったため、議会において野党に責任を追及されて苦悩している彼の姿です。(ちなみにこの事件を教訓にその後自衛隊法が改正され、現在では在外邦人の救助のための自衛隊の動員が可能となっています。)

そこへ救いの手を差し伸べてくれたのがトルコでした。トルコ政府は95年前のエルトゥールル号の恩返しとして、自国民の救出より日本人救出を優先させ、危険を顧みずにテヘランに救援機を飛ばせてくれたのです。到着したトルコ航空の飛行機に搭乗した日本人215名はトルコに到着、無事に日本へ帰国する事が出来ました。(この時イランには、日本人よりはるかに多い500人ものトルコ人がいたそうですが、彼らは陸路車でイランから脱出するしかなかったそうです。我々日本人はこの事実を子々孫々まで語り継ぎ、そうまでしてくれたトルコの人々に対して感謝しなければなりません。涙)

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上は日本の安倍首相とトルコのエルドアン首相(現在はトルコ大統領)です。

現在でもトルコは世界の国々でも群を抜く大親日国として、両国の関係は世界でこれほどのものはないほど良好であり、トルコは事ある毎にわが日本に対して協力してくれる真の友邦国です。(最近決まった2020年の東京オリンピックの開催も、トルコのイスタンブールと競い合ったのですが、わが東京に決まったのはトルコ側が「譲ってくれた」のではないかと勝手に思い込んでいる今日この頃です。笑)

このエルトゥールル号は、日本とトルコを結びつけ、両国間に永遠の友好を運んでくれた忘れるべからざる船なのです。

次回に続きます。
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