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伊土戦争とバルカン戦争 ・ 帝国滅亡の足音

みなさんこんにちは。

時は20世紀初頭、オスマン帝国では皇帝アブデュルハミト2世による独裁統治が続いていました。彼の統治は苛烈を極め、皇帝の政策に反対する者はもちろん、疑わしい者まで密告と秘密警察によって徹底的に逮捕、投獄、処刑し、そのためトルコ国民は、30年もの長い暗黒時代を耐え忍ばなければならない事になります。

しかし、皇帝はやりすぎました。彼のこうした恐怖政治は、それまでオスマン帝国の人々にとって帝国の最高権力者であると同時に、イスラムの神アッラーの代理人であるカリフを兼任する畏敬の絶対的存在であったオスマン皇帝に対して怒りと憎しみの感情を抱かせ、やがてそうした人々が集まって国外で組織が結成されていきます。


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上がオスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世(1842~1918)と、彼の恐怖政治を非難する当時の欧米新聞のイラストです。(真っ暗な背景で、ひときわ大きなトルコ刀の前に浮かび上がる皇帝の顔。彼の耳にはイヤリング代わりに死者の墓標である十字架が描かれています。)彼は対外的には、前回お話した豪華列車オリエント急行の帝都イスタンブールまでの招致や、これも以前お話したわが日本との友好の架け橋となった「エルトゥールル号」の派遣といった一定の成果はありましたが、国内における彼の治世は先に述べた様に暗く、血にまみれたものでした。

アブデュルハミト2世がここまで冷酷になっても守ろうとしたものは、なんといっても第一にオスマン皇帝家の永続と自身の宮廷、政権のため、つまり、全ては己がための極めて利己的なものでした。(皇帝の頭では、帝国はあくまでオスマン家の「私物」であり、国家も人民も全て主権者たる皇帝の「所有物」であるという信じがたいものだったのです。)

こうした帝国の現状を憂いた人々は、国内ではなく国外(主にギリシャ)において、アブデュルハミト帝による政治の打倒と、現皇帝が1876の即位後1年余りで停止させたオスマン帝国初の憲法と、立憲君主体制の復活を求めて活動を開始していきます。

そしてついに1908年7月、当時はまだオスマン領であった現ギリシャのテッサロニカで軍による反乱が勃発します。怒った皇帝は当地に討伐軍を差し向けますが、あろう事かその軍隊まで反乱軍に加わって皇帝に反旗を翻します。形勢が逆転した反乱軍は帝都イスタンブールに無血入城を果たし、皇帝に対して立憲態勢の復活を要求しました。事態の急変に驚いた皇帝はやむなく立憲体制の復活を認め、ここに30年続いたアブデュルハミト2世の親政は終わりました。反乱軍のメンバーはこの立憲革命の英雄として市民に歓呼で迎えられ、その中心となったのは下の3人の人物でした。


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上から1枚目が陸軍部隊の指揮官エンヴェル・パシャ(1881~1922)後に彼は陸軍大臣に就任します。2枚目が同じくジェマル・パシャ(1872~1922)彼もエンヴェル・パシャと同じ陸軍の軍人ですが、後に海軍大臣となります。3枚目は行政官僚のタラート・パシャ(1874~1921)です。彼は先の2人とは違って軍人ではないため、(何と元は郵便局長だったそうです。)警察を取り仕切る内務大臣に就任、さらにその後首相になります。(ここで彼らの名の下に付いているこの「パシャ」というものについて説明させていただくと、この「パシャ」というのはオスマン帝国において、国家に大功ある高貴な位の人物に対して皇帝から与えられる称号で、名字ではありません。つまり、イギリス貴族の騎士すなわち「~卿」を表す「サー」などと同様に考えていただくと良いでしょう。)

彼ら3人はオスマン憲法と立憲制を復活させると、1909年に議会でアブデュルハミト帝の廃位を議決、アブデュルハミト2世は帝国史上初めて多数決の議会で廃位された皇帝となります。オスマン帝国議会は先帝の弟メフメト5世を新たな皇帝として擁立し、先帝に悪用された憲法の欠陥部分(皇帝による戒厳令と危険人物の国外追放などの特権その他)を改正し、皇帝が二度と国政に関与できない様にしてしまいます。この時から、オスマン皇帝は事実上のお飾りの存在になったのです。そしてオスマン帝国は新体制の下で新たなスタートを切る事になりました。


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上が新たに即位したオスマン帝国第35代皇帝メフメト5世です。(1844~1918)彼は政治的権力の無い完全な名目上の皇帝として初めて登場しました。

しかし、ようやく過去の清算を果たして新たな国づくりを始めようとしたオスマン帝国に新たな敵が戦いを挑んできました。それはイタリアです。1911年9月末、イタリアはかろうじて北アフリカに残っていた最後のオスマン領であるリビアの割譲をオスマン帝国に要求し、当然の事ながらオスマン帝国がこれを拒絶すると、10月に入り一方的に宣戦を布告し、リビアに遠征軍を上陸させてきたのです。これがイタリア・トルコ戦争(伊土戦争)と呼ばれるものです。

これまでの歴史で、オスマン帝国はロシア、オーストリアなど数多くの敵と戦って来ましたが、今回の敵イタリアは1861年に成立した新興国であり、帝国にとって初めて戦う敵国でした。それではなぜイタリアはオスマン帝国に戦いを挑んできたのでしょうか?

当時イタリアは、国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世を君主とする王国でしたが、それまで長く小国に分かれていたイタリア半島が一国に統一されたのは1861年になってからであり、イギリスやフランスなどの様な他のヨーロッパ列強に比べて海外植民地獲得競争に出遅れていました。そのため国家が統一されても国内経済は常に不況であり、イタリア国民は貧しく、日々の暮らしにあえいでいたのです。

次第にイタリア国民は、他の列強諸国の様に植民地獲得を王国政府に求める様になっていきます。そこで、当時のイタリア首相ジョバンニ・ジョリッティは国内世論と経済苦境の打開のため、ついに海外遠征を計画します。その標的となったのがイタリアに最も近い北アフリカのリビア地域でした。


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上が当時のイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世です。(1869~1947)彼はイタリア王国サヴォイア朝3代国王で、イタリアを統一した優れた祖父である同名の2世の名を父王から与えられていましたが、その47年に及ぶ長い在位は、後のイタリア独裁者ムッソリーニ率いるファシスト党や、二度の世界大戦に翻弄される波乱に満ちたものでした。(ちなみにこの王様は写真では分かりにくいですが大変小柄な人物で、身長は153センチしかなかったそうです。ご本人はそれを大変気にしており、生涯のコンプレックスであった様です。笑)

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上がリビア遠征を決断した当時のジョヴァンニ・ジョリッティ首相です。(1842~1928)彼は政治家としては有能で、なんと5回もイタリア首相を務めています。国王の信頼も厚い重臣で、イタリアの工業化に尽力しましたが、その半面で国王と同じく後の独裁者ムッソリーニとファシストの台頭を許してしまう事になります。

ジョリッティ首相は国内の戦争反対派を押さえ込むと、第1次遠征軍約2万をリビア最大の都市トリポリに差し向けます。対するオスマン軍は6千程度しか駐留しておらず、イタリア軍は瞬くうちにリビア沿岸部の主要都市を攻略占領してしまいます。


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上はイタリア軍の進撃経路図と上陸したイタリア軍部隊です。

イタリア軍の攻勢の前に、兵力の少ないオスマン軍は成すすべもなく後退を余儀なくさせられてしまいます。しかし、これはオスマン軍の戦略でした。彼らは戦線を南部に移動してその間に兵力を2万8千にまで増強し、イタリア軍が内陸部に深入りしてきた所で一気に反撃に転じたのです。そしてその指揮を取ったのが1908年の立憲革命で皇帝アブデュルハミト2世を退位させたオスマン陸軍の名将エンヴェル・パシャでした。

しかし、イタリア軍は装備、兵力でオスマン軍をはるかに凌駕していました。現地からの報告を受けたローマのジョリッティ首相は北アフリカに増援軍を送り込み、イタリア軍は10万の大軍に膨れ上がったのです。エンヴェル将軍率いるオスマン軍は再び後退させられ、オスマン軍は塹壕を掘って迎撃する作戦に切り替えます。

これに対し、イタリア軍も塹壕を掘り、戦線は長いこう着状態に陥ってしまいました。焦ったのはイタリア本国のジョリッティ首相です。軍人ではなく政治家の彼としては一刻も早く戦争を終わらせて兵を引きたいのです。(そうしなければ、イタリアも財政的に持ちませんからね。)

イタリアとしても、莫大な戦費を投じて今回の遠征を決断したのはかなり危険なイチかバチかの賭けでした。それほどの危険を冒してリビア遠征を決断した以上何も取らずに撤退するわけには行きません。失敗は許されないのです。

そこで彼は短期決戦を狙い、海軍に命じて艦隊をオスマン帝国本国の近海に差し向け、直接オスマン帝国を脅す作戦に出ました。戦争は海の上で新たな局面に移ったのです。1912年2月、イタリア艦隊は東地中海のオスマン領海に侵入、本土のベイルートに艦砲射撃を加えて市街を徹底的に破壊し、さらにその帰り道、陸戦部隊をエーゲ海のロードス島を含むドデカネス諸島に上陸させ、これを占領してしまいます。


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上は地中海を進むイタリア艦隊とドデカネス諸島の位置です。

このイタリアの海上作戦は大成功を収めました。海軍力の弱いオスマン軍はこれに立ち向かう事が出来ず、直接帝国本土を狙われたオスマン帝国政府は震え上がります。すると今度はイタリアの快進撃を見ていたセルビア、ブルガリア、ギリシャなどのバルカン半島諸国が同盟を結び、オスマン帝国に宣戦を布告してきました。

これらの国々は、長くオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、そのオスマン帝国の衰退とともに19世紀後半に次々と独立を果たしていました。しかし、今度はイタリアに押されるオスマン帝国の窮状に乗じて更なる領土を帝国から奪い取るべく同盟したのです。その兵力はこれら3カ国を合わせて総勢70万を越える大軍で(内訳はセルビア22万、ブルガリア37万、ギリシャ11万)これに対し、バルカン方面のオスマン軍はその半数以下の34万程度でした。

1912年10月、これらのバルカン同盟軍とオスマン帝国軍との間で戦闘が始まります。第1次バルカン戦争の始まりです。事ここに至り、オスマン帝国は二正面作戦を避けるため北アフリカのリビア放棄を決定、これをイタリアに割譲する事に決します。伊土戦争はイタリアの圧倒的勝利に終わったのです。

1912年10月、スイスのローザンヌで開かれた講和会議で、オスマン帝国はイタリアに対して要求の大部分を認める条約に署名しました。これにより約1年間に亘って続いた伊土戦争は、オスマン帝国のイタリア王国に対する敗北という帝国にとっては屈辱的な形で終結したのです。両国の損害はイタリア軍の戦死者約3千余に対し、オスマン軍は5倍近い1万4千の戦死者を出しました。講和の内容は以下の通りです。

1、オスマン帝国皇帝はリビアの宗主権をイタリア国王に譲渡する。

1、ドデカネス諸島とロードス島は条約履行後にオスマン帝国に返還されるが、イタリア軍は引き続き駐留し続ける。

この伊土戦争による敗北は、長くオスマン帝国に支配されてきたバルカン諸国を刺激し、それが第1次バルカン戦争を引き起こした事は先に延べた通りです。この戦争は伊土戦争終結の前後である1912年10月に始まり、兵力に勝るバルカン連合軍の優勢のままに、翌1913年5月に終結します。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島に残る残りの領土であったアルバニアとマケドニアを失い、バルカン諸国はこれらの領土をさながら獲物に食らい付く狼の様に奪い合います。そしてそれに不満を持つブルガリアが同盟を離反して第2次バルカン戦争に至ります。

この伊土戦争とバルカン戦争は、第1次世界大戦の直前に行われた「前哨戦」ともいうべき戦争でした。しかし、戦争自体がはるか辺境の局地的なものであったため、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアといった名だたるヨーロッパ列強諸国の関心は低く、各国はそれぞれの利害と思惑からこれらの戦争の結果を黙認します。

そして、オスマン帝国を苦しめたこの2つの戦争の終結からわずか1年後の1914年7月、ボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件を契機に、世界は第1次世界大戦の巨大な嵐に突入し、やがてオスマン帝国の長い歴史に終止符が打たれる事になるのです。

次回に続きます。
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