アラビアのロレンス ・ 砂漠に残る夢の跡

みなさんこんにちは。

1914年6月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領であったボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻暗殺事件の影響はたちまち全世界に波及し、1ヵ月後の7月28日、ついに世界はドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国との人類史上最初の大戦争である第1次世界大戦に突入しました。

それではこの第1次世界大戦で、本テーマの主役であるオスマン帝国は一体どちらの味方に付いたのでしょうか? 実はオスマン帝国は意外にもドイツ側に付いて参戦し、その同盟関係に基づいて、200年来の宿敵ロシアと黒海周辺地域で激しい戦いを繰り広げていたのです。

ドイツとオスマン帝国とが同盟関係を持つに至った経緯は、大戦勃発からさかのぼる事20年以上前の19世紀末にまで話を戻さなくてはなりません。当時オスマン帝国は、1876年に即位した第34代皇帝アブデュルハミト2世による独裁政権下にありました。彼の30年に及ぶ統治下、帝国が内向きに停滞している間に、ヨーロッパ列強諸国は世界中で植民地争奪戦を繰り広げていました。

中でもイギリスの突出ぶりが群を抜き、その影響はかつてのオスマン領であったエジプトにスエズ運河を築き、オスマン帝国の東の隣国イランのガジャール朝ペルシア王国(1796年成立、1925年滅亡)を半植民地化するなど、東西からオスマン帝国を取り囲む勢いを見せていました。

その頃ヨーロッパでは新たな強国が著しく台頭していました。1871年に成立したドイツ帝国です。ドイツは中世以来多くの小国に分裂していましたが、18世紀に興隆したプロイセン王国主導の下に統一が進み、100年以上かけてようやく統一されたドイツ帝国の成立をみたのです。しかし、ドイツが国家統一の戦いに明け暮れている間に、イギリスやフランスは海外植民地を広げ、新興国であるドイツとしてはこれらのライバル国と対等にわたり合うために、イギリスなどが今だ手をつけていない残りの海外植民地を急いで手に入れる必要に迫られていました。

その当時のドイツを率いていたのが皇帝ウィルヘルム2世です。


kaiser_wilhelm-newspaper-article_421.jpg

上がドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。(1859~1941)彼はドイツ帝国ホーエンツォレルン朝3代皇帝として1888年に即位し、プロイセン王としては9代目に当たります。ドイツをイギリスと並ぶ世界帝国に押し上げる事に執念を燃やし、その野望実現のために軍備増強と数々の謀略や外交政策で暗躍、そして何より1千万人の戦死者を出した後の第1次世界大戦の完全な責任者なのですが、歴史上では第2次世界大戦を引き起こした独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの様な悪者扱いをされる事はほとんどありません。やはりそれはヒトラーの様な成り上がり者と違い、生まれながらの王にして皇帝というその高貴な身分だからでしょうか?

遅れてきた新興帝国主義国家ドイツ帝国は、ウィルヘルム2世の元でアフリカのナミビア、タンザニア、カメルーン、さらに太平洋のニューギニア、ミクロネシアなどの南洋の島々を手に入れます。しかし、アジア、アフリカ地域はそのほとんどがすでにイギリスなど他の列強に押さえられており、ドイツによるこれ以上の植民地獲得は難しい状況でした、それでもウィルヘルム帝の領土欲がこの程度で満足する事はありませんでした。

そこで彼が目をつけたのが、オスマン帝国の南に広がる広大な中東地域でした。ウィルヘルム2世はかつて世界一の繁栄を謳歌した古のバビロンやバグダッドにドイツ帝国の鷲の国旗を打ち建て、中東全域をドイツ領にする事を夢見る様になります。そこで接近したのがオスマン帝国でした。

オスマン帝国としても、東西を物理的にイギリスに押さえられ、さらにこれまでに行った近代化改革の費用や対外戦争の戦費もイギリスなどからの膨大な借金であり、これらによって頭の上がらないイギリスの影響から抜け出したい感情が強く、そのための強力な軍事、経済的援助国としてドイツに近づくのはごく自然的な成り行きでした。

その両国の思惑が目に見えた形で実現したのが1900年に始まる「ヒジャーズ鉄道」の建設です。このヒジャーズ鉄道は、当時のオスマン皇帝アブデュルハミト2世の命によって、シリアのダカスカスからイスラムの聖地であるメッカまでを結ぶ総延長1300キロに及ぶ長大な鉄道で、建設費用はドイツ最大の銀行であるドイツ銀行が全面出資し、ドイツ人の技術者の指導や支援を受けながら、大量のトルコ人労働者を動員して鉄道の敷設作業が進められていきました。


hijaz-railway-national-geographic_944x434.jpg

railway_map.jpg

上がヒジャーズ鉄道の建設の様子とその路線図です。(この「ヒジャーズ」という名はこの地域一帯の地名です。)アブデュルハミト2世がこの鉄道を建設した狙いは、単にイスラムの聖地メッカへの巡礼のためだけではなく、紅海沿岸の物産をオスマン帝国本国へ陸路で大量に輸送するためでした。なぜなら1869年のスエズ運河の開通によって、海運はイギリスに支配されており、各国は高い通行料金と関税をイギリスに払わなければならなかったからです。

ヒジャーズ鉄道の建設は、1908年9月1日の皇帝の即位記念日に間に合わせるために急ピッチで進められましたが、結局最終目的地メッカまでには届かず、その手前のもう一つの聖地メディナまで開通させるのがやっとでした。しかし、物理的には紅海沿岸の物資輸送という目的は十分に果たせるほどに達成されていました。


100_Jahre_HedjazBagdadbahn_historisch.jpg

3750160133_81e0187472.jpg

上が完成したヒジャーズ鉄道に乗るオスマン帝国の人々です。この鉄道の開通によって、オスマン帝国は陸路で安くこの地域の物資を輸送出来るようになり、またこのヒジャーズ地方以南の軍事支配や交易強化に大きく貢献しました。

ドイツ、オスマン両国の合弁事業はこのヒジャーズ鉄道だけではありませんでした。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、先に述べた様にバグダッドへの自らの入城を夢見ており、ドイツ帝国の帝都ベルリンと、オスマン帝国の帝都イスタンブール(旧ビザンティウム)それにバグダッドの3つの都の頭文字を並べたいわゆる「3B政策」の要となる「バグダッド鉄道」の建設も進めていたのです。


無題

上がドイツの「3B政策」の図です。同時代のイギリスの「3C政策」(エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタを結ぶ。)に対抗するものとして、歴史で習った方も多いのではないでしょうか?

しかし彼のこの壮大な計画は、第1次大戦の勃発によって頓挫する事になります。ドイツはヨーロッパで、オスマン帝国は中東で互いの健闘を祈りつつ、激しい戦いを繰り広げていく事になります。今次大戦において、ドイツが同盟国であるオスマン帝国に期待したのは、はるか南にあってアジアとヨーロッパの中間に位置するオスマン帝国の地理的条件を活かし、ドイツ、オーストリアの東の強敵ロシアを南の黒海周辺から攻撃して、東部戦線のロシア軍兵力を割くと同時に、中東におけるイギリスにとって最大最重要の権益であるスエズ運河をオスマン軍が奪取し、イギリス本国とインドなどのアジア植民地との連携を遮断する事でした。

オスマン帝国はドイツの求めに応じ、黒海沿岸やコーカサスでロシア軍と激戦を交え、またスエズ運河奪取のためにシナイ半島のエジプトとの国境線上に大部隊を集結させ、これをうかがう勢いを見せます。その作戦のために大いに利用されたのがヒジャーズ鉄道でした。

これに大きな危機感を抱いたのがイギリスです。もしスエズ運河をトルコ軍に奪われる様な事になれば、イギリスの損失は計り知れないからです。しかし、当時イギリス軍はドイツ軍とフランスの西部戦線で激しい戦いを繰り広げており、その戦いに100万以上もの大兵力を削がれた結果、中東方面に廻せる兵力は極めて限られていました。(この当時におけるイギリス中東方面軍はわずか7個師団およそ9~10万ほどで、そのうち2個師団はオーストラリアとニュージーランドの混成部隊だったそうです。)対するオスマン軍は20個師団総勢25万を越える大軍でした。そこでイギリス陸軍は、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人たちをオスマン帝国と戦わせる事で、兵力の不足を補う作戦を立案しました。

しかし、何の見返りもなしに中東において強大な力を持つオスマン帝国軍と戦うほど、彼らアラブ人もお人好しではありません。そこでイギリスは、彼らを動かすためになりふり構わぬ大きな「餌」を与えます。

「わが軍に協力し、戦争に勝った暁には大英帝国はアラブ人国家の樹立を承認し、その独立を支援する。」

イギリスはこんな甘い言葉でアラブ人たちに戦争への協力を要請したのです。もちろんアラブ側とて、イギリスの腹の内が読めないわけではありませんでした。

「イギリスの道具として良い様に利用されてしまうだけではないのか。」

こんな不安と不信感をイギリスに対して持つ者も多かったのです。しかし、イギリスが提示した条件は、数百年もの間オスマン帝国の支配にあえいできたアラブ人たちの悲願であり、彼らを動かす強力な「てこ」の役割を果たしました。結局アラブ側はイギリス軍への協力に応じてオスマン軍と戦う事を決意します。

その作戦のために一人の若い将校がイギリス中東方面軍に送り込まれます。彼の名はトーマス・エドワード・ロレンス。後に「アラビアのロレンス」として、アラブ反乱軍とともにオスマン帝国と戦う人物です。


Te_lawrence.jpg

上がトーマス・エドワード・ロレンス中尉(後に大佐に昇進)です。(1888~1935)彼はもともとは軍人ではなく、名門オックスフォード大学出身の中東アラブ地域を専門とする考古学者で、戦争が無ければ静かで平凡な学者人生を送っていた事でしょう。しかし、彼の専門分野が中東であった事と、アラビア語の堪能さを買われてこの特殊任務を命じられた事が彼の人生を大きく変え、彼は歴史にその名を残す事になりました。

アラビアのロレンス (1枚組) [DVD]

新品価格
¥991から
(2014/12/14 00:34時点)



このロレンスについて詳しくお知りになりたい方は、1962年公開の映画「アラビアのロレンス」をご覧になるのが一番でしょう。イギリスの名監督デビッド・リーンの代表作の一つで、主役のロレンス中尉を演じるピーター・オトゥールと、エジプトの名優オマー・シャリフとの共演が見事です。他にも画質の綺麗なブルーレイがありますが、パッケージのデザインがこちらのDVD盤の方が綺麗で豪華なのでお薦めです。

砂漠の反乱 (中公文庫)

新品価格
¥1,080から
(2015/12/29 08:57時点)



アラビアのロレンス (岩波新書 赤版 73)

新品価格
¥929から
(2015/12/29 09:01時点)


ロレンスに関する詳しい書籍としては上の2冊が良書です。ページ数は上が309ページ、下が250ページ余りで、情報量としては上の方が良いかもしれません。他にもう1冊「アラビアのロレンスの真実」というものがありますが、こちらはページ数336ページの割には価格が高い(およそ4千円。余裕のある方はどうぞ。笑)ので、上の2冊をお薦めします。

1916年10月、カイロの陸軍情報部に配属されたロレンスは情報将校として勤務する傍ら、アラブ反乱軍の指導者となれる人物をリストアップし、これと接触する事に成功します。その人物とはファイサル・イブン・フセインといい、イスラム教の開祖ムハンマドの血筋を引く名門王家の王子でした。


FeisalPartyAtVersaillesCopy.jpg

上がそのファイサル王子です。(1883~1933 写真中央のアラビア服の人物。その彼の後に居並ぶ4人の人物の右から2人目がロレンス。後にこのファイサル王子は1921年に初代イラク国王になります。)彼はムハンマドの血筋(といってもムハンマドの娘の家系なので、女系になりますが。)を引く名門ハーシム家の王族で、この時代ハーシム家はヒジャーズ地方一帯を取り仕切る太守としてオスマン皇帝から認められた存在でした。(ちなみにこのハーシム家は、写真のファイサル殿下の兄アブドラ王子が、第1次大戦後の1921年に初代ヨルダン国王アブドラ1世として即位、彼の一族が現在のヨルダン王国の王家として現在に至り、わが国の天皇家とも親密な交流を続けています。)

20141123_king_and_emperor_and_empress.png

上が現ヨルダン国王アブドラ2世(1962~)で、彼はハーシム王家4代目の王になります。ほぼ毎年の様に、王妃はもちろん王弟や王妹、従兄弟などの王族まで連れて来日し、皇居でわが天皇皇后両陛下と昼食を共にされるほどの大親日家であり、おそらく世界の君主で最も来日回数の多い「日本大好き」な王様です。(笑)

アブドラ国王はあり余るほどの深い木々と緑に包まれた天皇陛下の宮殿である広大な皇居に大変感動し、皇居訪問を楽しみにしているそうです。(その理由は、中東の砂漠の国では「水と緑」は黄金よりも貴重なものであり、満々と水をたたえた巨大な堀に囲まれ、あふれんばかりの緑に覆われた東京の皇居は、砂漠の国がほとんどの中東諸国の人々にとっては何よりも贅沢な「うらやましいもの」であるからです。

彼の国ヨルダン王国(正式国名はヨルダン・ハシミテ王国。「ハーシム家のヨルダン王国」と言う意味です。)は、中東にありながら国内に油田がほとんど無いため、オイルマネーのおかげで王族以下、一般国民までが贅沢に暮らすペルシャ湾岸諸国と違って国民生活は決して豊かとはいえないそうですが、この王様はそんな国民の暮らしへの不満や、政治家たちの評判などといった「国民の生の声」が聞きたいからと言って、なんとタクシーの運転手に変装し、一人で王宮を抜け出したりして護衛の人々を困らせるなど、何かとお騒がせの「濃い」キャラクターの人物だそうです。(笑)しかし、それも国王として、国民を思うゆえの行為であるため、ヨルダン国民には大変人気のある王様です。

さて、ファイサル王子は大戦勃発当初から、配下の軍勢数千を率いてオスマン軍と戦っていましたが、彼の軍勢は大半が騎馬とラクダの遊牧民族が主力で、武器と言えばイギリス軍から供与された小銃や軽機関銃などしかなく、それも全軍の3分の1程度しか持っていませんでした。

これには理由があります。イギリスとしては彼らアラブ人に軍事的に強大になってもらっては困るのです。イギリスはオスマン軍と戦うための「補完戦力」として彼らアラブ人を利用しようとしていただけであり、その目的はオスマン軍を引き付ける「囮」や、最も戦死、負傷率が高い最前線で彼らをオスマン軍と戦わせ、イギリス軍の損耗を軽減するのが狙いでした。そして戦争が終わればアラブ独立の約束などうやむやにして、これまでの様な半植民地的状態を継続するつもりでいたのです。そのためイギリスは、戦車や大砲といった強力な武器をアラブ側に与える事はしませんでした。

こうした上層部の考えをよそに、ファイサル王子のアラブ反乱軍の連絡将校に任命されたロレンスは、その役目を果たすべく懸命の努力を続けていました。初めのうちは、ロレンスも上層部と同じ様に「アラブ人たちをオスマン軍といかにしてうまく戦わせるか。」といった打算的な考えで動いていた様です。しかし、戦争が長引くに連れ、アラブ人たちと長く交流するうちに、次第にロレンスは彼らの心情に共感し、アラブ人たちと命を懸けて前線で戦う様になります。

1d49c5d17a.jpg

上はイギリスの軍服を脱ぎ捨て、ファイサル王子から贈られた純白のアラビア服を身にまとうロレンス。まさに「アラビアのロレンス」ですね。(笑)

ロレンスは、強力なオスマン軍との正面での戦闘を避け、各地でオスマン軍の補給線を叩く「ゲリラ戦」をファイサル王子に提案し、その了承を得ます。彼はアラブ軍を数十人から百人単位の小部隊に分け、各地でゲリラ戦を展開します。そのロレンスの第1攻撃目標が例のヒジャーズ鉄道でした。


6125579_orig.jpg

e0034633_13574946.jpg

上の画像は映画「アラビアのロレンス」のワンシーンです。線路に仕掛けた爆薬の起爆スイッチを握るピーター・オトゥール演じるロレンス。実際のロレンスもこの様にして戦ったのでしょうね。

69_big.jpg

work_2480622_2_flat,550x550,075,f_derelict-turkish-engine-on-hejaz-railway-saudi-arabia

2876186631_76ec12f9ba_z.jpg

上の画像は現在のヒジャーズ鉄道沿線の様子です。ロレンスたちに爆破されて横倒しになった機関車の残骸が、今も100年前の当時そのままに赤錆びた姿をさらして残されています。(驚)

ロレンスのゲリラ作戦は大成功でした。ヒジャーズ鉄道に対するアラブ軍の絶えない攻撃と破壊活動により、オスマン軍は鉄道沿線に守備兵力を釘付けにされ、スエズ運河奪取のためのエジプト侵攻作戦に廻す兵力を大きく削がれてしまいます。同時にイギリス軍は、その後のパレスチナ進軍を容易にする事が出来る様になりました。

やがて1918年以降、戦局はイギリスはじめ連合軍の優勢に傾きます。中東各地で敗退を続けるオスマン軍を追撃し、イギリス軍は本国からの増援軍3個師団を得て、総勢10個師団およそ15万の兵力で北上、同年10月ついにヒジャーズ鉄道の出発点であるシリアのダマスカスを占領します。オスマン軍は帝国本土の国境線上の防衛に手一杯で再南下する余力はなく、同月オスマン帝国と連合国との間でムドロス休戦協定が結ばれ、オスマン帝国は降伏。これにより中東戦線はイギリスの勝利で終結する事になったのです。

この勝利の最大の功労者であるロレンスは、わずか30歳の若さで陸軍中佐にまで昇進(本来この年齢なら、大尉など尉官クラスでしょう。)していましたが、戦争は終わり、それと同じく彼の役割も終わりに近づいていました。この頃ロレンスは、数年間寝食を供にして一緒に戦ったアラブ軍に対して大きく同情的になっており、末端のアラブ人たちの願いである共和制のアラブ国家独立の支援を主張する様になります。

しかし、それは自らを君主とするハーシム家世襲の王国の樹立を目論むファイサル王子や、それを利用してイギリスに都合の良い中東の権益を望むイギリス上層部との考えとは相容れぬものでした。イギリス上層部とアラブの指導者ファイサル王子は次なる目的、すなわちオスマン帝国亡き後の中東地域の支配権をめぐって高度な政治的駆け引きを繰り広げており、その様な状況の中でロレンスの居場所はもうなかったのです。

戦争終結後の1919年、イギリス陸軍上層部はロレンスを大佐に昇進させると、イギリス本国への帰還を命じ、彼は青春時代を過ごした灼熱の中東を失意の内に離れ、その後はイギリス国内やインドなどに派遣されて地味な軍務をこなす退屈な毎日を送ります。

しかし、そんな毎日に嫌気がさしたのか、彼は次第に生活にスピードとスリルを求める様になり、陸軍軍人でありながら空軍に入隊を志願。この頃からオートバイなどのモーターサイクルにも熱中するスピード狂になり、人々を困らせる様になります。そして1935年5月、稀代の英雄トーマス・エドワード・ロレンスは、猛スピードでオートバイを運転中に道路わきの2人の少年を避けようとして事故を起こし、意識不明の重体となって1週間後に亡くなりました。(享年46歳)


article-2216335-15758B26000005DC-472_638x490.jpg

上は愛車のオートバイに乗ってご機嫌のロレンス大佐です。しかし、彼はヘルメットを着用していなかったために早すぎる死を迎える事になってしまいました。この事故により、その後オートバイ走行時のヘルメット着用が義務付けられていく様になります。

3628639_orig.jpg

上は砂に埋もれた現在のヒジャーズ鉄道の線路です。この鉄道はオスマン帝国滅亡後、破壊されたまま砂漠に放棄され、その後にこの地域に成立したヨルダンやシリアなどで、ごく一部が主に観光用に使用されている他はほとんどが廃線となっています。

しかし、かつてこの鉄道で繰り広げられた男たちの熱い戦いの面影は、100年の時を越えて今も灼熱の中東の砂漠に夢の跡となって残っているのです。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR