オスマン帝国降伏 ・ 皇帝の裏切り

みなさんこんにちは。

時は1918年、その4年前から始まっていた第1次世界大戦の戦局は、ドイツとその同盟国3カ国(オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国)から成る中央同盟国に著しく不利な状況に傾いていました。それに伴い、今次大戦において、その同盟関係に基づいてドイツ側に立って参戦したオスマン帝国の運命も、もはや「風前の灯」となっていたのです。

この時期にオスマン帝国の皇帝であったのはメフメト5世という人でしたが、もともと先帝の長い独裁に反発した人々によって擁立された存在の彼に、この帝国存亡の危機を乗り切る力などあるはずがありませんでした。


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上がオスマン帝国第35代皇帝メフメト5世です。(1844~1918)彼は兄である先帝アブデュルハミト2世の30年に及ぶ長い独裁に耐えかねた軍人たちが、1908年に起こした立憲革命によって擁立されたオスマン帝国史上初の実権の無い正真正銘の「立憲君主」であり、実際の帝国の運営はその立憲革命で実権を握った首相のタラート・パシャが行い、戦争指導は陸軍参謀総長のエンヴェル・パシャら軍部の将軍たちが行っていました。

そもそもオスマン帝国がドイツと同盟したのは、互いの利害の一致という両国の思惑もありましたが、若い頃からドイツに留学し、熱心なドイツ支持者であったエンヴェル・パシャ将軍の強い圧力によるものが大きく、皇帝も否やを口にする事は出来ませんでした。


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上は第1次大戦中の1917年10月に、イスタンブールを訪問したドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世を歓迎するパレードで、共に馬車に乗ってドルマバフチェ宮殿に向かう2人の皇帝の姿です。

しかし、その選択が、やがて帝国を破滅の道に追いやる事になろうとは、この時誰が予想し得たでしょうか? オスマン帝国は1914年7月、大戦勃発と同時に宿敵ロシアに攻撃を仕掛けます。それは建て前としてはドイツの支援でしたが、実際はこの機に乗じて長年ロシアに奪われ続けた黒海と、その沿岸の領土を奪還する事が、エンヴェル将軍らオスマン軍部の大きな目的でした。しかし、彼らはすぐにそれが甘い考えであった事を思い知らされてしまいます。オスマン軍は事前の準備もあって初戦は勝利するも、ただちにロシア軍の反撃にあって苦戦し、領土奪還どころかロシア軍を黒海沿岸で釘付けにするのが精一杯の状態に陥ってしまいます。


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上が当時の国際関係を表した図です。

そうしている間に最初の危機が帝国に迫ります。イギリス、フランスなどの連合国がロシアからの要請を受け、オスマン帝国の首都イスタンブール攻略のため、その近くのガリポリ半島に上陸作戦を仕掛けてきたのです。


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上がガリポリ半島の位置です。(画像小さくてすみません。汗)

このガリポリ上陸作戦は、当時イギリス海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの主導によって、陸・海・空3軍の総力を結集した近代史上初の大規模上陸作戦で、その目的はイギリス・フランス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど主要連合国5カ国の精鋭5個師団およそ8万の兵力をもってこれを制圧し、さらに帝都イスタンブールに進撃してこれを占領する事で、直接オスマン帝国の「息の根」を止めてしまおうというものでした。


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上がガリポリ作戦の主導者ウィンストン・チャーチル海軍大臣です。第2次大戦でヒトラーの猛攻に耐え、イギリスを勝利に導いた大政治家であるのは、歴史好きの方ならば誰でもご存知の事とは思いますが、この頃の彼はまだ40歳前後で若く、将来の首相の座を狙う野心家でもありました。そのための大きな実績づくりとして、この作戦を立案させた側面がある様です。

しかし、この連合軍の作戦はかなり杜撰で無謀なものでもありました。イギリスはじめ連合軍は、これまでの経緯でオスマン帝国が敗退の連続であった事から彼らを軽視し、「オスマン帝国など簡単に倒せる。」と軽んじていたのです。

連合軍のガリポリ上陸に際し、オスマン軍では精鋭6個師団およそ10万を各所に配置し、海峡の沿岸におびただしい数の大量の火砲を配備して要塞化するとともに、海にはこれも恐ろしい数の機雷を敷設した万全の防衛体制で連合軍を待ち構えていました。


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上の1枚目は上陸して物資を陸揚げする連合軍。2枚目と3枚目はその連合軍を迎え撃つため集結していたオスマン軍各部隊の将兵たちです。

1915年4月、ガリポリ半島上陸に成功した連合軍は、首都イスタンブールを目指そうとしますが、帝都絶対死守のオスマン軍の猛攻に遭って前進できず、全く身動きが取れなくなってしまいます。(前はオスマン軍、後は海なのですから当然ですね。つまり彼らはオスマン軍を「追い詰める」どころか、逆に自分たちが「追い詰められた」状態になってしまったのです。)事態打開のため、イギリス本国のチャーチル海相は増援軍を送り、連合軍の兵力は14個師団約20万にまで膨れ上がりますが、オスマン軍も同じ規模にまで兵力を増強、両軍とも第1次大戦の象徴ともいえる「塹壕」を掘って戦線は長い膠着状態に陥ってしまいます。

そうこうしているうちに連合軍に深刻な疫病が蔓延してしまいます。その猛威は強烈で、実際の戦闘による戦死者4万3千に対し、疫病による死者はなんと14万にも達し、連合軍はほぼ壊滅に近い悲惨な状態になってしまったのです。この状況に連合軍は作戦の失敗を悟り、1916年1月に撤退を決定。「ガリポリの戦い」はオスマン軍の逆転勝利に終わったのです。

この戦いではオスマン軍も戦死者8万6千を越える大損害を被りましたが、久々の大勝利に長く西欧諸国に敗れ続けてきたトルコの人々は狂喜し、オスマン帝国の戦意高揚に多大な貢献を果たしました。また、この戦いでオスマン軍の最前線で戦闘部隊の指揮を取り、連合軍を撃退して名を馳せた一人の将軍がいました。その名をムスタファ・ケマルといい、彼はその功績で皇帝より「パシャ」の称号を贈られ、彼の活躍が新聞で大きく報道されると、一躍ケマル・パシャは英雄となります。(逆に、この作戦を主導したイギリス海軍大臣チャーチルは、18万以上もの戦死者を出して失敗した一連の責任を問われて辞任に追い込まれてしまいます。)


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上がそのケマル・パシャです。(1881~1938)彼は後にトルコ共和国初代大統領として、「英雄」と同時に「建国の父」と呼ばれる様になるのです。

さて、ケマル・パシャらの活躍で一度は連合軍を撃退したものの、その後のオスマン帝国の戦況は一向に好転せず、じりじりと連合軍に押されていく様になります。しかし、1917年3月にオスマン軍にとって戦局挽回の大チャンスが訪れます。宿敵ロシアで革命が起き、300年以上続いたロマノフ朝ロシア帝国が倒れてウラジミール・レーニン率いる世界初の共産主義国家ソヴィエト連邦が成立したからです。

革命を成功させたといっても、今だ国内は混乱して態勢が脆弱だったレーニンの政権に対し、共産化を嫌ったロシア最大の穀倉地帯ウクライナが対立し、独立を宣言します。ウクライナはドイツ以下の中央同盟国と結び、軍事協力と領土割譲の見返りに、ウクライナのあり余る穀物を提供する秘密協定を結んだのです。(ウクライナにしてみれば、「共産国になるくらいなら、君主制のドイツ・オーストリアの領土になった方がはるかにマシだ。」という訳です。近年ロシアとウクライナの対立が国際問題となっていますが、両国の確執はすでにこの頃から始まっていたのです。)

結局この騒動は、早く戦争を止めて国内を安定させたいレーニンのソ連側が、ドイツ・オーストリア・オスマンなどの同盟国にウクライナを譲り、多額の賠償金を支払う事で1918年3月に決着し、ロシアは大戦から離脱してしまいます。(その後、この条約はドイツ以下の敗戦によってソ連が一方的に破棄したため、実現する事はありませんでした。)

こうした中の1918年7月、皇帝メフメト5世が74歳で崩御。帝位は弟のメフメト6世が継承しますが、もはやお飾りの立憲君主としての存在でしかなかった皇帝の代替わりに関心を持つ者はほとんどいませんでした。


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上がオスマン帝国第36代皇帝にして、最後の皇帝となるメフメト6世です。(1861~1926)彼は立派なあごひげと威厳に満ちたこれまでの歴代皇帝たちと違い、外見は皇帝というより痩せた初老の学者といった人物で、いずれにしても頼りなさそうな印象ですね。(笑)まさにオスマン帝国の末期をそのまま体現した人といえるでしょう。そして彼を最後にオスマン帝国はその途方もない歴史に終止符を打つ事になるのです。

このメフメト6世が即位してわずか2ヶ月後の1918年9月、中央同盟国で最も弱小であったブルガリアが連合国に降伏して同盟から離脱してしまいます。ヨーロッパにおいては、西部戦線で大攻勢に失敗したドイツ軍が総崩れとなって総撤退を開始、この短い期間に情勢は中央同盟国に一気に不利に傾きました。特にオスマン帝国は、ブルガリアの脱落で首都のイスタンブールには連合軍が迫り、さらに南からはイギリス軍が、前回お話した「アラビアのロレンス」ことロレンス中佐率いるアラブ反乱軍の協力を得てエジプトからパレスチナを北上、シリアの首都ダマスカスまでも占領されてしまいます。

もはや中央同盟国の敗北は誰の目にも明らかでした。それでもオスマン帝国では、軍部の実権を握る陸軍参謀総長のエンヴェル将軍ら強硬派が徹底抗戦を主張し、あくまで戦争を続行するつもりでいたのです。(このあたり、まるで太平洋戦争末期のわが日本帝国軍部を見ている様ですね。)

この状況の中、意外な人物が動き出します。1918年10月、それまで何の実権もないお飾りの存在と思われていた皇帝メフメト6世が、なんと自身の地位の保証とオスマン皇帝家の存続を引き換えに、エンヴェル将軍ら帝国政府を無視して連合国と休戦協定を結び、事実上降伏してしまったのです。(実権がないとはいえ、国の代表である国家元首はあくまで皇帝ですからね。)この皇帝の思いもかけぬ「裏切り」に、それまで帝国政府を支配していたエンヴェル将軍らは万策尽き果て、連合軍のイスタンブール進駐の直前に国外に逃亡し、イスタンブールは1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしてこの地に都を置いて以来、実に465年ぶりに西欧キリスト教諸国である連合軍によって占領されたのです。

この時脱出した軍人たちの中に、あのガリポリの戦いで連合軍を撃退した名将ケマル・パシャらもいました。彼の率いる一派はアナトリア東部の奥地に潜伏し、トルコ民族の団結を唱えて抵抗運動を組織する様になります。

大戦終結後の1920年8月、フランスのパリ郊外セーヴル(あのフランスが誇る最高級陶磁器「セーヴル焼き」で有名な街です。)で、連合国とオスマン帝国との間に最初の正式な講和条約が締結されます。この条約によって、皇帝メフメト6世の政府は、その広大な領土の9割以上を連合国に割譲するというとんでもない条約を結んでしまいます。


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上が「セーヴル条約」で決められたオスマン帝国の連合国による分割を示した図です。メフメト6世のオスマン帝国政府に残された領土は、上の図のオレンジ色の縦線で示された帝都イスタンブール周辺のわずかな地域のみで、それすらも連合国の国際管理下に置かれるという「ひどいもの」でした。

ここまで屈辱的な内容に譲歩しても、メフメト6世は皇帝としての自らの地位の保証とオスマン皇帝家の存続に固執したのです。彼としては、初代オスマン1世に始まる栄光あるオスマン皇帝家を自分の代で終わらせる様な事になっては歴代皇帝に申し訳ないという先祖たちへの畏敬と、オスマン家当主としての意地とプライドがあったのでしょう。

とはいえ皇帝も、ここまで連合国に徹底的に領土を奪い取られるとは思っていなかったのでしょうが、国と国民を無視し、なりふり構わず国土を切り売りして、あくまで皇帝家の存続にのみこだわる皇帝のこうした「売国」姿勢は、帝国臣民の中心であったトルコの人々を大きく失望させ、皇帝の権威は失墜、国民は帝政廃止を強く望む様になります。そしてメフメト6世が国を売ってまで望んだ皇帝家の存続は、結局わずか数年の「延命」で終わる事になるのです。

次回に続きます。
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