オスマン帝国の最後 ・ その後のオスマン家

みなさんこんにちは。

第1次世界大戦末期の1918年10月、南北から迫る連合軍に追い立てられ、もはや勝ち目の無くなったオスマン帝国は、連合国との間でムドロス休戦協定に調印。事実上降伏しました。今次大戦でドイツ側に付き、宿敵ロシアに奪われた黒海とその沿岸領土の奪還を果たすというオスマン帝国の目論みは完全に失敗し、戦争は帝国の惨めな敗戦で幕を閉じたのです。

連合国との間でこの休戦協定を結んだオスマン帝国皇帝メフメト6世は、皇帝としての自身の地位の保証とオスマン皇帝家の存続を条件として、帝国政府や軍部を通さずに降伏してしまったのです。


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上がオスマン帝国第36代皇帝メフメト6世です。(1861~1926)彼は前回お話した様に、オスマン帝国最後の皇帝です。眉をひそめ、不安そうにうつろな眼差しで遠くを見る彼の表情には、帝国皇帝としての威厳も自信もなくなっていますね。

皇帝の独断による降伏に、彼を無力なお飾りに過ぎないと思っていた政府と軍の首脳らは驚愕しました。なぜなら休戦協定によって前線では兵士たちの投降と武装解除が始まり、戦争の継続が出来なくなってしまったからです。やがて1920年3月、イギリス、フランスなどの連合軍は首都イスタンブールに入城します。その直前、帝国議会の議員からなる政府首脳や軍の将軍たちはイスタンブールを脱出して国外に逃亡、一方勝利したイギリス以下の連合国と、メフメト6世の側近たちからなる皇帝政府は、イスタンブール占領から約半年後の同年8月に、フランスで新たに「セーヴル条約」を締結し、連合国はその内容に従ってオスマン帝国の各地を分割占領してしまいます。

しかし、この時連合国の中で、条約の取り決めをはるかに上回る領土を主張した一国がありました。それはトルコの隣国ギリシャです。ギリシャは国王コンスタンティノス1世主導の下で、北はブルガリアの南半分から、南はトルコ本国アナトリア西部と地中海のキプロス島、そして東は黒海沿岸地域までも「ギリシャ領」であると主張します。


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上がギリシャが主張した領土と、当時のギリシャ国王コンスタンティノス1世です。(1868~1923)彼はギリシャ王国第2王朝グリクシンブルグ朝2代国王です。ギリシャは1832年にドイツのバイエルン王国出身の王オソン1世を初代国王とする王国としてオスマン帝国から独立しましたが、そのオソン1世が国民に不人気で1863年に廃位され、その後継として列強諸国に擁立されたのが、デンマーク王国の王家で現在も続くグリュックスブルク家(ギリシャ語で「グリクシンブルグ」となります。)出身で彼の父である先王ゲオルギウス1世でした。

ギリシャ王としては3代目に当たるコンスタンティノス1世は、若い頃からドイツの士官学校で学び、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の妹ゾフィーを王妃に迎え、大変な親ドイツ派でした。当然の事ながらドイツ流の軍事拡大思想の影響を強く受けており、その彼が目指したのが、王家は違えど初代国王オソン1世が唱えた「大ギリシャ主義」によって、かつてオスマン帝国に滅ぼされた旧ビザンツ帝国の領土をトルコから奪い返し、かつてのビザンツ帝国を現代に復活させようとするものでした。

1919年5月、ギリシャ王コンスタンティノス1世はその「夢」を実現させるべく、20万の大軍をトルコ最大の港湾商業都市イズミールに上陸させ、ここを拠点としてアナトリア侵攻作戦を開始します。「希土戦争」(きとせんそう。ギリシャ・トルコ戦争)の始まりです。これは明らかに講和条約に違反したギリシャによる「侵略」でしたが、この事態にイスタンブールのメフメト6世らオスマン皇帝政府に成す術などありはしませんでした。ギリシャ軍はトルコの各都市を次々に占領、トルコ領内の奥深くに進撃して行きます。


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上の1枚目は港湾都市イズミール市内を行進するギリシャ軍で、2枚目はトルコ領内を進撃するギリシャ軍部隊です。(それにしても、歴史とは本当に怖いものです。思い起こせば、かつてギリシャはオスマン帝国に数え切れないほど侵略され、500年もの長い間支配され続けてきた歴史がありますが、今度はそのギリシャがオスマン帝国(もはや「帝国」などと呼べるものではありませんが。)を侵略しようとしているのです。進軍するギリシャ軍将兵たちは、さぞや先祖たちが苦しめられたオスマン帝国への「復讐心」と、それを実行出来る喜びに湧いていたのではないでしょうか?

しかし、この危機に立ち上がった1人のトルコの将軍がいました。その名をムスタファ・ケマルといい、かつて第1次大戦中に帝都イスタンブールに迫った20万の連合軍を撃退した「ガリポリの戦い」の英雄です。ケマルは連合軍がイスタンブールに進駐するはるか以前に首都を離れ、各地に分散していたオスマン軍の司令官たちや、その配下の残存部隊を集結させつつアナトリア東部に潜伏していましたが、その後1920年3月に連合軍がイスタンブールを占領すると、大挙して脱出してきた帝国議会の議員ら旧帝国政府グループと合流し、アナトリア中央部アンカラに「大国民会議」を開いて、ここを本拠地とし、イスタンブールの皇帝政府に代わる「正統な政府」の樹立を宣言して、その議長に就任します。


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上がそのムスタファ・ケマルです。(1881~1838)彼はこの時40歳で、無力なイスタンブールの皇帝政府よりはるかに強力な政・官・軍を備えた政権を打ち建てたのです。これによりトルコはギリシャの侵略と戦う態勢を整える事が出来る様になりました。

ケマルは自らオスマン軍を率いて各地を転戦、この時オスマン軍は大戦終結と敗戦により兵力が大きく減り、ケマルの率いる軍は総勢5万程度とギリシャ軍より圧倒的に不利でしたが、この5万のオスマン軍は連合軍に降伏する事を拒否した筋金入りのオスマン帝国軍の精鋭であり、ギリシャ軍を次々に撃破して行きます。

一方反撃に転じたトルコ軍の攻勢の前にギリシャ軍は敗退を重ね、ついに1922年9月にイズミールが陥落、ギリシャ軍は撤退します。こうして3年半続いた希土戦争はトルコの勝利に終わったのです。(両軍の損害はギリシャ軍の戦死者2万4千に対し、トルコ軍は戦死者1万1千でした。また、この戦争を起こした張本人とも言うべきギリシャ国王コンスタンティノス1世は、軍のクーデターにより敗北の責任を問われて退位させられ、シチリアに亡命してゲオルギウス皇太子がギリシャ王位を継承します。)

ケマルの活躍で希土戦争はトルコの勝利に終わりましたが、首都イスタンブールでは大きな不満と不安にさいなまれる人物がいました。その人物とは皇帝メフメト6世です。なぜなら皇帝はアンカラに独立政府を樹立したケマルを裏切り者の「逆賊」とし、皇帝に不変の忠誠を誓うわずかに残っていた皇帝直属の近衛部隊をもってケマル一派を弾圧していたからです。

一方希土戦争に勝利したケマルは、これを機に自分のアンカラ政府をトルコの正統な唯一の政府にする事を目論み、イスタンブールの皇帝政府を廃止するための動きに出ました。彼は1922年11月の大国民会議で「帝政の廃止」を決議させたのです。これによりイスタンブールの皇帝メフメト6世は廃位され、同時にオスマン家は皇帝家から一市民へと一夜にして転落させられてしまいます。これに対し、メフメト6世は何もする事は出来ませんでした。


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上の1枚目は帝政廃止により廃位され、ドルマバフチェ宮殿を退去するメフメト6世です。オスマン皇帝家に仕えて来た家臣や軍人たちが皇帝に対して最後の敬礼をしています。2枚目は宮殿を出た後、地中海の真ん中に浮かぶイギリス領マルタ島に亡命するためにイギリスの軍艦に乗り込むメフメト6世。(階段を下りる最も下の人物。)夕日に照らされ、肩を下ろしながら疲れた様子でイスタンブールを後にする姿は正に「落日の帝国」そのままですね。そして皇帝以外の他のオスマン家一族もその全てが国外追放となり、こうして1299年に初代オスマン1世が国を興して以来、36代623年続いた驚異のイスラム国家オスマン帝国はここに滅亡したのです。

帝政を廃止してオスマン家を追放したケマルは、およそ1年後の1923年10月に総選挙を実施、圧倒的多数で当選して新生トルコ共和国の成立を宣言し、自らその初代大統領に就任します。トルコに新しい指導者が誕生したのです。


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上が初代トルコ大統領となったムスタファ・ケマルです。大統領として強大な権限を握った彼は、その後トルコ共和国をオスマン帝国とは違う全く新しい国とするために次々と改革を実行して行きます。その手始めとして彼が手を付けた最初の仕事は、周辺国との国境線をはっきりと画定する事でした。ケマルはメフメト6世が連合国と結んでしまったトルコにとってあまりにも不平等なセーヴル条約に代わる、新たな条約を連合国との間で結ぶ旨を打診し、連合国もこれを受け入れます。(これはケマル率いる新生トルコがオスマン帝国時代よりも国家としては強固であり、大戦で大きく疲弊していた連合国も、これを不服として大して実益のないアナトリアに執着してトルコと無用な争いをする余裕は無かったからです。)

トルコと各国は、1923年7月にスイスのローザンヌで新たな講和条約を正式に締結します。


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上が「ローザンヌ条約」で確定したトルコとその周辺国の国境線です。(これが現在のトルコとなります。ギリシャやブルガリアとの国境線の紫色の部分は「非武装地帯」です。)

この条約でトルコはシリア以南のアラブ地域と地中海のキプロス島を失いますが、ケマルはトルコの関税自主権を取り返し、さらに敗戦国としては異例の賠償金の大幅減額(その支払いはトルコ経済の回復まで延期。これはつまり「賠償金の支払いは無し」という意味です。莫大な賠償金を課され、荷車1台に山と積んだ札束でも「パン1個」しか買えないほどのハイパーインフレに陥ったかつての同盟国ドイツとは大きな違いですね。驚)に成功します。

さらにこの条約がユニークなのは、ギリシャとトルコ2国間で「住民交換」が行われたという点です。これは当時トルコ領内にいた100万人のギリシャ正教徒をトルコからギリシャに移住させ、同時にギリシャ領にいた50万人のイスラム教徒をギリシャからトルコへと移住させるというもので、これまで繰り返されてきたキリスト教とイスラム教の宗教対立を避けるために両国間の合意で行われたものです。

ケマルはトルコをイスラム教とは無縁の国家とするため、憲法を改正して政治と宗教は別のいわゆる「政教分離」を行い、またトルコ語の表記に極めて使いづらいアラビア文字を廃止し、アルファベットに切り替えるなどの文字改革を実行、さらにトルコ人といえば必ず思い起こさせる「ターバン」やトルコ帽子を廃止、女性のヴェール(イスラム圏の女性が顔を隠しているあれですね。)も「イスラムの遺物」として排除させます。司法制度もスイスの民法をそのまま導入し、それまで名前だけであったトルコの人民に「姓」を付けるよう義務付けるといった社会、文化改革を推し進めていきました。


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上は視察先でアルファベットの読み書きを自ら教える「ケマル先生」です。もちろんこれは政治家としての彼の「パフォーマンス」ですが、常に自らが率先して指導するダンディなスーツ姿のケマル大統領はトルコ国民に熱烈に支持され、彼自身が国民に義務付けた「創姓法」の施行に伴い、国民の代表であるトルコ国民議会はケマルに「アタテュルク」(トルコの父)という姓を贈ります。(これはケマルにとって、かつて帝政時代に皇帝から送られた「パシャ」の称号よりはるかにうれしいものだったでしょうね。笑)

しかし、強力なリーダーシップでトルコを新しい道へ導いた偉大な政治家であった彼も、ある誘惑に勝てなかった一人の「人間」でした。その偉大な英雄である彼がどうしても勝てなかった誘惑とは「酒」でした。

もともと大変な酒好きであったケマルは、大統領になってからの激務でさらに飲酒量が増え、それが彼の寿命を縮める事になってしまったのです。1938年11月、トルコ救国の英雄にして国父ケマル・アタテュルクは、イスタンブールのかつてのオスマン皇帝の宮殿であるドルマバフチェ宮殿の大統領執務室で57歳で亡くなります。死因は過度の飲酒による肝硬変でした。

さて、帝政廃止によって皇帝の座を追われたオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世とオスマン家の人々はその後どうなったのでしょうか?

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まず、メフメト6世ですが、彼は1922年11月の帝政廃止により一旦イギリス領マルタ島に亡命した後、さらに地中海に面したフランスとの国境に近いイタリアの港町サン・レモに移り住み、4年後の1926年に65歳で亡くなります。(しかし、帝国の皇帝として権力と戦争に翻弄されるよりも、彼にとってはその方が良かったのかも知れません。重すぎる重圧から解放され、一市民として静かな余生を過ごせたのでしょうから。遺体は彼の偉大な先祖である帝国最盛期の第10代皇帝スレイマン1世が、シリアの首都ダマスカスに建てたイスラム寺院に埋葬されました。)

メフメト6世には実子がいなかったため、オスマン家当主すなわち帝位は、その従兄弟に当たるアブデュルメジト2世が継承します。(帝国が滅びたのに「帝位継承」というのもおかしな話ですが。笑)その彼も、第2次大戦中の1944年8月に亡命先のフランス・パリで亡くなり、その後オスマン家当主と帝位継承権は、世界に散らばったオスマン家一族間で親等の近い人物の順に受け継がれていきました。

そして21世紀の現在、かつてのイスラム世界の覇者、オスマン帝国皇帝の正統な後継者にしてオスマン家当主は第44代バヤジット・オスマン氏が継承し、その系譜を未来につないでいます。


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上が現オスマン家当主であるバヤジット・オスマン氏です。(1924~)彼は第31代皇帝アブデュルメジト1世のひ孫にあたり、第44代オスマン皇帝として「バヤジット3世」を名乗っています。(もちろん名目上の話です。笑)ただし、ご本人も90歳を越える高齢でお子さんもいない事から、次の後継者が別のオスマン家一族から選出される事でしょう。

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上は現在のオスマン家一族の方々ですが、これはほんの一部の人たちです。(中央にいる白いシャツのご老人で、何代目かのオスマン皇帝の血を引くどなたかとそのご家族の様ですが、お名前は分かりませんでした。申し訳ありません。汗)オスマン家はご覧の様に子孫が大変多く、後継者に困る事はない様です。(ここで全く個人的な願望で恐縮ですが、わが天皇家も太平洋戦争敗戦時に臣籍を降下された旧宮家の方々に皇族として復帰して頂き、将来の天皇にお成りになる悠仁親王殿下をお支えして、皇統の存続と皇室の伝統と繁栄を未来につないで頂く事を「切に切に」望んでやみません。)

約半年間に亘って当ブログでお送りしてきた驚異のイスラム国家、オスマン帝国の興亡の歴史はここで筆を置きたいと思いますが、いかがだったでしょうか?(このテーマも全35回の長編なので、歴史好きの方の暇つぶしの読み物として、または何がしかの調べもので検索される方の助力の足しになればうれしい限りです。)

次回からはまた別のテーマで新シリーズを書こうかと思っておりますが、完全に自分の個人的な趣味と気分でテーマを選んでいるので、短編か長編かまだ未定です。

次回をお楽しみに。
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