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三無事件 ・ 知られざる日本クーデター計画

みなさんこんにちは。

平成27年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

当ブログ開始以来、ヨーロッパ関連の歴史ばかり書いてきたので、今回からは気分を変えて日本に舞台を移し、新たなテーマとして「知られざる日本の秘密計画」と題し、われわれ日本人があまり知らない戦後日本の「闇」の部分にスポットを当てた短編ものを2つほどお話したいと思いますので、興味を持たれた方はお立ち寄りください。

みなさんは「クーデター」という単語を時折国際ニュースなどで耳にされる事と思います。これは元は「国家への攻撃」を意味するフランス語で、大抵は政情不安な発展途上国などにおいて、その国の軍隊の司令官などが武力で現政府を倒し、時の大統領ら政府首脳を逮捕、投獄、処刑または追放して(最近は事前に察知して早々に脱出しているケースが多い様ですが。笑)全権を掌握し、その後に形ばかりの選挙をして、圧倒的多数の得票を得て自らが大統領なり首相となって独裁政権を開くというパターンを繰り返している場合が多いです。

わが国や欧米諸国をはじめ、法と秩序、高い知識と教養を持つモラルの高い国民によって形成された民主主義を基本とする今日の先進国ではもはや起こり得ない、少なくとも第2次世界大戦後はこれらの国では一度も起きていない、まさに旧世代の過去の異物というべき無法行為でしょう。

しかしそのクーデターが、かつて一部の極右集団によって戦後のわが国で実際に計画され、あわや実行される寸前であったという事実を、一体どれだけの人がご存知でしょうか? 今回はその知られざる幻の日本クーデター計画「三無事件」(さんむじけん)についてスポットを当ててみたいと思います。

事の起こりは1960年代(昭和30年代)に始まります。

当時日本は、1960年(昭和35年)1月にアメリカとの間で結んだ2国間の軍事同盟、つまり「日米安全保障条約」をめぐる一連の大騒動で国内が揺れに揺れていました。この日米安全保障条約というのは、みなさんもニュースなどで飽きるほど耳にしてきたものと思いますが、改めて簡単に説明させてもらえば、東西冷戦下における日米両国の安全保障のために、日本にアメリカ軍が駐留する事(もちろんその駐留費用は日本の負担です。みなさんもご存知の「思いやり予算」ですね。確か毎年1千億円程度払っているはずです。)を定めたもので、10年を期限とし、その後は一方の希望により1年前の予告を条件として条約を破棄出来るというものです。(しかし、今まで日米両国で1度もそんな話が出た事はありませんので、この条約は「自動延長」という形で現在も有効であり、同時に日米関係の基本となる最も太いパイプであるといえるでしょう。)

問題は、先に述べた駐留経費の負担やアメリカ軍への基地の提供、事実上の治外法権など、ただでさえ日本側に不平等な内容が多いのに、当時この条約を結んだ自民党の岸信介内閣が、あまり慎重な審議をせずに強行採決を行って法案を通してしまった事に端を発します。まだ太平洋戦争敗戦から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かった事や、岸首相がかつて東條内閣の閣僚であった事への反感があったことも影響し、

「安保条約は日本をアメリカの戦争に巻き込むものだ!」

として政府のやり方に反発する野党議員、労働者や学生、市民、それに批准そのものに反対する社会党や共産党などの国内左翼勢力が一斉に反政府運動を展開し、その影響はたちまち全国に飛び火していきます。


当時の日本は高度経済成長が始まる直前であり、国民生活は現在とは比較にならないほど貧しく、質素なものでした。人々はより豊かな暮らしを目指し、明るい未来を信じてただひたすら懸命に働き、頑張っていた時代です。ちなみにこの安保闘争が起きた年、昭和35年度のわが国のGNP国民総生産は13兆6千億円程度だったそうです。(現在わが国では、平成以降国の実体経済を表す指標としてGDP「国内総生産」という数値が使われており、その額は景気の変動によって上下するものの、だいたい500兆円前後ですが、昭和時代はこのGNPという数値が使われていました。その違いはGNP国民総生産が海外での生産活動による利益分を含んでいるのに対して、GDP国内総生産はその名の通り、それを含まない純粋な国内における生産活動の利益のみを表すという点です。)

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上は昭和35年頃の東京の一般庶民の姿です。この時代は大卒の公務員とサラリーマンの平均月収がおよそ1万2~3千円程度だったそうで(現在は19万5千~20万円程度でしょうか。)数字だけ見れば15倍程度になっていますが、当時と今とでは当然物価が全く違うため、単純な比較は出来ません。およその目安としては、10キロのお米がその当時850~900円で買えたそうで、現在は3000~3500円くらい(もっと安いお米もありますが。笑)ですから、この時代の日本人は、現代の日本人のおよそ4分の1くらいの収入(つまり家庭持ちで月収30万円の人は7万5千円程度、という事は物価もだいたい4分の1くらい?)で暮らしていた計算になりますね。いかに貧しくつつましいものであったかご想像頂けると思います。

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上は1960年(昭和35年)6月に国会議事堂前に集結した日米安保条約に反対するデモ隊(こんなの現代の日本では有り得ませんね。驚)と、当時の岸信介首相です。(1896~1987)彼は東京帝国大学(現東京大学)法学部出身でエリート官僚の道を歩み、戦前の東条内閣で商工大臣、戦後には外務大臣と首相を歴任した重臣で、その独特の容貌からまたの名を「昭和の妖怪」といわれた人物ですが、この安保闘争を招いた責任を問われて辞任に追い込まれ、以後は政治の表舞台に顔を出す事は無くなります。(現在の安倍信三首相の母方の祖父に当たる人です。)

この騒然とした国内情勢の最中で、全く別のグループが日本の将来を憂い、彼ら独自の主観で日本のために行動を起こすべく極秘の計画を進めていました。そのグループとは、旧日本帝国陸海軍の元将官、将校や、かつての軍需産業の経営者を中心とする極右・超国家主義者たちです。


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写真上から1枚目が、事件の実質的な首謀者である長崎県の造船会社「川南工業」社長の川南豊作、2枚目が元帝国陸軍少将の桜井徳太郎、3枚目が元帝国海軍中尉の三上卓(彼は戦前の5.15事件で、「話せば分かる。」といって思いとどまらせようとした時の犬養毅首相を「問答無用!」といって射殺した反乱グループのメンバーです。)

彼らは他に、元陸軍士官学校出身の若手メンバーを中心として右翼思想研究組織「国史会」を立ち上げ、さらに彼らにとって「兵隊」として使うために、川南工業の従業員や、もっと若い世代の学生たちからなる「三無塾」を作らせ、その「極秘計画」実行に必要な人手を集めていきます。

その極秘計画とは、「国家革新」を企図し、武力で国会議事堂を占拠、その際辞任した岸信介の後を継いだ池田勇人首相をはじめとする政府首脳らを暗殺し、首都東京に戒厳令を敷いて、臨時政府を樹立するという途方も無い荒唐無稽な計画でした。その具体的な内容は以下の様なものです。

1 昭和36年の第40回通常国会開会式当日(12月上旬)を決行日とし、自動小銃、拳銃、手榴弾などで武装した川南工業従業員や、三無塾の塾生ら配下の手勢およそ200余名をもって全閣僚が揃った開会中の国会を占拠する。

2 閣僚ら政府要人と議員を全員監禁し、抵抗、逃走を図る者は容赦なく射殺する。さらにマスコミには報道管制を敷き、自衛隊には中立を働きかけ、また鎮圧に出動するのを内部から押さえて協力させる。その後で戒厳令を敷き、「失業者、重税、汚職のない平和国家」のスローガンを掲げた臨時政府を樹立する。

ちなみにこの事件の名である「三無」とは、この時に彼らが掲げるつもりでいた3つのスローガン「無税・無失業・無戦争」の3つの「無」からきています。(一体彼らはどうやってこれらを実現するつもりでいたのでしょうか? 言うだけなら簡単ですが。笑)

それにしても、なぜ彼らはこの様な誇大妄想とも言うべきクーデター計画を立てたのでしょうか? それは前段でお話した当時の日本の国内情勢が大きく影響しています。先に述べた安保闘争が全国規模で拡大し、その勢いは政府をも転覆しかねない激しいものでした。そしてその運動の先頭を旗を振って先導していたのが、共産、社会党を支持する左翼系グループでした。

「このまま放っておけば、日本は左翼に牛耳られ、共産化してしまうかもしれない。その前に我々憂国の士がこの危機から日本を救うのだ。」

桜井、三上らの元帝国軍人たちはその掲げる3つのスローガンなど建て前で、本音は純粋に反共とかつての日本、すなわち旧大日本帝国の復活を願っていたのです。一方、この事件のもう一人の首謀者である川南工業社長の川南豊作は、それと同時に軍需産業経営者として別の野望を持っていました。というのは、彼の経営していた会社「川南工業」というのは造船会社であり、戦中は軍の求めに応じて大量の船舶を建造し、急成長を遂げた一大軍需コンツェルンだったからです。

太平洋戦争中、日本海軍は多くの船舶をアメリカ潜水艦によって撃沈され、物資の輸送に欠かせない船舶の不足に悩んでいました。そこで戦前に製缶業で財を成した川南はその経験を元に、ベルトコンベア式で続々と船を建造する案を海軍に提出します。本来ならばこの様な建造法など認められるはずがありません。しかし、海軍の船舶不足は日に日に悪化し、まともな作戦も立てられないほど海軍は追い詰められていきます。

やむなく海軍は川南の案を許可し、大量の船舶の建造を彼の会社に発注します。川南工業はその求めに応じて大量の船舶を建造し、最盛期には彼の会社は従業員1万5千人を数え、一時は日本における造船最大手である三菱重工業の造船量に匹敵する船舶を建造するほどの大躍進を遂げたのです。


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上は彼の川南工業が建造した船舶の1隻で、後に初代南極観測船として有名になる「宗谷」です。この宗谷はそもそも1936年(昭和11年)にソ連からの注文で同型船2隻とともに建造された特別設計の砕氷船で、川南工業は他にも多くの輸送艦や輸送船を建造しました。この時建造されたこれらの輸送船は「戦時標準船」と呼ばれるものですが、実際は粗製乱造で急造されたために船体のあちこちに無理がたたって故障が多く、速度も遅い粗悪な船でした。

この時期は川南にとって人生最良の時だった事でしょう。しかしそれはわずか2年ほどの短くも儚い「夢」で終わります。戦局の悪化と敗戦によって造船の受注は大きく減り、戦後の昭和25年についに川南工業は倒産してしまったからです。

川南はクーデター成功の暁には、当然「臨時政府」で真っ先に自衛隊の実権を握るであろう桜井ら元軍人たちから、自衛隊の艦船や武器弾薬の調達を独占的に請負い、自分の築いた川南工業を復活させて、再び戦時中のあの時の「夢」を再現しようとこのクーデター計画を主導したのです。そのために彼は、この計画で全般の企画と資金・武器の調達を担当します。

川南は戦前に築いておいた政界へのコネクションを通じ、自分の部下数名を何人かの国会議員の秘書として送り込み、国会議事堂内の電源・通信機器の配置や、警備員の数を調べさせ、いざクーデター決行の当日には、これらの者たちの手引きと合図で突入する手筈を整えていました。

こうして彼らが着々と極秘に計画を進めようとしていた矢先の昭和36年12月12日、計画は思いもよらぬ形で露見し、このクーデター計画は未遂に終わります。この日、川南、桜井、三上らの頭目を筆頭とする組織のメンバー13名(最終的に32名)が一斉に警視庁公安部に逮捕されたからです。

それにしても、なぜ警視庁公安当局は彼らのクーデター計画を事前に察知出来たのでしょうか?

実は川南ら国史会の計画には、自衛隊の協力が必要不可欠でした。その自衛隊の協力を得るのは、桜井や三上ら元軍人たちの仕事で、彼らは「軍人同士」のよしみで旧知の自衛隊幹部らに「臨時政府」樹立の暁には自衛隊を中心に据えて国家権力を握るためにその働きかけを行っていたのです。しかしこれが、そもそも彼らの失敗でした。

ところで、世界中どこの国でも、軍隊の中には「憲兵隊」というものがあります。これは簡単に言えば「軍隊の警察」で、軍内部におけるあらゆる犯罪、外国への機密漏えいといったスパイ行為を取り締まるために軍隊を監視するものです。当然わが国の軍である自衛隊にもこれと似た組織があり、現在はこれを「警務隊」と呼んでいます。


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上がその警務隊の隊員たちです。陸・海・空3自衛隊それぞれに警務隊があります。彼らの視線は日々の国防に勤しむ同じ同僚である自衛隊員たちに向けられています。つまり、彼らの主な監視対象は同じ同僚である自衛隊員たちなのです。

この警務隊は上の写真の様に「MP」(ミリタリーポリス)の腕章をしていますが、外国の憲兵隊や戦前の帝国陸海軍の憲兵隊と違い、一般国民に対する警察権の行使は出来ません。また自衛隊内部で犯罪行為や不祥事があっても、現代の日本には旧帝国陸海軍の様に軍法会議や営倉、軍事刑務所といったものも無いので、逮捕した容疑者は検察に身柄を引き渡すだけです。

川南一味のクーデター計画は、どうやら桜井や三上ら元軍人グループが自衛隊幹部に協力を働きかけた事から、その内容の重大さに驚いた幹部の誰かが警務隊に報告し、そこから警視庁公安部が情報を察知して露見したものと思われます。

また彼らの計画自体も、決行の日にちの延期が重なり、また川南らが最初に計画した自動小銃や手榴弾などと言った必要な武器を入手する事が出来ず、使える武器と呼べるものはライフル銃が数丁と日本刀が6~7本という杜撰なものでした。(家宅捜索では、その他に自衛隊の作業衣と戦闘帽が100個、さらに防毒マスク150個に鉄カブト300個などが押収されています。これらはクーデター決起部隊の戦闘服とするつもりだったのでしょう。)

事件発覚後にクーデターのメンバーは「政治目的のため、殺人・騒乱を計画し、その準備をした」として、破壊活動防止法第1号の適用を受けて起訴され、川南とその部下らはそれぞれ懲役2年から1年の実刑判決(桜井と三上など元軍人らは証拠不十分で不起訴。)を言い渡されました。(これほどの大それた国家転覆を企てたにしては刑が軽すぎるように思われるかもしれませんが、その理由は簡単です。彼らはクーデター計画を立ててその準備はしていたものの、実行する前に逮捕された「未遂」だからです。また組織と接触のあった自衛官は34名にも上り、幹部も含めてその全てが中央から左遷されたそうです。)

その後、川南ら組織のメンバーはその多くが2度と社会に顔を見せる事は無く、みな人知れず世間からその姿を消していきました。その後日本は、昭和35年に就任した池田勇人首相の打ち出した国民所得倍増計画(1960年から10年以内に、国民総生産を2倍の26兆円程度まで引き上げるというもので、実際は7年でそれを達成。)によって、高度経済成長の道をまっしぐらにひた走っていきます。それに連れて国民の関心も政治から経済に移り、安保闘争は国民的なものから、一部の学生たちの学生運動に移行していき、さらにそれが究極的なまでに先鋭化した日本赤軍に代表される極左テロリスト組織を生み出します。その彼らの行った数々のテロ行為が、昭和40年代以降日本社会を震撼させていったのは、歴史好きの方ならば良くご存知と思います。

そして事件から50年以上の時を経て、この事件に関わった当時の関係者はほとんどが亡くなり、この幻の日本クーデター計画「三無事件」は、戦後日本の動乱期における瑣末な出来事の一つとして、今や人々の記憶からも忘れ去られようとしています。


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上の写真は事件の首謀者である川南がかつて戦時中に経営していた造船所の廃墟です。驚いた事にこれらは創業者も会社も無くなったのに、つい数年前まで放置されたまま残されていた様です。しかしついに2012年に取り壊され、撤去されて跡地は公園として整備されたそうです。

しかし、かつて50年以上前、この廃墟をアジトとして日本を武力で支配しようとしたある一党の集団がここに集結し、「国家の革新」を合言葉に奇声を上げていた事は紛れも無い事実です。この造船所の廃墟は、過去の亡霊の様な誇大妄想に取り付かれた闇の世界の一群の策謀者たちがわずかな時間に見た鉄の夢を、今の私たちに語りかけてくる様な気がしてなりません。

次回に続きます。
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